おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢゃないか
どこまでゆくんか
ずっと磐城平のほうまでゆくんか
書道の会の会員の方々の作品が通りがかったビル内の通路一画で展示されていた。その中に、山村暮鳥の「雲」の詩があった。女性の手になる流麗な、美しい文字だと書については感じたが、それだけだった。榊莫山さんなら「おうい雲よ」と、どのような筆遣いを見せてくれるだろうかと想像した。
絵画も詩も、どう鑑賞したらいいのか、何を表現しようとしているのか、理解しようとしてもさてどう、何を手掛かりに?と思うことはよくある。特に、難解な表現を連ねた現代詩などにおいてはニガテもニガテ、迷わずスルーがほぼ決まった道で、そもそも現代詩を読むこと自体が滅多とない。
「『この詩、いいなあ』と感じたら、もうそれだけであなたは詩がわかる人なのです」
と内田鱗太郎さん。
「わかることよりも、感じることの方が、千倍も万倍も広くて深い」というご自身が好きな学者の言葉を引いて、「『この詩いいな』と感じられることは、いいなと感じてもいない詩を、上手に説明できることよりも、ずっと素敵なことです。そうして、ほんとうに詩がわかっていることです」
という〈詩の教室〉へのお誘いの言葉に、(そうなん)と気をよくしそう。(地元紙連載中の「詩よ遊ぼう」)
世田谷美術館館長・酒井忠康さんが著書『鍵のない館長の抽斗』の中で、
中桐正雄さんが詩人の草野新平さんにお会いしたとき、
「きみ、このごろの詩はわからんね」「わからん詩にも、いい詩はあるがね」
と言われたという話を紹介していた。
作者の意図など訊かれても、「わからん詩にも、いい詩はあるがね」とは、なかなか言えないから困る、と酒井さんは結んでいる。
「勝手に解釈したり鑑賞の自由に任せるだけが能でない」ことは、私にもわかる。
言葉や絵となったものから、何が告げられようとしているのかが理解すべき一歩。ようわからんものを、よさそうな詩だねというのも変だ。
「わかることよりも、感じることの方が、千倍も万倍も広くて深い」って…。
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