プロ野球・セリーグはジャイアンツが優勝した。長い長い、ずっとジャイアンツひと筋のファンではあるけれど、猛烈なファンだったのは中学生くらいまでかもしれない。あの故川上哲治氏のご長女と小学校時代は同級生で、家を行き来することもあった。もっとも、当時は「打撃の神様」だとか、ご家族のことなど念頭にあるはずもなく、東京の地で生まれ育ち、まあ自然の流れでジャイアンツファンに、というだけの始まりだったろう。
嫁いでからはジャイアンツファンだという人と出会ったことはない。家ではタイガースの試合にテレビ画面に張り付く二人がいて、私は蚊帳の外だった。
父は貿易商に勤務していた関係で長期の海外出張も多く、不在がちだった。それでも、小学生だった私は家の脇の道路でよく父とキャッチボールをした記憶が鮮明だし、後楽園球場には何度か連れていってもらっている。長嶋選手や広岡選手の華麗な投球ホームに魅せられたものだ。
プロ野球中継が始まったテレビの前には、解説者が二人いる団欒が生まれていた。放送終了時間が迫ると、父は二階に上がっていく。そして、自室からラジオを手にして下りてくる。アンテナを伸ばし、選局し、小さなボリュームで終了後に備えた。
勝敗の行方を確かめる。それだけではなかっただろう。いそいそとラジオを取りに上がっていった父の思い…。自分の横で、とりわけ熱心に興味を示す娘との時間をいとおしんでくれていたのではないだろうか。耳をそばだてるようにして聞き入って、父と娘で共有したあの時間が、少しのせつなさを伴ってよみがえる。
このトランジスターラジオは形見となって私の手元に残った。その裏面には、几帳面に美しく整った書体で父の名前が記されていた。
電池を入れる部分が腐食した状態になって、昨年、父の祥月命日の勤めを済ませたあと処分することを思い切った。
昭和20~30年代にはラジオしかなく、父も、ご多分に漏れず野球を聞いていました。
その頃の私はそれ程野球に興味が無かったので、野球シーズンは地獄だと感じていましたね。
その後、TVが普及してきても、我が家で買えるのは1台切りですから状況は変わらないものの、耳で聴くより目で見るほうが興味がそそられてか、その後しばらくは私もジャイアンツ贔屓でしたが、TVが2台、3台と増え、個人的に占有し見られようになって、野球から別の方に興味が移ってしまったのです。
それでも、今でも野球放送を見かける度に、TVの前にゴロリと欲になったままの父の姿を思い出しますよ。
いいお話でした。感情移入しきりで胸キュンでした。私はもう父の形見は
殆どありませんが、母の物は山ほど残っています。やがて1周忌ですが。
すみません。今日もまた旅先で、スマホで不慣れで、あまりうまくコメントなど
入れられません。電源の関係で、当分ネットから離れそうです。
失礼しました。
中学生時代は野球中継が終わってから勉強するというほど熱心にテレビを観ていたものです。
ゴロリと横になられて。絵になる姿ですね。
時代的にも野球観戦は大きな楽しみだったのですよね。
子供たちも孫も、とんと野球に興味を示しません。
息子は1塁ではなく3塁方向に走ったと冗談のような話が残っているくらいです。
父と一緒に何かをしたということは少なかったとおむのですが、
父の出勤と同じ電車で通学する機会もありました。
おおかた父が話していましたが、そういい聞き手ではなかったかも。
思いでも掘り起こすとそれなりにあるものですね。
使うこともないまま長いこと手元に置いて、物持ちの良さにはあきれますね。
旅先でお心にとめていただきありがとうございます。
講演のお仕事で? あるいはプライベートの旅なのでしょうか…。
お身体大事にお過ごしください。
心筋梗塞をおこしかけてました。
手術で今は胸の痛みもありませんが
まぁ、経過観察のあと来年3月に再手術
です。嫌ですが、仕方ありません...。
投与された血管拡張剤の薬がはんぱない
頭痛を引き起こしてやりきれませんが
馴れていくまでの辛抱でしょうか..。
ご心配いただきありがとう
ございました。
手術を無事に終えられ、この度の退院にまでこぎつけられたことは本当によかったです。
頭痛につながることはさぞやお辛いことと想像します。
もう一頑張りなさって、より良い状態でこれからの日々をお過ごしになるためにも
再手術頑張ってくださいね!
ご自宅の良さを思うことでしょうね。
ゆっくりなさりたいところをかえってお気遣いいただき恐縮です。
くれぐれもお大事にお過ごしくださいね。
ゆるゆると参ります。
これからもよろしくおつきあい
下さいませ。
先ずはしっかり体力の回復を図られることですね~。