京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 鼻の差でも勝ちは勝ち?

2009年10月08日 | 日々の暮らしの中で
父親譲りのカチンコチン・母親譲りのお気楽さ。譲り受けたこの性分、得をしたり損をしたり…。

今朝は収まりつつある風と相談しつつ大掃除に取り掛かる。何やら得体のしれない黒い塊、埃が固まったようなふわふわのごみが奥座敷に落ちている。それとなくすすけた感じで、やはり畳の上全体が黒っぽく感じる。

入り口から奥までが一本の廊下でつながるために、奥だけで済まないのがつらい。
廊下伝いに埃が舞い散っているわけだ。

はたきが登場!桟を払いながら硝子戸を滑らせて戸袋に入れ込む。
今どきこんな建具、右から4枚目を開けるにも必ず一枚目から順に移動させなくてはならない代物だ。若干の隙間ができる。冬は寒い。何が風情かとも言いたくなるが…。グッとしまいこんで、やっとこさ、開け終わる。どこからともなく風にあおりだされたごみ・ごみ。まるでごみ屋敷みたい。そして廊下側にはすべて障子が入っているのだ。

バケツの水を換えてこい、障子を破らぬように気をつけろと、椅子に座った老指揮官の采配で動く下士官がひとり。あてにはならない。
こうなったら意地でもやるしかない。中途半端で終えたら意味がない。
諸事万般流れるように手際よく拭きあげていく。…気付けば、無言で淡々と手を引いていたふたり。退散だ。
意地が運気を隆盛にする!そんな日もある。私の勝ち。ふたりは負け。鼻の差であろうと勝ちは勝ち。

しかし疲れた。何が勝ったのか負けたのか。どーでもいいか。

こんなにしゃかりきにならんでもええのになあ…。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 台風「一禍」

2009年10月07日 | 日々の暮らしの中で
   
     野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。

と、少納言さんは言う。庭の植え込みが大層痛々しい。大木が倒れ、折れた枝が萩や女郎花の上に横たわっているなど実に思いのほかだ。格子の一こま一こまにわざわざ木の葉を吹きこんだようにしてあるのは荒かった風の仕業とは思われないことだ― 実にしみじみとして、しかも興味深いものだと、他にもいくつかの姿を挙げている。

やれお隣さんはシャッターを下ろした、雨戸も閉めたとなると、急かされるように台風対策を講じることになる。夜間に通過、幸い事無きを得ることがほとんどだった。休校かと期待したにもかかわらず、快晴の朝を迎える。子供の頃から随分と長いこと「台風“一家”」と当てていた私だった。

やがて「いっか」は様変わり。
我が家の庫裏は古く、大風となると天井から長年たまったごみが落ちてくる。
台風などとなればいきおい被害は甚大だ。安全地帯に逃げ込み、猛威が過ぎ去るのを静かに待つ。で済むなら我慢のしようもあるが、なんのなんの、ここに硝子戸がガタガタガタガタという音をたてる。奥座敷の廊下に八枚。日常の住まいの側で八枚。計十六枚は、一本の敷居に並ぶ引き戸である。おまけに奥には雨戸がない。廊下に、風があちらこちらにたまっていたごみをかき出してくれる。
台風一過。大いなる「一禍」が数年続いていた。

どうやら明日明後日、“まことしう清げなる人が、髪を大いに振り乱して、いつもには見られないほどの魅力的な感じが加わって”、大掃除に励む、というわたくしめの姿がありそうだ。
中庭を持つ奥座敷はその風情を頑として譲らぬ主のために未だに硝子戸のみ…。

「あはれにをかし」などとはほど遠い野分のまたの日である。

                    (磯田湖龍斉画より )
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 びっくり仰天のお話・・・ 

2009年10月06日 | 日々の暮らしの中で
「土」という字の書き方は、一画目、ヨコ一文字を書いた後、タテに垂線を下ろし、またヨコ一文字を引いて仕上げる。
『それがつまらない。おかしい。本当の「土」の書き方は、タテに下ろす垂線を、逆に下から上に突き上げるようにして書かなければいけない。』

宗教学者の山折哲雄さんが書家の榊莫山さんとの対談で虚を突かれた話として紹介された。

地上の草や木、森林のすべては、土の中から芽生え、土の表面を突き破って成長し、枝葉を茂らせ花を咲かせる。そういう生命のエネルギーを考えるなら、下から上へと勢いを表現しなくてはなるまいというこの発想。

「土」という漢字の成り立ちに目を通せば、大地に、タネが入り、そこから双葉が伸びて広がる様を説明している。ただ、二画目は上から下へだ。それを下から上へという書き方は、まことにびっくり仰天する話として迫ってくる。

日々の暗さを、土の中の暗さと似せてはいけないか、とうたった詩人がいる。

「暗い土の中はやがて来る華麗な祝祭のために限りない数の命が生きている」と。
見えない地下の世界でぶつかり合い・ひしめき合う暗さ。これが豊かさや、未来ある将来への予兆だとしたら、下から上への逆噴射のような垂線の筆づかいは、どう目にすることができるのだろう…。

じたばたとあがいてもがいて、結局芽を出さないものもある。けれど、何度でもタネを蒔いて、つかみ直す勇気を忘れちゃあかんのね…、きっと。見ていてくれる人はいる。耐えることもやめてはあかんのよ、きっと。

    (アサガオのもやしまがいの茎も、まずは殻を破るところから…)

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 十五夜おつきさん

2009年10月03日 | 日々の暮らしの中で
ひんやりとした空気…
虫の音が響く静かな夜です
雲間に見え隠れしながら今宵の月が高く上がっています

十五夜・中秋の名月

ほんのひととき空を見上げて…
わずかな時間ですが、大切にその時を共有いたしましょう~
見えていますか、今夜の月は。

心をこめて思いを綴っていく日々に、
たくさんのお心をいただく喜びをを感じています

  『信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することではない。
   信じるのは物事ではなく、人です。
   その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。
   私を信じてくださっているからです。』
                 (『親鸞』五木寛之著)

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

月の顔を見ることは忌むべきこと、不吉なことだったとか・・・
ですが、空高く、三つの顔を見上げています。
大きな笑顔が輝いて… Jessie~~

萩の葉の奥に・・
「望月の明るさを十合わせたたほどの月が出た夜に、
 下から月のほうを見上げてください。」
天に近いのは、駿河の国にあるお山。
「ふじの山」の上からでも…
お会いできるかもしれませんね~





コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 Jessie, Happy Birthday.

2009年10月02日 | HALL家の話
今日、四歳の誕生日を迎えたJessie。

大きな声でしゃべって笑って、走り回って、日本の冬・春・夏を過ごした八か月。
マミィとJessieがオーストラリアに帰ってしまって一カ月。
気付けばその“百万ドルの笑顔”がぼんやりとかすんでいる。
Jessieはいつまでかくれんぼしているつもりだったのかな。
毎日毎日Jessieを探してた… I miss you.

この間、Jessieの自転車とヘルメットを片付けていたら、
Jessieがそばでにこーっ!と笑ってる。見つけた!
つかまえた!やっとつかまえたよ。
もうこれでかくれんぼは終わりだね。
今度会う日まで、この笑顔をずっと抱きしめているわ。

「惜しい・欲しい・かわいい…」
欲はいつもいつも付きまとうものだけれど。

   静かな夜更けに いつもいつも思い出すのは “Jessie”のこと
   おやすみ 安らかに たどれ夢路
   おやすみ 楽しく 今宵もまた  ~♪

   Happy Birthday to a sweet 4-years- old!!

そして今年も
May all your dreams come true!
We love you so much forever!!

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする