京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

絵に魂を込めるなら

2024年06月26日 | こんな本も読んでみた

浅井長政の家臣・海北善右衛門綱親の3男として1533年、近江国坂田郡に生まれた友松。
家督を継いだ長兄は、友松13歳のときに東福寺に入れた。

中国の毛利氏の外交僧として活躍する安国寺恵瓊、生涯の友となる明智光秀重臣の斎藤内蔵助利三との出会い。
光秀、信長。永徳。

「武士は美しくなければならない」- 生き方がいかにすぐれているか。
「美しいだけの絵が何になろう。絵はおのれの魂を磨くために描くものではないのか」
群雄割拠する時代。いつか還俗して武士として生きたい。そう思いながらできぬまま「人がこの世に生を享けるのは何ごとかをなすため」、自分のすることは何だろうと問い続け生きてきた。

法華宗を〈安土宗論〉で裏切った信長。「法華の蜘蛛の巣に捕らわれることになりましょう」
歴史の展開を知っているだけに、信長の正室・帰蝶が言い放った言葉は私に先を読みせかした。
〈本能寺の変〉の後、友松は建仁寺の下間三の間に、八面の襖の中に対峙する阿吽二形の双龍を描いて、この世を救った正義の武人、明智光秀と斎藤内蔵助の魂を留め置いた。

墨一色で描きながらも華やかな色彩を感じさせる(如兼五彩- 墨は五彩を兼ねる)〈松に孔雀図〉など、すさまじいまでの気迫が込められた画風の世界を繰り広げていった。

「絵とはひとの魂をこめるものでもあると思い至りました。この世は力のあるものが勝ちますが、たとえどれほどの力があろうとも、ひとの魂を変えることはできません。絵に魂を込めるなら、力あるものが滅びた後も魂は生き続けます。たとえ、どのような大きな力でも変えることができなかった魂を、後の世のひとは見ることになりましょう」

「人としてのよき香を残す」。恵瓊は言い残して去った。
「ひとはなさねばならぬ生き甲斐を持っておれば、齢のことなど忘れてよいのではありますまいか」
60を過ぎて20代の清月と出会い、子をなした友松。これは清月の言葉。
晩年は風雅の交わりを好むようになったそうで、悠々自適の暮らしの中で絵を描き続けたという。

巻末の澤田瞳子さんによる解説で、この作品が上梓されて10カ月後に葉室氏は急逝されたことを知る。読了したばかりで、まだ様々な言葉が自分の内に収まっていないのだが、葉室さんは、小説の中で生き方の模索を主人公たちに託して描いてみせてくれた。

龍の絵を観て心安らぐような私ではないが、いつだったか海北友松の展覧会をやり過ごしたのを残念に思い出しながら、それもしかたないこと、何ごとも個々に合った時期があるのだと思う。
                             ※  /27 少し加筆しました
      
コメント (6)
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