
(伊勢崎の八斗島)
伊勢崎市の南部、利根川に接する場所に
八斗島町(やったじままち)があります。
変わった名前ですが、
その名前の由来をご紹介しましょう。
八斗島町には、
八斗島神社という大きな神社があり、
その南東方向に、墓地があります。
その中に、町名の由来となった
境野八斗兵衛さんと八斗島の関わりを記した石碑がありました。
石碑の内容を要約してご紹介します。
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(境野家由来之碑)
桓武天皇の子の平城天皇の子孫の大江音人の子孫の
大江朝臣廣元の後裔の大江主水正吉澄が境野と始称し、
境野家の元祖となりました。
その子で、那波城主小姓組頭の境野隼人宗廣の末子
境野八斗兵衛宗澄は、仕えていた那波城主が
天正十八年の「奥州九戸の戦い」(注1)で討ち死にしたため帰農しました。
境野八斗兵衛は利根川と烏川の合流点に近い中州草原地で
稗島と呼ばれた所を開拓し、
新しく領主となった酒井雅楽頭忠清(注2)に
慶長六年に差し出したところ、
稗島は村に格上げとなり、開拓した里長である
八斗兵衛宗澄の顕彰の意を含めて八斗島と名づけられました。
これは今から400年前のことである。
八斗兵衛は五十嵐無兵衛と共に五社稲荷神社を祀ったところ、
衆人が集まり現在の八斗島町となりました。
八斗兵衛の次男庄治吉隆は、九戸の戦いで滅んだ
那波城主一族を弔うため出家し、伊勢崎の同聚院住職となり、
その後、福井県大本山永平寺三十二世(三十三世)大和尚
(勅特賜覚海智圓禅師山陰徹翁大和尚)となり、
元禄十三年に八十二歳で卒しました。
山陰徹翁大和尚は、寛永・元禄の年代に
徳川光圀に請われ、参禅の師に応じました。
(注1)「九戸政実の乱」は、天正18年ではなく、
天正19(1591)年に、南部氏の親族にして家臣団の1人であった九戸政実が、
豊臣秀吉による「奥州仕置」に反旗を翻し、
本拠地の九戸城(岩手県二戸市)に篭城を敢行したようです。
(注2)
酒井家と那波藩について調べたところ、
九戸の乱(1591)で討ち死にした那波氏のあとにできた
那波藩の初代藩主は松平家乗ですが、家乗は慶長6年(1601)に
美濃国岩村藩に加増移封となりました。
その後慶長6年(1602)に
新しく那波城主となったのは
武蔵国川越藩から来た酒井忠世です。
忠清が雅楽頭(うたのかみ)の職についたのは慶長12年(1607)であり、
忠清が那波城主を継いだのは寛永14年(1637)年なので、
八斗兵衛さんが開拓地を差し出した当時の藩主は、
忠清ではなく、おそらく酒井忠世だと思われます。
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(感想)
400年前から現在の地に、
境野さんが住みついたとは、古い歴史ですね。
それにもまして驚いたのは、
石碑によれば、境野さんのご先祖は天皇家だとか。
日本の中でも、由緒正しい御家系です。
戦国時代には、
今の伊勢崎市堀口町あたりに、
那波氏が那波城を構えていて、
私のすむ富塚町には、その支城の
富塚城が築かれていたと聞いています。
また、八斗島神社の前を通る南北の道は
江戸時代には、前橋の殿様が参勤交代の折に
駕籠で通ったと、郷土史家の方にうかがいました。
迅速測図といって、
明治初期から中期にかけて、
明治政府が作成した古地図があります。
つくば市にある国土地理院や
千代田区の国土交通省国土地理院 関東地方測量部などで
コピーを買うことができ、私も持っています。
現在のような変化の激しい時代と違って、
明治初めから中期頃の地図は、
江戸時代の姿と、ほとんど変わっていないと思います。
その地図がこちらです。
たしかに、神社の前の南北の道は太くて、
利根川を渡るような場所も描かれています。
(水戸黄門の師)
またまた驚いたことに、
石碑によれば、境野八斗兵衛さんの次男は出家し、
大本山永平寺の大和尚となりました。
そして、水戸光圀に請われて、
禅の師匠を務められました。
水戸光圀は名君の誉れが高い方ですが、
その師匠となる人物が、
伊勢崎市の八斗島から生まれたとは
知りませんでした。
伊勢崎の子どもたちや、知り合いの郷土史家の方にも
教えてあげたいと思います。