篠原美也子『サクラサク』2011年を聴いてみる。
「季節は風よりも光を先に変えて行く。つめたい頬に落ちる、陽射しは昨日よりあたたかい。開花のニュースに街はざわめいて――略――桜咲く、待ちわびた、春がやっと扉を開いて」
(篠原美也子『サクラサク』2011年 より引用)
私には35回目の春になるが、特に何のあても希望もないままに桜は今年も咲いていくのだろう。
昨日20160319のこのブログ『急行特急は行く…』の人気記事ランキングはは御覧の様になった。各記事御覧下さった事に感謝と御礼を。
発売日が待ちどおしかった時刻表。
開けて眺めて、なるほどねえ、こうなったか~、や、これがネットにあった情報の列車か~、と言う感じであった。趣味人にしか解らないもの多数であるが、春のダイヤ改正話は興味深い。
見た夢の話。
時間帯は解らないが夜で何かの縁日か祭が行われている雑踏の中を行く私が居て、ふと目を向けるとそこには、桜が咲いていた。満開ではなかったが、やっぱ咲いたか、と言う事を私はその時思った――それを思うと、その縁日だか祭は、桜が孕んでいなかった事になる。
手持ちのスマートフォンカメラで撮影を試みるも雑踏がレンズに写り込み絵にならないな、と想いながら調整を重ねて――と言う所で覚醒してしまった。
私の街では桜はまだだが、桜の開花の便りが今日あった街ニュースを聞いて、またざわめく時期になったか――とため息をついた。
このブログ『急行特急は行く…』をはじめて良かった事。現実的な話をすれば、何もない。だが、この記事書くにあたって思ったのは、タイトルの通り、
――誰もがきいてきいてくれず、理解されずな話を形に出来た事――
それに尽きる。
全ては自己満足。
しかし、自己満足はなかなか出来ない。特に、想い・気持ちを形にしたとしても。そして、形にしたとしても必ずしも自己満足を得られるかと言うとそれもない。
今はやらなくなったが、急行特急TH発日曜深夜夜話
を形に出来たのは良かったなと思う。
誰もに伝わらない、理解されない、形にしても何の意味も価値も生まない事を文章化しかつひとり語りのラジオのDJになれた様な錯覚を覚えられた事は良かったなと思う。とは言え、本当に誰もに伝わらない、理解されない話になったようで各記事にコメントほぼつかずと言う哀しい現実を突きつけられているのは、滑稽な話である。でもそれで良い。この世の私と言う人間の想い感じる事は、誰にもない。それが現実であり当然・必然で多くを望んではならない。
良い思い出はない。
卒業式は、決して大人をよろこばせる美辞麗句を並べる場所ではない。それに、式を事前に練習するのも何か言葉に出来ない妙な感じがするのは、何故だろうか?
ずっとこの先も仲間だ――なんて台詞も所詮その場しのぎにしか思えなくて。その場を去れば、日々の環境は変わり、かかわる人も変わりで、かつてを過ごして来た人と付き合える余裕がある事は、私は凄いなと思う。たとえそれが当たり前のことだとしても。
過去、通り抜けた卒業式は、ほぼそんな美辞麗句でかためられていたように思うが、卒業証書をもらうだけで終わらせるだけで何故ダメなのか?と今になってみれば思う。卒業は成長の1つであり、祝福するべきものだとは思うが、美辞麗句並べたその場しのぎに満ちた卒業式ばかりを私は経験したなと思う。それだけ私は、卒業したその場所が嫌いだったのだろう。
たまたま聴いたFMラジオのミュージックフィラー番組で、クリスタルキングの『大都会』が聴け、ちょっと萌えた。
↑篠原美也子『名前の無い週末-セルフカバーミックス-』2003年を引っ張り出して聴いてみる。三連休初日に明日も生きようと言う意志はもてずで、来週どうするよ、もう限界なんじゃないの?最所から無理って知っていただろうに――と思うばかり。