白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

living song

2006-06-18 | 音について、思うこと
仕事の内容は違えど、カフカのような境遇にある。





朝から電話がひっきりなしにかかる。
架空請求、訪問販売や契約のクーリングオフ、
多重債務といったことがらに関する相談件数が
ここ2週間ほど急増してきている。





認知症患者によるリフォーム契約締結にはクーリングオフと
民法に基づく裁判所による被後見人認定を推奨し、
皮膚炎患者による高額健康食品購入にはクーリングオフを
推奨し、
家庭教師派遣会社による執拗な高額教材セールスには
契約書面精査の上での契約解除を推奨し、
強引勝つ執拗な脅迫まがいの訪問販売には消費者センターや
警察への相談を推奨する。





多重債務者からの相談に関しては、
出資法上の上限利率が年率29.2%と規定されていても、
利息制限法上に定められた上限利率を(ex,100万円以上の
融資では年率15%)超える分の返済義務は無いことを案内し、
貸金業規制法に基づき、弁護士もしくは司法書士を仲介者として
債権者に対して通知を行い、債務者に対する直接の取立てに対する
停止措置をとった後(違反には罰則規定がある)
利息制限法に基づく債務の引きなおし計算を行うと共に
融資契約時の交付書類・契約書類・案内事項等を精査して
融資の現状がみなし弁済規定を満たさないことを確認し、
超過返済分を元本へと戻入して計算したものを債権者に通告し
債務者に返金させる措置をとることを推奨する。





また、中心市街地活性化法や大規模店舗立地法改正に伴い、
自治体レベルでの市街地活性化施策や基本計画が
大きな見直しを迫られる中で、
会計検査院がこれまでの事業に関する総括的な精査を
遡って試み始めているため、それに伴う調査書類の作成をする。
過去の書類を眺め見ていると、日常生活のなかでは知ることの
無いような(もちろん開示対象である)制度や施策の存在および
その実行についての詳細を眼にする。
各種助成・補助事業については、多くのことを知る。





新聞記者の取材を受けることもある。
彼らは「正確で公正な報道と権力の監視、自由な言論の場の設営、
生活文化に有益な情報の紹介、問題提起を通し、基本的人権の保障、
後世に向けた社会の発展に奉仕する、倫理的な使命」を標榜する。
しかし個々のレベルでは、彼らなりの権勢誇示意識・特権意識が
瞬間的に垣間見える。
こと公職者に対しては露骨な反感や敵意、あるいは侮蔑、画一的な
偏見(社見?)を以って取材に訪れるが、
それに触れれば途端に自分の生活に関係するようなデリケートな問題を
持ち出して話をすれば、とたんに保守的で大人しく日和見の姿勢をとる。





僕にからかわれていることに、彼らは気付いているだろうか。





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早く帰れる日の終わりには図書館で読書をし、
ルソーの「孤独な散歩者の夢想」をぺらぺらとめくる。
自己に対する不信と被害意識、自己愛と自己迫害の
背反性に引き裂かれているうちは、
自己にのみ拘泥し、沈潜して濃密なロマンティシズムの
ぬるま湯の中に逃避してしまうことも可能だろうが、
日常の中に、労働者としての生活と、表現者としての生活を
二重に設定しなければならない状況においては、
先述したような背反性は思考の停止へと昇華されもし、
24時間の枠内で、器用で機械的な人格の勤務交代が
行われるように矯正されもする。





浪漫性が、こうした二重生活の緩衝材として、
一種の神話性を帯びながら存在しているうちは、
起伏のある生活を円滑に日常化してしまえるのだろう。
それはとらえどころがないがゆえに、蜂の巣のように
構造的で、枠組みだけは強固であるくせに、
無数の陥没と欠落をもっている人間の頭脳のはたらきへと
さまざまにぬりこめられ、埋め合わせられているのだろう。
浪漫性を見てくれだけの滑らかさと取れば、徹底して
それを排除して、構造の形状を明らかにするだけのこと。
ただし、人体に骨格はあれ、脳髄に骨格は無い。





カフカは不器用な人間だったから、

「恐るべき二重生活。逃げ道は、狂気のほかにあるまい」

と言ってみたり、

「勤めをやめない限りわたしは駄目になってしまう。
 溺れぬよう、首を高く掲げなければ」

と言ってみたり、

「事務所では義務を果たしている。しかし、内面では
 義務を果たしていない」

と言ってみたりして、自らの脳髄の骨格を求めて
(そんなものはどこにもないのに)煩悶し苦悩する。





自らの境遇を呪詛してみても、カフカは日常の勤務や
生活に疲れている。
疲労が文学を生む。しかし生活が、文学を断章に終わらせる。
幸福への渇望を、文学が阻む。





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帰宅して、食事を取り、一服をして、
パソコンを開き、Youtubeを検索したり
しているうちに、
眠りたくなってきて、眠ってしまう日を除いては
ピアノの上に指を置く。





疲労の度合い、体調(自律神経機能の円滑な運行)に
応じて、立ち位置も、射程も決まる。
音像の考察の際に、ポエジーの網を用いて消え行く音を
絡め取るようにして、絶望的でむなしい頭脳の逍遥を
長らく試しているこの僕でも、理知的な構成無しには
音を演奏へと運び込むことも難しいし、





演奏の場面においては、自分が出した音(あるいは
出してしまった音)に対して、
どんな音を寄り添わせ、あるいはぶつけることによって
落とし前をつけるか、という作業に追われるうちに
指か頭脳のどちらかが落伍して、しまいには周回遅れの
無名ランナーのような、無残でこっけいですらあるような
努力を描き出してしまうこともあるわけだから、
音を投げ出して、じっとうつむいてしまうこともある。





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けれど、疲労や集中の限界が突然音を断ち切ることや、
放擲された音が、それまでの韻律を激しく打ち消して
しまうことが、
演奏が聴覚の助けを借りて生み出してしまった音空間の歪みを
元に戻すことにはならないことくらいは誰でも知っている。
それが、理知的に行われていようがいまいが、
事物に対する人間の認識とその出力系統の連関自体のありかたを
激しく揺さぶることも無いだろう。
人間に対して、人間は無力である。




そうした人間の限界、自らの臨界を明確に把握しながら、
まるで、音楽を断念するために楽器に向かい、
CDを聴くような生活をつづけていると、
カフカの言葉にも親近感を抱きつつも、
どこか、違和感を覚える。





音楽ははじめから断章以外に成りえない、
物理現象として生まれなおさねばならないものであることが
音楽と文学の決定的な違いである、と
阿呆のように言い切ってしまえればよいのだが、
それでは、人間は音をことばにしようとして、
ことばを音にしようとして、
そのあいの子として生まれた「歌」がどこかへ失われる。
「歌」は至上のロマンティシズムではないのだろうか。
一切の浪漫性を拒絶するなら、当然、「歌」を捨て去るつもりで
いるのだろうな?





僕には、「歌」をすてることは出来ない。
「歌」の聴こえない音楽が僕を動かしはしないように、
「歌」の聞こえない文学も僕を動かしはしない。





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鼻歌を歌いながら
(それは時にビバップで、時に古賀政男であり
 時にシューベルトであり、ヨイトマケであり)
風呂に入っていて、
その、いつのまにか沸き起こる「歌」の存在に
人間を見つけて、ふと安心する。





『白熱する素朴の前にあっては、あらゆる精密な思想も、
 それが思想に過ぎない限り、すべて色蒼ざめて見える。
 高らかに生の歌を歌い、勝ち誇っている死に対して
 挑戦するためなら、失敗し、転落し、奈落の底にあって
 呻吟することもまた本望ではないか。
 生涯を賭けて、ただひとつの歌を―それは、はたして
 愚劣なことであろうか』
                  (花田清輝)





かの渋沢龍彦は酔うとかならず軍歌を歌ったという。





僕はといえば、秘めた歌を、呟くように歌うだけだ。
複数の生活を、あやし、眠らせるために。

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