2001年1月12日の朝、ペテルギウスの燈りは
早くも西の空に落ちて尽きつつあった。
僕は阪急宝塚線、石橋駅から始発の電車に乗って、
束の間の暖かな空気に身を預けて、少し眠った。
梅田に着くと、そのまま一目散に阪神百貨店前にあった
チケットぴあを目指した。
朝の6時過ぎに着いてから、10時まで、開店を待っていた。
僕の前にはすでに数人が並んでいた。
時折、凍てつくような風が梅田の地下道を吹き抜けて、
その度にくしゃみをし、身を震わせた。
***************************
僕がキース・ジャレットの音楽に出会ったのは
小学生の頃、家にあった「ケルン・コンサート」の
4曲目を聴いたときのことである。
天啓、とはあのようなことをいうのだろうと思う。
手が震え、やがて全身が震え、これだ、と感じた。
その音が即興演奏によるものだと知ってからは、
彼のような音が聴きたい、という思いとともに、
彼のようにピアノを弾きたい、と切に願うようにもなった。
中学生になって、僕はぽつりぽつり、と、鍵盤を触り始めた。
バイエル、ハノン、ソナチネ、流行歌のコピーをしては
ひとり、遊んでいた。
やがて、僕は大学のジャズサークルに入り、
音遊びと、傍若無人の振る舞いを繰り返すようになる。
キース・ジャレットの「ブルーノート」でのライブ盤を
MDに録音して、それに合わせて、よくピアノを弾いていた。
音感と、リズム感と、和声感を学ぼうとしてのことだった。
しかし、ずぶの素人が彼に追いつけるはずもないのは当然のこと。
是非に、彼の音を生で聴きたい、という思いに駆られるのは
当然の答えだった。
ちょうどその頃、キース・ジャレットは慢性疲労症候群という
難病に掛かり、演奏活動を停止していたところだった。
だから、僕は20世紀のキースを知らない。
僕が知っているのは21世紀のキースである。
既存の文法と構造を解体しつくそうとする青い焔ではなく、
完成度と密度の高いクリシエの燈火としてのキースである。
****************************
2000年の冬、今は廃刊となったスウィング・ジャーナル誌が
キース・ジャレット・トリオの来日と、大阪公演の会場、
チケットの発売日を報じた。
公演日は2001年4月26日、会場はフェスティバルホールだった。
僕は敢えて、売り場に並んでチケットを買った。
できるだけ、あこがれのひとびとの近くにいたい。
そう願って手にした2枚のチケットは、前から4列目だった。
もう1枚は、当時親しかったYに渡した。
実は、この日の記憶は、僕の中にはほとんど残っていない。
音楽を聴くという喜びよりも、
憧れのひとが眼の前にいるという事実でもって、
僕自身、ほとんど舞い上がってしまったからである。
そう、確か、1曲目は「枯葉」だった。
***************************
2004年、トリオは再び来日した。
しかし、この時は、就職後、僕が発病して間もない頃で、
とても、コンサートに行こうという気持ちにはなれなかった。
当時の職場が、フェスティバルホールの目の前だというのに、
四ツ橋筋を渡るだけの気力も、無くしてしまっていたのである。
今となれば、ほとんど信じがたい話だ。
2005年、僕は病気療養のため、不本意ながら故郷へ戻った。
故郷から再出発を、と願い、様々に動いたが、叶わなかった。
誰かと演奏がしたいという思いがおそらく人一倍強い反面、
誰かと演奏することについて全くもって向いていないという、
死んだほうがましとも思えるような自分の音に気がついたのも
この頃のことである。
*****************************
2007年5月3日、フェスティバルホールでの公演で、
僕は6年ぶりに、トリオの演奏に接することが出来た。
演奏された「Yesterdays」について、僕はこう書き残している。
「胸の奥底に暖色の光が点り、
じりじりと心をあぶりだしてくるような感覚に、
身体が溶け出していくような時間が過ぎて、
焦がれるような記憶となっていくのを悔やみながら」
「消えたあとの音が消えない」
一分の隙もない、無音に最も近い静寂と、
人智に最も近い微音を感じられる音。
この音を、僕はUと分け合うことができた。
そのUは、2013年1月14日、27歳でこの世を去った。
***************************
2010年、僕は東京で2回目の秋を迎えていた。
渋谷オーチャードホールでの、トリオの3回の公演の全てを
観ることができた。
初日の演奏では、トリオの持つ音自体の強みが減衰し、
3人三様の老いが顕らかになっていた。
神秘的な音の選択、静謐の中の不穏すらクリシエに変貌した。
技術の衰え、反応の衰え、創発性の衰えが、集中と安定を乱し
音の調和を悪い意味で破綻させていた。
2日目の演奏では、トリオ自体の持つ音に力強さが戻り、
反応と創発性にも鋭さが蘇っていた。
半音階的なシーツ・オブ・サウンドが漣のように始まり、
やがて、大波のうねりに育まれていくうちに、
聴き手のホメオスタシスが大きく揺さぶられて奔騰し、
さまざまな記憶が呼び起こされて、感極まってしまった。
3日目、僕はこの日の音をSと分かち合うことができた。
この日の音楽を、僕はほとんど覚えていない。
それは、奏者の心拍との同期や、聴覚の心地よさ、滑らかさを
超えたところにある、さまざまな音の有体に打ち抜かれたためだ。
心臓を鷲掴みにされ、全身を持ち上げられ、煮えた鉛の中に沈み、
あるいは土と葉の匂いが漂い、花のように馨しい音。
それらの一切が消え去ったあとにのこる、仄かな熱量、焔が点り
消えてしまう気配もない音。
それどころか、共振して、相手の苦しみや感情の奔流を感じ、
それらがどっと自分の中に流れ込んできて、
我が身が我が身でなくなるほどに自失して、
どうにもならなくなって泣きそうになるような音。
「Answer me my love」という曲が僕にとって特別なのは、
この日、この曲が響いたからのことだ。
あのような音を弾きたいと、一層切に願うようになった。
***************************
2011年3月11日、僕はこのブログに何かを書く事が
出来なくなってしまった。
それは、今も同じく、続いている。
****************************
2012年秋、鯉沼ミュージックからのダイレクトメールで、
2013年の公演がトリオの最後の来日となることを知った。
2013年5月6日の東京、渋谷オーチャードホールの公演は
Sと分かち合うこととした。
そして、2013年5月12日の、新フェスティバルホールの
開館記念公演で、僕はひとり、彼らに別れを告げることにした。
*****************************
2013年5月6日、僕とSは有楽町でビールやブルスト、
ワインや鹿肉、フルーツをしこたま楽しんで、
丸の内と日比谷を歩いてから、渋谷に向かった。
トリオは、老いていた。
ゲイリー・ピーコックの技術的・体力的な衰えは、
あの異常なPAセッティングにも明らかだった。
弦高は低く、それゆえ、少し指板に触れただけでもノイズを拾う。
前半の最後など、ベースを弾くことすらままならなかった。
ジャック・ディジョネットは、スネアの留め金を外し忘れ
キースの音に、要らぬノイズを付け加えさえした。
それらは無論、不随意のことだ。
キースの音にも、いつになくクリシエが多かった。
それでも、前半の「Fever」が引き金となって演奏された
後半の「I’m a fool to want you」は、
ビリー・ホリデイの絶唱の影を微塵も感じさせないミドルテンポの
ボサ・フィールのビートをディジョネットが刻み、
キースがアラビアン・モードで彩って、一気に畳み掛けるという
往年のトリオの創発性を思い起こさせるに十分な演奏だった。
2013年5月12日。
新装なったフェスティバルホールの、赤絨毯の大階段を昇り、
長大なエスカレーターを過ぎて、巨大なホワイエと不自由な導線を
すり抜けた先にある、以前と変わらぬ内装と巨大な空間に身をゆだねて、
このトリオに、さよならをする時が来た。
「Old country」のシングルトーン、「Bye bye blackbird」に聴かれた
往年の粘りのあるグルーヴが嬉しかった。
そして、「Answer me my love」が響いたとき、たくさんの思い出や
記憶が奔流してきて、正気を失って落涙した。
******************************
この日の休憩中、キースが楽器の鳴りを気に入らなかったのか、
ピアノが入れ替えられるという珍しいシーンがあった。
