「すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となると主は言われる。」
エレミヤ31:31
言語学のクラスをとっていた時、mental grammar(メンタル文法)なる用語に出会い、ずっと気になっていたのでこの度「心のパターン―言語の認知科学入門」
(学生用図書の紹介->6)という本を読んでみました。これがなかなか面白い!「文法なんて面倒臭い」「文法がわからなくても母国語はしゃべれるじゃないか」そんな言葉は良く聞きますが、実は誰もが気付かずに頭の中に持っている、それがメンタル文法なのです。これがないと、どんなに語彙が豊富でも、言葉の組み立て方が分からず、伝えたいことは通じずにめちゃくちゃになっちゃう。言葉のルールって面倒なようで、実はないと困るものなんですね。メンタル文法とは、ある言語に沢山触れているうちに無意識に頭の中で認識され、体系化されて身についていく文法のパターン、とでもいったらよいでしょうか。赤ちゃんは文法としてそれを教わらなくても、ちゃんと母国語の文法のルールを吸収して使えるようになっていきますよね。補正が必要な時はもちろんありますが。教育学部で英語教育を学んでいた時、(国語なので第二言語教育とは違うけど)「低学年の子供には文法のルールそのものを教えるよりも、正しい文法の英語を沢山聞かせて読ませる方が、文法が自然に身について良い」と教わりましたっけ。これもしっかりしたメンタル文法を子供につけてあげるためなんでしょうね。ある時期(critical period)を過ぎてからは、母国語でも第二言語でも、その言語に触れながら文法そのものも学ぶ事も必要になるそうです。(これも仮説で、他にも様々な論があるようですが)
それとエレミヤ31:31と、どう関係があるのかって?この言語学のクラスメートと話しているうち発見して盛り上がったのですが、この「文法」を「律法」に置き換えて考えてみると、メンタル文法とエレミヤ31:31の共通点が見えて・・・きません?そもそも「律法」ってなんですかって?簡単に言えば、人間の為の神様の掟、かな。モーセの十戒(出エジプト記20章)にも代表されますが、その真髄は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(マタイ22:37,39)なのです。
文法とか律法とかって「面倒臭い」って敬遠されがちだけど、ないと困るもの。だけど「覚えなきゃ、守らなきゃ、間違えないようにしなきゃ。」と頑張るだけなのは難しい。でも正しい文法を使った文章、または神様の愛に沢山触れているうちに、無意識のうち自然に自分の中に正しいものが形成されていく、それがメンタル文法、またエレミヤ31:31の約束なんじゃないかと。文法や律法そのものを知る事が無意味なわけじゃないけれど、知ってる事と身につく事は別問題ですもんね。(どこかでつながってるはずだけど)律法という難しい言葉じゃなくても、親や教師が子供に正しい事を教えるのには、「こうしなさい」っていうのも必要だけど、その正しい生き方を見せていく方がもっと大事なのと同じ事。
なーんてエラそーな事書いといて、「静かに!」って叱ると「先生だってさっきまで一緒にしゃべってたじゃん。」と言われるのが私の現状なんですけどね。Easier said than done.(言うは行うより易し)だな。
だけどPractice what you preach. (説教する事を実行せよ)
それを完璧にできるのは神様だけですが、近づいていきたい今日この頃。
P.S.これ、言の葉か神の葉か、どっちのカテゴリーに入れるか迷ったんだけど、まだ神の葉が一枚しかないので、こっちにつけときます。
(いいのか?こんな安易な理由で・・・)
わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となると主は言われる。」
エレミヤ31:31
言語学のクラスをとっていた時、mental grammar(メンタル文法)なる用語に出会い、ずっと気になっていたのでこの度「心のパターン―言語の認知科学入門」
