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捏造 8月31日分

2007年08月31日 23時59分59秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 関連記事を探していたら、8月31日に書き込みするのを、すっかり忘れていたので、恒例の捏造書き込みである。
 あの日、何をしていたのか、覚えていないし、何故に書かなかったのかはも覚えていない。
 8月31日、夏休みの最終日という事で、「はかなさ」ばかりが強調されそうなので書かなかったのか。
 とっくに学生時代は終わっているので、宿題に追われる事も無く、過ごしたのかな・・・と思う。日記でもつけときゃ解るんだが、すっかり、日記も書かなくなっているので、何がどうなっているのかは解らない。
 ちなみに、今日は9月15日。15日経過して、日付を捏造してまで書くことか?とも思うが、1日だけ「空白」というのも悔しいので、とりあえず「書いた事」にする。
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20130831―2

2007年08月31日 23時58分58秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
週末ソング、篠原美也子『名前の無い週末』がピッタリな感じの2013年8月31日土曜日。
何を言っても仕方ない、終わりいったものは。笑うしかないなんて、なんか悲しくもあり、傑作でもあるけれど、ひどく切ない。
明日は9月1日。
終わった8月2013年。
特にそこに何かがあった訳じゃない。
でも、終わり行く事が悲しい。
雨は冷たい傘をさそう、まだ立ち止まる事はない、恋も息も出来る、まだきっと。
そんな僅かな希望は果たして誰の胸中で生まれるのだろうか?
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つよんじゅん様 コメントありがとう御座います。

2007年08月30日 22時00分03秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

 ブログ名変更の件、確かに承りました。
 9月1日になり次第、変更いたします。ご連絡ありがとう御座います。
 めげずにまたコメントさせて頂きます。 

 いつも小説もどきの件ですが、明日、8月31日にアップ出来るかと思います。今回は、ちょっと自信ない作品になりそうです。

 コメントありがとう御座います。

 

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Mind Feeling 0830-2

2007年08月30日 21時58分24秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

  あと2日で9月な訳だが…とここ何日かそんな話ばかりしている。
 物事が終わる時、そのはかなさを覚える。たかが季節で…とも思う。これで終わりで、次が無い訳ではない。そう、季節には「来年」という次がある。
 明日は31日で、本当に8月最終日という日になる。どんな月にも始まりがあれば終わりもある訳で、何故にこの月だけ終わっていく事をはかなく思うのか解らない。
 一度書いたが、「生命活動が一番活発になる時」が夏である。ある種、こう、「祭」の様な雰囲気があるように思う。そんな話を繰り返ししても仕方ないので、この位にしておく。
 夏の中で、はかない系の話はなるべく書かないようにしてきたが、そろそろ、郷愁を思う事を書いても良いのかな…とも思っている。とは言え、一気にはかけないので追々書いていく事にはなるとは思う。書いた所で、何も変わりはしないのだが、あまりリアリズムを追求してしまうと、それはそれで儚いものなので、あえて書かない事にする。
 今夜は、秋の虫の声が賑やかである。

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Mind Feeling 0830-1 「プールサイドデイズ」

2007年08月30日 21時57分19秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 ここ2日程、曇空が続いている。
 気温は、1週間位前と比較すると、少し涼しくなり過ごし易くはなって来ているが、セミの声は健在である。しかし、以前も書いたが「ミンミンゼミ」に「つくつくほうし」の声が目立つ様になっている所を見ると、やはり、時間は流れているんだと思う。
 さて、梅雨時の雨の降らない曇の日、夏から秋の始めにかけての曇の日が続くと思うのが、高校の頃の体育の講義で使われた屋外の「プールサイド」を思い出す。
 水温が基準値を満たしていれば、曇でも雨でも執り行われるのが「水泳」の講義であった。今は解らないが、中学からはそんな感じだった様に記憶している。
 灰色模様の日に、屋外のプールで水泳というのは似合わないし、1つの場面として生える事はない。いつかに『海が青を欲する様に』というエッセイを紹介したが、屋外のプールに似合う空の色もまた青であると思う。
 曇の日の水泳。どこか「気分が重たい」。中学を超えると、必然的に夜眠る時間が短くなり、翌日の生まれたての朝は辛いものがある。それは、今も変わらない。取り立てて体調が悪いという訳ではないのだが、そんな状況下で執り行われる水泳はやはり堪える。殊、秋の入りになってくると気温がさらに下がってくる上に、屋外のプールは吹きさらしなので、寒いことこの上ない。泳いでいるうちはまだ良いのだが、プールサイドで順番待ちや待機の時は、殊に、吹き付ける風が寒く感じられるのだ。
 そんな過ぎ去りし日の事を、夏前後の曇の日の中で私は思い出す。あの当時の状況はもはや再現出来ないので、思っても仕方ないのだが、湖面に落とされる小石が、水に波紋を作る様に、思い出してしまう遠い日の記憶である。
 