後半には、イントロで無粋な拍手をした観客に向かって
キースが露骨に怒りを表す瞬間もあった。
それは、彼のプロとしての意気でもあろう。
しかし、僕はそこに、少し違った意味を見出していた。
僕たちがもう、彼らの来日公演を見ることができないように、
彼らにも、ともに演奏する機会は多く残されていない。
演奏者同士、あるいは観客との一期一会を邪魔されたくないという
強い意志が、彼らに迫るカウントダウンをより際立たせた。
僕の生そのものを揺さぶり続けてくれた彼らには、
いくら感謝しても足りることがない。
しかし、この公演を通して、あれほどの精度を誇った
アンサンブルに生じた綻びが繕えないこと、
インタープレイにおける意思の疎通にも障害が生じていること、
音が枯れるというよりも、老いてしまっていることに、
今、トリオが終わるべきだと、納得した自分自身がいることを
否定しようがない。
確かに、バラードやブルースの深みは増しているとも感じる。
しかし、彼らが慣れ親しんだ音の純化と捉えるには、
音場が少し弛緩しすぎているような気がした。
でも、もう終わろう。
僕にとって、彼らの音楽はすべてだといっていいのだから。
「Happy birthday,Mr.Percock.」
僕の声は、フェスティバルホールに響いた。
聴衆の拍手が起こり、何故かキースが軽く会釈をした。
ゲイリーが、会釈して、少し目頭を抑えたように見えたのは、
僕の見間違いだったろうか。
****************************
日本にあって、キースの170回以上の公演を実現したプロモーター、
鯉沼俊成さんにも、謝辞を捧げたいと思う。
そして、これから、彼らはどのような音楽を聴かせてくれるのだろう。
明日、トリオは日本で最後のコンサートに臨むそうだ。
Thank you very much,
MR.KEITH JARRETT,MR.GARY PERCOCK,MR.JACK DEJOHNETTE.
早くも西の空に落ちて尽きつつあった。
僕は阪急宝塚線、石橋駅から始発の電車に乗って、
束の間の暖かな空気に身を預けて、少し眠った。
梅田に着くと、そのまま一目散に阪神百貨店前にあった
チケットぴあを目指した。
朝の6時過ぎに着いてから、10時まで、開店を待っていた。
僕の前にはすでに数人が並んでいた。
時折、凍てつくような風が梅田の地下道を吹き抜けて、
その度にくしゃみをし、身を震わせた。
***************************
僕がキース・ジャレットの音楽に出会ったのは
小学生の頃、家にあった「ケルン・コンサート」の
4曲目を聴いたときのことである。
天啓、とはあのようなことをいうのだろうと思う。
手が震え、やがて全身が震え、これだ、と感じた。
その音が即興演奏によるものだと知ってからは、
彼のような音が聴きたい、という思いとともに、
彼のようにピアノを弾きたい、と切に願うようにもなった。
中学生になって、僕はぽつりぽつり、と、鍵盤を触り始めた。
バイエル、ハノン、ソナチネ、流行歌のコピーをしては
ひとり、遊んでいた。
やがて、僕は大学のジャズサークルに入り、
音遊びと、傍若無人の振る舞いを繰り返すようになる。
キース・ジャレットの「ブルーノート」でのライブ盤を
MDに録音して、それに合わせて、よくピアノを弾いていた。
音感と、リズム感と、和声感を学ぼうとしてのことだった。
しかし、ずぶの素人が彼に追いつけるはずもないのは当然のこと。
是非に、彼の音を生で聴きたい、という思いに駆られるのは
当然の答えだった。
ちょうどその頃、キース・ジャレットは慢性疲労症候群という
難病に掛かり、演奏活動を停止していたところだった。
だから、僕は20世紀のキースを知らない。
僕が知っているのは21世紀のキースである。
既存の文法と構造を解体しつくそうとする青い焔ではなく、
完成度と密度の高いクリシエの燈火としてのキースである。
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2000年の冬、今は廃刊となったスウィング・ジャーナル誌が
キース・ジャレット・トリオの来日と、大阪公演の会場、
チケットの発売日を報じた。
公演日は2001年4月26日、会場はフェスティバルホールだった。
