「なにもかもけじめなく売る」弘法市へ。
夜来の雪に積雪が見られ、早朝は大きな雪がしきりに降り続いていた。
東寺の弘法さんに行く約束の日だった。
市内でも南と北で雪の降りようには差がある。案の定、風は強かったが雪はみられなくて、青空が広がっていた。
初めてだという友人は、大阪からにこにこ顔でやってきた。見歩く楽しみ心を持てば十分だと思う。
大正の終わりから昭和の8年まで京都に住んでいた柳宗悦。
彼はその在住の折、朝市にはずいぶんと心が誘われたという。ただ、もう当時すでに物の質は落ちていたようだ。
「大体こういう朝市には、何も名のある立派なものは出てこない。だから、評判などに便(たよ)ってものを見る要もない。こういう所こそ誰もに自由な選択を求めているのである。」と『京の朝市』で書いている。
欲しいものがあれば買い求める。掘り出し物としての値打ちを持つかどうかは、ものとのお付き合いの日々にかかると思えば気楽ではないの。
「この股引どうやあ。町で買うたら1000円はしますえ。390円安いよ。日本製だからねー。のびるよ」
腰をかがめ、誰にいうともなく老店主が声を上げていた。婦人物のタイツみたいだったけどなあ…。肌着に古着、帽子もある。
店主は5枚で薦めるが、一枚だけ、400円で小皿を買う男性がいた。
大玉の津軽林檎を手に持って、どう店主を振り向かせればいいのかわからない外国の女性。お連れさんが「スミマセン」と教えている。「スミマセン」と呼んだら振りむいた。
3種類のうちコーラ味を選びたがっていた外国人家族。店主はひたすら手のひらを差し出し代金を要求…。なんかちぐはぐだけど、なれているのかな。見ていてちょっと不安になった。
こうしたやりとりを見聞きし歩くのは楽しい。
南門の下に店を広げた餅屋さんで、黒豆入りの餅を2袋買う。
友人は中鉢を一つ買っていた。すぐき、干し柿も。餅を一袋、重くなるけどおすそ分け。
なにもかもけじめなく売っていた。
夜来の雪に積雪が見られ、早朝は大きな雪がしきりに降り続いていた。
東寺の弘法さんに行く約束の日だった。
市内でも南と北で雪の降りようには差がある。案の定、風は強かったが雪はみられなくて、青空が広がっていた。
初めてだという友人は、大阪からにこにこ顔でやってきた。見歩く楽しみ心を持てば十分だと思う。
大正の終わりから昭和の8年まで京都に住んでいた柳宗悦。
彼はその在住の折、朝市にはずいぶんと心が誘われたという。ただ、もう当時すでに物の質は落ちていたようだ。
「大体こういう朝市には、何も名のある立派なものは出てこない。だから、評判などに便(たよ)ってものを見る要もない。こういう所こそ誰もに自由な選択を求めているのである。」と『京の朝市』で書いている。
欲しいものがあれば買い求める。掘り出し物としての値打ちを持つかどうかは、ものとのお付き合いの日々にかかると思えば気楽ではないの。
「この股引どうやあ。町で買うたら1000円はしますえ。390円安いよ。日本製だからねー。のびるよ」
腰をかがめ、誰にいうともなく老店主が声を上げていた。婦人物のタイツみたいだったけどなあ…。肌着に古着、帽子もある。
店主は5枚で薦めるが、一枚だけ、400円で小皿を買う男性がいた。
大玉の津軽林檎を手に持って、どう店主を振り向かせればいいのかわからない外国の女性。お連れさんが「スミマセン」と教えている。「スミマセン」と呼んだら振りむいた。
3種類のうちコーラ味を選びたがっていた外国人家族。店主はひたすら手のひらを差し出し代金を要求…。なんかちぐはぐだけど、なれているのかな。見ていてちょっと不安になった。
こうしたやりとりを見聞きし歩くのは楽しい。
南門の下に店を広げた餅屋さんで、黒豆入りの餅を2袋買う。
友人は中鉢を一つ買っていた。すぐき、干し柿も。餅を一袋、重くなるけどおすそ分け。
なにもかもけじめなく売っていた。
すぐきは京都のお漬物ですが。
肌着の古着はちょっと・・・ですね
名古屋では大須観音寺で定期的に骨董市が
開かれます。何日か忘れましたが月一のようです。
「スミマセン」外国の女性になぜ謝るのと言われそうですね。
これらの品はどういう流れでここにあるのか…と常に思いながら見ています。
家屋解体によって出たと思しきものから不用品が並べられた?
とさえ思いたくなるものも多くあります。
掛け軸、日本刀も昨日は見ました。
すぐきは乳酸菌が良いとされ、上賀茂の社家発祥と言われるお漬物で、おいしいですよ。
多分ご存じのものと思いますが。
御主人らしき方が教えていました。本当にそうです。私も思いました。
あやまることないですよね。