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Mind Feeling 0829-3 「〝きみ〟、〝~くん〟という呼び方」

2007年08月29日 20時27分01秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 「僕」という自称に関連する話をもう一石。
 自称に対して、2人称にあたる「きみ」という呼び方と「~くん」という呼び方についても、少々気にかかる事があるので述べてみたい。
 一見すれば、「僕」と同じく、「ありふれたもの」で「何の変哲もない」ものだと思う。だが、私は状況によっては、「人を見下す」ような感じがするのだ。
 「きみ」という呼び方。これは、曲の歌詞で使われる中ではあまり気にならないが、それ以外で文章化される事と「声に出される」時に、とても気になる。先述の通り、「人を見下す」という感じと「高圧的」な感じがする。「あなた」という言い方も場合によっては、その様に「人を上から見ている」風にも取れる。特に、公文書等で「あなた」という人称が使われるので、余計なのかもしれないが…。「きみ」に比べると場合によっては「やわらかい」表現にはなりそうである、
 「~くん」という呼び方。学生間同士や幼少の男性をその様に呼ぶのは、そんなに気にならないのだが、それを飛び越した先で使われると、「高圧的感じや「人を見下す」ような感じがする。「~さん」が準正式の筈であるのだから、これは統一するべきだと私は思う。使う方はいいかも知れないが、使われる方の事を考えた事は…おそらくそうは無いんだろうと思う。あまりに「ありふれている」からだと思う。
 一度、「~くん」という呼び方について、一番気になったのが、「年下だから、あの人は、〝くん〟だ」という発言が学生を越えた時にあった事である。単にそれだけの理由で、「~くん」という使い方をするのは、私はちょっと許せない。ましてや、その人物は20を越えた立派な成人である。
 ある種の宗教的な考えなのだろうが、「年上は偉い」というのがある。しかし、そんな事が言われながら、「人間は平等だ」という考えもあるという矛盾があるように思う。「人間は生まれながらに不平等である。その不平等な状況から脱する為に、人の上に立とうとし、全てが良い方向に向かう」という考えのもある意味あるようなので、致し方無いにしても、なんか気にはなる話である。かと言って、解決策があるのかと言われればないのだが。
 「僕」という自称にしても、「きみ」という人称にしても「~くん」という呼称にしても、根底にあるのは「階層化社会」なのかと思う。「人は人を支配し、支配されて生きるもので、それこそが社会である」という善悪はさておいて、それで成立し(それを認める事が「善」で否定する事が「悪」である。否定するなら代替的な考えを示せという事なんだろうと思う。)ているような感じがし、その世界では「高圧的なものもあって当り前」という事の様なので、全ては「自然発生的」なものなのかも知れないし、取り立てて話をして、何かの糸口が出るという訳ではないのだが、ちょっと気になったので今回こうして述べた次第である。 
 そして、「人は、人をさげすんだり、見下ししたりしても、憎しみしか生まれず、それ以上の物は生まれない」という事を最後に述べておきたいが、どこまで、この言葉が届くかは解らないけれど…。
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Mind Feeling 0829-2 「〝僕〟という自称」

