白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

The Sound Of Silence

2006-03-01 | 純粋創作
どうにも腰が痛くて、半日を横になって過ごした日の夜、
そのまま翌朝まで眠ってしまおうとしたベッドの中で、
キース・ジャレットのブレーメン・ソロのモティーフが
頭蓋骨の内側に突如として焔立った。
Aのスパニッシュモードだった。
やがて平均律の水盤に、緋色のマーブル模様をとなって
垂らし込んだように広がった緩やかな波紋が、
温い毛布に包まっているぼくの身体をひどく疼かせた。





ぼくの腰痛、ピアノを弾く時の身体の歪みから生まれた。
響かせ、放とうとする音に対して、最もふさわしい形を
ピアノという楽器をつかって与えようとするときには、
それに最もふさわしい力を確実に鍵盤に与えねばならない。
腰を支点に、上半身を波打たせ、歪め、縮ませ、伸ばし、
強張らせ、緩ませ、時には無理な負荷を身体にかけてまで、
力を指先の一点に集めようと試みる。
そんな無理がたたってか、冬になると、ぼくの腰の痛みは
ほとんど耐えられないものになるのだった。





時には、ピアノが自分を、もしかするとこころまでも
歪めてしまうのではないか、と思うこともあった。
けれど、身辺に音のかけらも楽器も一切ない状況で
不意に左右のこめかみの辺りから、
旋律が宝玉のようにして零れ落ちてきて、
頭蓋天球の内側に乱反射するようなことが起こるとき、
ぼくは響き渡る自分の存在を聴きながら、自分自身を
さながら光、色、音の渾然たる溶鉱炉に見立て、
それを苦しみつつも、喜ぶような気持ちになるのだった。





いま、ぼくを通り抜けたスパニッシュモードは、
鋳込まれる器を求めて熱くたぎる銑鉄のような音の奔流を
もたらした。
こんな激しい揺さぶられ方をしたことは記憶になかった。
鍵盤を求める指から、さながら心音が聴こえるようだった。
溢れ出るイメージを音にしたいという衝動を抑えられずに
嵐のような時間が過ぎ去るのを耐え忍ぶ術はない。
もしこの世から音楽がなくなってしまえば、
自分が再び作り出そうとするだろう。
だからこそ、ぼくは運べる状況にある限りは、
自分の身体をピアノの前に運ぶのだった。





ところが、重くじんじんと疼く身体を引きずるようにして
鍵盤に差し向かわせるやいなや、
ぼくを導いたはずの灼熱は、ぼくを置き去りにするように
冷え切ってしまった。
ぼくはしばらく抜け殻のように、ピアノの前に座っている
ほかになかった。
こんなに強い霊感の訪れは経験したことはなかったのに、
それが一瞬にして失われてしまったことへの言い尽くせぬ
虚脱と、この満たされぬ思いを贖うには、
あの光眩いような音の旅程を捕まえてなんとかそれを辿り、
化石のようでもいいから、形にしてみる以外にはない。





ぼくは海の底に沈んだ布地を絡め取るように重い腕を上げ、
羽毛を舞い落とすように指を静かに下ろし、
緋色の水盤の記憶の痕跡を、灰をそっとなぞるようにして、
Aのスパニッシュモードを、指で鍵盤へと映した。





***************************





耳に届く音と、胸に響く音、指に伝わる音のそれぞれは、
ピアノを弾く身体のなかにさまざまにあらわれる。
人間の感覚は、おしなべて震えに由来している。
だから、空気の震えが、光の震えにも、物質の震えになり、
やがて、こころの震えへとかわっていくのだろう。
それぞれの音には異なった色があり、温度がある。
10本の指から胸腔へと伝わる震えがあり、
鼓膜から頭蓋へと、さらに胸へと折り返す震えがある。
トランペットにも、指から伝わる震えがあるように、
唇から伝わる震えがあるように。
鼓膜の振るえだけではなく、唇の振るえを聴くとき、
音がひととして立ち上がり、生きたものとなる。





精神病のケアの方法に、患者の全身を暖かくて
肌触りのよい布で包んで全身を撫でさする療法がある。
その施術を行っているとき、看護している側のひとが、
時折、泣き崩れてしまうことがあるという。
撫でさすっているうちに、その患者の苦しみが
自分のてのひらから自分の全身へと共鳴し、共振して
くるのだという。
自分の心拍数や呼吸数、その深浅までが、患者のそれと
まったく同調しさえするのだという。
このとき、看護をしたひとは、患者の苦しみを、
「指で聴いた」のかもしれない。





そんなことを思いながら、ぼくは舞うようにして
手のひらを返しながら、鍵盤をめぐらせた。
そのとき、すっと、腰のあたりに温みがさした。
Aのスパニッシュモードは、EフラットとGマイナーの
瑠璃色の交互の揺らぎのなかに沈み込んでいく。
人肌ほどの温度を持つ安らいだ空間のなかを
泳ぐようにして演奏をつづけているとき、
不意に、ぼくから去っていった恋人の匂いがよみがえった。
彼女の面影が、ぼくの頭蓋の暗闇に点燈した。
一瞬の出来事だった。