僕は敢えて、売り場に並んでチケットを買った。
できるだけ、あこがれのひとびとの近くにいたい。
そう願って手にした2枚のチケットは、前から4列目だった。
もう1枚は、当時親しかったYに渡した。
実は、この日の記憶は、僕の中にはほとんど残っていない。
音楽を聴くという喜びよりも、
憧れのひとが眼の前にいるという事実でもって、
僕自身、ほとんど舞い上がってしまったからである。
そう、確か、1曲目は「枯葉」だった。
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2004年、トリオは再び来日した。
しかし、この時は、就職後、僕が発病して間もない頃で、
とても、コンサートに行こうという気持ちにはなれなかった。
当時の職場が、フェスティバルホールの目の前だというのに、
四ツ橋筋を渡るだけの気力も、無くしてしまっていたのである。
今となれば、ほとんど信じがたい話だ。
2005年、僕は病気療養のため、不本意ながら故郷へ戻った。
故郷から再出発を、と願い、様々に動いたが、叶わなかった。
誰かと演奏がしたいという思いがおそらく人一倍強い反面、
誰かと演奏することについて全くもって向いていないという、
死んだほうがましとも思えるような自分の音に気がついたのも
この頃のことである。
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2007年5月3日、フェスティバルホールでの公演で、
僕は6年ぶりに、トリオの演奏に接することが出来た。
演奏された「Yesterdays」について、僕はこう書き残している。
「胸の奥底に暖色の光が点り、
じりじりと心をあぶりだしてくるような感覚に、
身体が溶け出していくような時間が過ぎて、
焦がれるような記憶となっていくのを悔やみながら」
「消えたあとの音が消えない」
一分の隙もない、無音に最も近い静寂と、
人智に最も近い微音を感じられる音。
この音を、僕はUと分け合うことができた。
そのUは、2013年1月14日、27歳でこの世を去った。
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2010年、僕は東京で2回目の秋を迎えていた。
渋谷オーチャードホールでの、トリオの3回の公演の全てを
観ることができた。
初日の演奏では、トリオの持つ音自体の強みが減衰し、
3人三様の老いが顕らかになっていた。
神秘的な音の選択、静謐の中の不穏すらクリシエに変貌した。
技術の衰え、反応の衰え、創発性の衰えが、集中と安定を乱し
音の調和を悪い意味で破綻させていた。
2日目の演奏では、トリオ自体の持つ音に力強さが戻り、
反応と創発性にも鋭さが蘇っていた。
半音階的なシーツ・オブ・サウンドが漣のように始まり、
やがて、大波のうねりに育まれていくうちに、
聴き手のホメオスタシスが大きく揺さぶられて奔騰し、
さまざまな記憶が呼び起こされて、感極まってしまった。
3日目、僕はこの日の音をSと分かち合うことができた。
この日の音楽を、僕はほとんど覚えていない。
それは、奏者の心拍との同期や、聴覚の心地よさ、滑らかさを
超えたところにある、さまざまな音の有体に打ち抜かれたためだ。
心臓を鷲掴みにされ、全身を持ち上げられ、煮えた鉛の中に沈み、
あるいは土と葉の匂いが漂い、花のように馨しい音。
それらの一切が消え去ったあとにのこる、仄かな熱量、焔が点り
消えてしまう気配もない音。
それどころか、共振して、相手の苦しみや感情の奔流を感じ、
それらがどっと自分の中に流れ込んできて、
我が身が我が身でなくなるほどに自失して、
どうにもならなくなって泣きそうになるような音。
「Answer me my love」という曲が僕にとって特別なのは、
この日、この曲が響いたからのことだ。
あのような音を弾きたいと、一層切に願うようになった。
***************************
2011年3月11日、僕はこのブログに何かを書く事が
出来なくなってしまった。
それは、今も同じく、続いている。
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2012年秋、鯉沼ミュージックからのダイレクトメールで、