2007年08月29日 20時22分45秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

 自分を呼ぶ際の「自称」。英語では、“I”や“me”位しかない様に思うが、日本語では、「わたくし」、「わたし」、「あたし」、「僕」、「俺」、「わし」、「我」(今では使われないか?)、「おいら」、「あっし」、「手前は(これも死語か?)」(「漏れ」というインターネット上での表現もある)と9個もある。これだけあると、外国の方は「ややこしくて困る」という話を聞いたことがある。
 「わたくし」という自称が、正式というかフォーマルな言い方であるという風に言われている。
 さて、私が気になるのは、「僕」という自称である。物語や小説の中では、そんなに気にはならないのだが、「声に出される時」と「ネット上」では、ちょっと気にかかる。
 幼少時代や10台の頃では、ありふれて使われる自称であり、それはそれで良いとは思うのだが、それらの年齢を越えて使われると、気になってくる。
 「僕」という自称。意識して使われているのか、あるいは、無意識で使われるのかは解らないが、先述の「幼少時代」に用いられやすい言葉なので、「純真さ」とか「無垢さ」とかそういう「良い意味」を連想させるという意味で、ある年齢を越えても使われる場面があるのかも知れない。私は。あまりそれに対して「良い印象は無い」。
 単に、自分にとって嫌いで憎みたくなる人物が使っていた印象が強く残り、その「僕」という自称が使われると、その人物の事を思い出してしまうので、悪い意味で「気になっている」感は拭えない。価値観は人によるので、何とも言えないけれど、ある年齢を越えた段階(20位だろうか?)で使っても「決して、格好よくは無い」と私は思う。
 一度、深夜アニメ『反逆のルルーシュ』で、この「僕」という自称について、主人公が語るシーンがあった。私の記憶では、「僕」と言うのは、「全体主義」を示し、「俺」という自称は「個人主義」を示すと語られた様に思う。たしか、登場人物のクルルギスザク(漢字忘却)が、ある年齢の頃は「俺」と言う自称を使っていて、現在は「僕」という自称を使っているという変化を主人公なりに分析した結果だったように記憶している。
 そこで、「僕」という言葉を辞書で見てみると、「同等な人間かそれ以下の人間に対する自称」(『福武国語辞典』 樺島 忠夫・植垣 節也・曽田 文雄・佐竹 秀雄 編 福武書店 1989年)と手持ちの辞典にはある。要は、友達範疇の程度の人間であれば、使っても良いという話なんだろうと思う。
 ちなみに、私自身、「僕」という自称は、記憶の限り、意識的に使ったくらいしか覚えていない。「わたし」と「オレ」を織り交ぜ、その時の気分で使っているが、こうして文章を書く時は、「私」という表現をしている。小学校6年の頃から「わたし」は常用していたので、当時の担任からクラス内での会話で使うなという指導を受けた事がある(男の癖に、女性が使う自称の様だ…という事でイジメの原因ともなる…という理由だった気がする)。私自身、自分自身の自称をどうするか、迷っていたというのもあり、いつからか「わたし」にたどり着いたようだ。詳しい経緯は解らないが、以前も書いたが幼少時代に、大人向けのコミック(『かりあげ君』の様な4コマギャクマンガ系)を見ていた所為もあるのかも知れない。
 「僕」という自称を使いながらも、「俺」という表現をしたり、「わたし」という表現したり、状況によっては「わたくし」と言う表現をしたりと、使い分けがなされるのはある程度仕方ないにしても、ある意味、フォーマルな場で「僕」という自称が使われている場面があったので、「何故?」という感じがしたのもある。一番は、英語の様に統一すべきなんだろうとは思うが、なかなかそれはそれで難しいようだ。そんな風に「僕」という自称を使った人物達に出会ってきた全ての諸氏に、私は「憎しみ」やら「嫌悪の情」を抱いてきたので、繰り返しになるが、良い印象はない。
 また一方で、「スポーツ選手」が、よく「僕」という自称を使う様に思う。その影響もあって使われるのかもしれないが、何故にスポーツの世界で「僕」という自称が使われるのか…と思ったりもする。スポーツの世界=体育会系的世界という風に結び付けては行けないのだろうが、そういうある意味「階層化」と言える社会の中で、「僕」という自称が、スポーツ=純真無垢で正義に乗っ取ったもの(100%私の思い込み)という意味で、使われるのかもしれないし、「階層化社会」の中で、「謙虚さ」を示すという意味で、それが使われているのかもしれないが、決して「僕」という自称は「正式な物でない」という事を忘れてはならないと思う。世の中の社会もそれと同じくして、ある意味「差別」とも取れる「階層化社会」なので、「僕」という自称が登場する事自体、そう不思議な物でないのかもしれないし、こんな事を逐一述べる自分自身が稀有な存在なのだと思うが、気になってしまった事を無視するのはなかなか出来るようなものではないので、言葉にしてみた次第であり、「僕と言う自称を否定する訳ではない」という事を最後に書き添え、繰り返しになるが、「僕と言う自称が正式・フォーマルなものでない」という事を述べて、終わる事とする。
  