*************************





彼女はぼくの家に泊まりに来ると、
ぼくの腰の痛みを少しでも和らげようとして、
よくマッサージをしてくれた。
そのたびに、彼女はぼくをうつぶせに寝かせて、
腰の辺りに手をかざしながら、こういうのだった。




わたしの呼吸と、あなたの呼吸を合わせるようにして。
そうすると、互いの気みたいなものが通い合って流れる。
あなたの存在とわたしの存在がつながって、
あなたの痛みも多少はわたしの中に入ってくる。
そうすれば、あなたも少し、楽になるから。





彼女に言われたとおり、彼女の心臓に
同調するように呼吸をしていると、
不思議なことに身体を絡めあっているわけでは
ないにもかかわらず、
互いの存在が浸潤しあっているような、
不思議な感覚になることがしばしばあった。
それは羅針盤も帆柱も失った帆船が、大洋の闇のなかで
嵐に切り揉みされているような時間ではなく、
真珠のような細やかな絹地が、柔らかく織りあわされて
花色を次第に帯びていくような、静かな時間だった。





もっとも、それが過ぎれば、彼女はぼくを花火するように
遊び、深淵へと落ち込んでいくこともしばしばだったけれど、
彼女にとっては、すべてはおそらく終わっていたのだろう。





  「他の人にわからなくたって
   自分の身体に巻きついた紙くらいよめるわよ
   それを楽譜にあたしはあんたを演奏する
   あんたたちという現象は
   あんたたちの肉体をつかってあたしが
   演奏する音楽のことなのよ」






ある日、天澤退二郎の詩を思い返したとき、
ぼくは、はっ、と、した。
彼女が、ぼくの身体を通して、
ぼくの身体を、そしてぼうの心までも歪めようとする
ピアノというものを聴いていたということ、
ぼくのなかに鳴り響く音を、ぼくを揉み解す指先から
聴こうとしていたことに気付いたのだ。
ぼくが思っていたよりもはるかに深く、
ぼくのことを思ってくれていたことに思い至って、
込み上げてくるものをどうすることも出来なかった。





**************************





彼女の面影を点したまま、ぼくはGマイナーの
瑠璃色の珊瑚礁を、しばらくゆっくり泳いでいた。
ぼくは、彼女の今にも孵化しそうな、
やわらかく弾むようだった肌をなぞるようにして
鍵盤に指を這わせた。
さまざまの記憶が、鍵盤のあいだから立ち上った。
静かな寝息、くぐもった声、しなやかな黒髪、
涼しげな首すじ、ミュシャ色の鞄・・・そうして
最後にたどり着いたのは、マグリット色のデニムと
ユトリロ色のトップスを着た、うしろ姿だった。





***********************





そのとき、よろめいたぼくの腰を焔立つような
激痛が襲った。
破裂するように全身を一気に駆けめぐった苦痛は、
ぼくの指先を黒鍵へ座礁させるに十分だった。
瑠璃色の音の海は、一瞬にして消え去った。





どれくらいたっただろうか。
宵闇の冷たい部屋の中に放心していたぼくは、
やおら鍵盤の蓋を閉めると、疼く身体を窓辺へと運び、
カーテンを開け、空を眺めた。
静かだった。
螺鈿細工のような銀河も、粉硝子のような星雲も、
時間の刃のような月も、墨色の厚い雲に覆われていた。





そうしてふたたびピアノに向かい、指が鍵盤に触れた瞬間、
その指先から幸せそうな寝息が聞こえてくるような気がして、
ぼくはそっと指を離し、しずかに微笑した。
そのときぼくは、腰の痛みが嘘のように消えていることに、
はじめて気が付いた。





ぼくは悟った。
彼女が、旋律となって、ぼくのところにやってきたことを。





ぼくの中に旋律として鳴り響くことで、
彼女がもういちどぼくと浸りあおうとしたこと、
ぼくの指をつたって、ピアノとして弾かれることで、
愛されようとしたのだということ。
だから、鍵盤を弾いていると、彼女の記憶が次々に
立ち上ってきたこと。
そうしてぼくに弾かれながら、ぼくの痛みを取り去って、
再び去っていったこと。





鍵盤の上に、糸水銀の針の雨が降り落ちた。
いくら降り落ちても、雨はピアノを弾けなかった。
けれど、傷ましく響き渡るぼくを包む宵闇は
不思議なほどにあたたかかった。
そのなかに繰り返されるぼくの呼吸の音も、
驚くほど平安に満ち、安らいでいた。
それは、最後に彼女を抱いた夜に聴いた、
彼女の呼吸に、よく似ていた。





あの夜、ぼくは一晩中、彼女の呼吸を聴いていた。
それさえあれば、音楽は要らなかった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