2013年の公演がトリオの最後の来日となることを知った。
2013年5月6日の東京、渋谷オーチャードホールの公演は
Sと分かち合うこととした。
そして、2013年5月12日の、新フェスティバルホールの
開館記念公演で、僕はひとり、彼らに別れを告げることにした。
*****************************
2013年5月6日、僕とSは有楽町でビールやブルスト、
ワインや鹿肉、フルーツをしこたま楽しんで、
丸の内と日比谷を歩いてから、渋谷に向かった。
トリオは、老いていた。
ゲイリー・ピーコックの技術的・体力的な衰えは、
あの異常なPAセッティングにも明らかだった。
弦高は低く、それゆえ、少し指板に触れただけでもノイズを拾う。
前半の最後など、ベースを弾くことすらままならなかった。
ジャック・ディジョネットは、スネアの留め金を外し忘れ
キースの音に、要らぬノイズを付け加えさえした。
それらは無論、不随意のことだ。
キースの音にも、いつになくクリシエが多かった。
それでも、前半の「Fever」が引き金となって演奏された
後半の「I’m a fool to want you」は、
ビリー・ホリデイの絶唱の影を微塵も感じさせないミドルテンポの
ボサ・フィールのビートをディジョネットが刻み、
キースがアラビアン・モードで彩って、一気に畳み掛けるという
往年のトリオの創発性を思い起こさせるに十分な演奏だった。
2013年5月12日。
新装なったフェスティバルホールの、赤絨毯の大階段を昇り、
長大なエスカレーターを過ぎて、巨大なホワイエと不自由な導線を
すり抜けた先にある、以前と変わらぬ内装と巨大な空間に身をゆだねて、
このトリオに、さよならをする時が来た。
「Old country」のシングルトーン、「Bye bye blackbird」に聴かれた
往年の粘りのあるグルーヴが嬉しかった。
そして、「Answer me my love」が響いたとき、たくさんの思い出や
記憶が奔流してきて、正気を失って落涙した。
******************************
この日の休憩中、キースが楽器の鳴りを気に入らなかったのか、
ピアノが入れ替えられるという珍しいシーンがあった。
後半には、イントロで無粋な拍手をした観客に向かって
キースが露骨に怒りを表す瞬間もあった。
それは、彼のプロとしての意気でもあろう。
しかし、僕はそこに、少し違った意味を見出していた。
僕たちがもう、彼らの来日公演を見ることができないように、
彼らにも、ともに演奏する機会は多く残されていない。
演奏者同士、あるいは観客との一期一会を邪魔されたくないという
強い意志が、彼らに迫るカウントダウンをより際立たせた。
僕の生そのものを揺さぶり続けてくれた彼らには、
いくら感謝しても足りることがない。
しかし、この公演を通して、あれほどの精度を誇った
アンサンブルに生じた綻びが繕えないこと、
インタープレイにおける意思の疎通にも障害が生じていること、
音が枯れるというよりも、老いてしまっていることに、
今、トリオが終わるべきだと、納得した自分自身がいることを
否定しようがない。
確かに、バラードやブルースの深みは増しているとも感じる。
しかし、彼らが慣れ親しんだ音の純化と捉えるには、
音場が少し弛緩しすぎているような気がした。
でも、もう終わろう。
僕にとって、彼らの音楽はすべてだといっていいのだから。
「Happy birthday,Mr.Percock.」
僕の声は、フェスティバルホールに響いた。
聴衆の拍手が起こり、何故かキースが軽く会釈をした。
ゲイリーが、会釈して、少し目頭を抑えたように見えたのは、
僕の見間違いだったろうか。
****************************
日本にあって、キースの170回以上の公演を実現したプロモーター、
鯉沼俊成さんにも、謝辞を捧げたいと思う。
そして、これから、彼らはどのような音楽を聴かせてくれるのだろう。
明日、トリオは日本で最後のコンサートに臨むそうだ。
Thank you very much,
MR.KEITH JARRETT,MR.GARY PERCOCK,MR.JACK DEJOHNETTE.
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