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Mind Feeling 829-1

2007年08月29日 20時21分33秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 2007年夏、終了までカウントダウン状態。
 気がつくと、今日は、曇空で夕方は雨が降り、どうも「秋」様が降臨しようとしている風である。
 夏の風物詩の1つに「花火」があるが、今年は、ちょろっと地元から少し行った先にある場所から上がった花火を見たのと、8月25日の夜だったと思うが東北道のどこかで(栃木あたりだったか、福島あたりだっかは、あまり覚えていない)それが上がっているのを、運転しながら横目に見た程度。家庭用花火は一切縁がないままに終わっている。
 夏の花火と言うと、「花火大会」という事になるのだが、「ロケット花火」が少し印象に残っている。「ヒュ~ン…パン」という独特の音を立てて、はじけるアレだが、昨今は、地元ではすっかり聞かなくなってしまった。「騒音」が激しいので、あまり住宅が密集した所でやるような物ではない上に、「クレーム」の対象にもなり易いので、消えていったのか…と思う反面、やっぱ、少子化の所為もあるのかな…と思ってみたり、ポータブルゲーム機の普及なんかで、案外と「下火」になっているのかな…と思ってみたり。
 それでも、「花火大会」は、今も華々しいものであり、風物詩として残っているのは、流石だなと思う。その癖、そういう所に行きもしなければ、行く縁もない自分が居て、偉そうに語るのはお門違いではあるのは、重々承知の上であるが、不意に、そんな事を思ったので書いた次第である。
 
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アニメトーク 0828-1 今週の『ヒロイックエイジ』から

2007年08月28日 20時46分27秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 今回は、感想めいた話になってしまうのだが、深夜アニメ『ヒロイック・エイジ』を観て、ふと、思った事がある。
 「人はどんな形であれ、他の人と関わり、コネクションを拡げる事で、社会を形成し、営んでいる」という事を、今週の話から感じた。あまりに当り前すぎる話なので、それを私が述べた所でどうこうなる訳でもない。
 「人間のネットワーク」は、現代では「インターネット」になるのだが、どこまで係わり合いを持っているのかはなかなか解り難い所ではある。「共通言語」がある訳ではないので、誰しもが世界中とコネクションが出来るには出来るが、そう容易い事ではない。
 どんなに時代は進化するにせよ、以前も書いたかも知れないが、「人は人の中に居る以上、互いに関わらなければ、生きてはいけない」物である。とは言え、関わる事で、色々と問題も起きて来る。価値観の違いや考え方の違い、宗教の違い等。
 今週8月26日放映分では、「対話」により、「相互の理解を深め、衝突を回避する」と言う事の重要性が現れていたようにも思う。こちらも、当り前と言え、21世紀になってから特に強調されつつあるものなのかなと思う。殊に、我が国にとっては、1つの重要な物でもある。
 「当り前」な事は、案外忘れられ易いものなので、時に、それをはっきりと形にする必要はあるようにも思う。そんな事を、時折、気付かせてくれる要素があるのが、「深夜アニメ」でもある…。 
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Mind Feeling 0828-2 「〝向こう〟に思う」

2007年08月28日 20時45分33秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

 今日は、皆既月食の日であるという話は、昨日の時点でしているが、天気予報通り、東京地区は天候不順で見られない。
 昨日の天気予報で、「皆既月食は雲の向こうで…」という言葉が出て来たが、その様にきっと起こっているのだと思う。
 夜、夜空の向こうで…となると、やはり『夜空の向こう』という曲に私はぶち当たる。“SMAP”の名曲であるが、私は彼らではなく、作曲者の川村結花氏が歌うバージョンのが思い入れがある。
 また、「向こう」に注目すると、かつての篠原美也子氏の『オールナイトニッポン』のコーナーにあった「篠原美也子文庫」のコーナーで出て来た、『この夜の向こう側(パート2)』に私は思い入れがある。今でも、2チャンネルで調べれば出てきそうなものだが、定かではない。
 「夢を観たい」とか「現実を変えたい」とかそんな欲望が私の胸のどこかであるのか、「向こう」という言葉に、少し惹かれるものがある。実際、作詞・作曲した自分のオリジナル曲でも2曲、『瞳の向こうの世界へ』と『夜の向こうへ』がある。前者の方は、小説のタイトルでも使っている話はしたような気がする。
 今より先、未来。それが、自分にとっての「向こう」になるのかもしれないが、想い描けぬままに居る自分は、ただ星空の浮かぶ夜空を眺めているだけである。そして、その空の向こうへ行き、新しい自分になりたいと思っている。何物・何者かになりたい自分自身の姿を、何も見えない闇のスクリーンが拡がる天に映しても、どうにかなる訳ではない。動けぬまま、動かぬままで居るからこそ、「向こう」に憧れているのだと思う。それは、「トンネルを越えるのが好き」というに、繋がるのかも知れない…。

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