さっそく大事なことをディボーション中、聖書から考えさせられました。まずは酔っ払ったノアが裸でいた時、息子達が違う反応をした話から。息子の一人は父親を見て、「おーい、父ちゃんが酔っ払って裸でおるぞう!」と外に言いに行きました。それを聞いた他の二人の息子は後ろ向きに歩み寄って、衣をお父さんにかけてあげたのです。ノアは後の二人を祝福しました。さて、私だったらどうするかな?!面白がって見てたりして。いえいえ、裸じゃありませんよ、弱さとか人に見られたくない部分のこと。他の人に見えないようにそこに衣(これってキリストの義かな?)をかけてあげるのも偉いけど、自分達も目にしないように後ろ向きに歩み寄った、ってところがもっと偉いです。そんな部分があることを知りながら、それを宣伝したり、じろじろ見たり、また無視もせず、後ろ向きで覆ってあげた息子たち。
それから新約聖書の中から一章読みました。そこは、ペテロが異邦人差別をすることに矛盾を感じたパウロが公衆の面前で彼を責めた場面でした。ここでは、先の話とは逆に、人の間違いを公の場でズバズバ指摘しているんですよ。最初、こうも違っていいの?と正直思いました。だけど、ケース by ケースなんですね、きっと。本当の愛は優しさだけではなく、厳しさも持っているからね。個人個人の間の関わりの中できれいじゃない所に気づいた時、部外者には知らせない、そして自分も見ない方がいいこともある。ただ神様の衣でそれを包む。でもキリストの体を表している教会として、またクリスチャンとして、見逃してはいけないこともある。特に、それがすでに周りに見られている場合、放っておけば黙認している事になりかねませんよね。エゼキエル3:16-21とマタイ7:1-5のどっちも真理。どちらの方法を持って対処すべきか知る知恵、そしてすべきことをするために必要な勇気を神様にもらわなきゃ。
それから新約聖書の中から一章読みました。そこは、ペテロが異邦人差別をすることに矛盾を感じたパウロが公衆の面前で彼を責めた場面でした。ここでは、先の話とは逆に、人の間違いを公の場でズバズバ指摘しているんですよ。最初、こうも違っていいの?と正直思いました。だけど、ケース by ケースなんですね、きっと。本当の愛は優しさだけではなく、厳しさも持っているからね。個人個人の間の関わりの中できれいじゃない所に気づいた時、部外者には知らせない、そして自分も見ない方がいいこともある。ただ神様の衣でそれを包む。でもキリストの体を表している教会として、またクリスチャンとして、見逃してはいけないこともある。特に、それがすでに周りに見られている場合、放っておけば黙認している事になりかねませんよね。エゼキエル3:16-21とマタイ7:1-5のどっちも真理。どちらの方法を持って対処すべきか知る知恵、そしてすべきことをするために必要な勇気を神様にもらわなきゃ。