(学生用図書の紹介->6)という本を読んでみました。これがなかなか面白い!「文法なんて面倒臭い」「文法がわからなくても母国語はしゃべれるじゃないか」そんな言葉は良く聞きますが、実は誰もが気付かずに頭の中に持っている、それがメンタル文法なのです。これがないと、どんなに語彙が豊富でも、言葉の組み立て方が分からず、伝えたいことは通じずにめちゃくちゃになっちゃう。言葉のルールって面倒なようで、実はないと困るものなんですね。メンタル文法とは、ある言語に沢山触れているうちに無意識に頭の中で認識され、体系化されて身についていく文法のパターン、とでもいったらよいでしょうか。赤ちゃんは文法としてそれを教わらなくても、ちゃんと母国語の文法のルールを吸収して使えるようになっていきますよね。補正が必要な時はもちろんありますが。教育学部で英語教育を学んでいた時、(国語なので第二言語教育とは違うけど)「低学年の子供には文法のルールそのものを教えるよりも、正しい文法の英語を沢山聞かせて読ませる方が、文法が自然に身について良い」と教わりましたっけ。これもしっかりしたメンタル文法を子供につけてあげるためなんでしょうね。ある時期(critical period)を過ぎてからは、母国語でも第二言語でも、その言語に触れながら文法そのものも学ぶ事も必要になるそうです。(これも仮説で、他にも様々な論があるようですが)
それとエレミヤ31:31と、どう関係があるのかって?この言語学のクラスメートと話しているうち発見して盛り上がったのですが、この「文法」を「律法」に置き換えて考えてみると、メンタル文法とエレミヤ31:31の共通点が見えて・・・きません?そもそも「律法」ってなんですかって?簡単に言えば、人間の為の神様の掟、かな。モーセの十戒(出エジプト記20章)にも代表されますが、その真髄は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(マタイ22:37,39)なのです。
文法とか律法とかって「面倒臭い」って敬遠されがちだけど、ないと困るもの。だけど「覚えなきゃ、守らなきゃ、間違えないようにしなきゃ。」と頑張るだけなのは難しい。でも正しい文法を使った文章、または神様の愛に沢山触れているうちに、無意識のうち自然に自分の中に正しいものが形成されていく、それがメンタル文法、またエレミヤ31:31の約束なんじゃないかと。文法や律法そのものを知る事が無意味なわけじゃないけれど、知ってる事と身につく事は別問題ですもんね。(どこかでつながってるはずだけど)律法という難しい言葉じゃなくても、親や教師が子供に正しい事を教えるのには、「こうしなさい」っていうのも必要だけど、その正しい生き方を見せていく方がもっと大事なのと同じ事。
なーんてエラそーな事書いといて、「静かに!」って叱ると「先生だってさっきまで一緒にしゃべってたじゃん。」と言われるのが私の現状なんですけどね。Easier said than done.(言うは行うより易し)だな。
だけどPractice what you preach. (説教する事を実行せよ)
それを完璧にできるのは神様だけですが、近づいていきたい今日この頃。
P.S.これ、言の葉か神の葉か、どっちのカテゴリーに入れるか迷ったんだけど、まだ神の葉が一枚しかないので、こっちにつけときます。
(いいのか?こんな安易な理由で・・・)
文法も、律法も、神様が人間の内に刻みつけたものなのかもしれませんね。それなら、両方とも神様からの贈り物だと信じて、大事にしていくなら、世界は変わっていくことでしょう。神から流れてくる愛をこの地上で実践するために律法にしたがい、神から受け取った愛を伝えるために言葉を用いる。確かに言語と律法には共通点がありますね。
私はクリスチャンライフにも関心がありますが、このブログは、RSSリーダーに「言語学」というキーワードを登録しておいたら、たまたま引っかかったのでした。「聖書」も登録してあるのですが、そちらではなくて、信仰生活とはあまり関係のないキーワードでこのブログと出会ったのは、少し面白いです。
「クリスチャンライフ」と「言語教育」、両方とも私の関心のある領域なので、これからもちょこちょこと来てみますね。
私もこの8月からブログを始めました。もしよろしければ、一度覗いてみてください。
Mark's Blog
http://mark.web5.jp/mblog/
さて、私の周りの人達には、状況によって自分のどちらか片方の面しか見えていない(あるいは見せていない)場合もあると思うのですが、クリスチャンとして、また英語教師として折々感じた事、考えた事を両方綴る事が、本来自分にとってはより自然に近い気がします。またその2つがリンクしている場合もありますよね。「メンタル文法とエレミヤ31:31」みたいに。それに気づかせて頂けるのは、感謝です。