
各都道府県には
「紋章」という県のマークと「県旗」があります。
ほとんどの都道府県は、
県のマークを県旗にも使っているのですが、
なぜか群馬県旗は県の紋章と異なるデザイン。
私も県職員時代から、
なんでだろうと疑問に思っていました。
その上、県職員が身につける職員バッジのデザインは、
なんと県の紋章ではなく、県旗のデザインを使っています。
これでは県の紋章の立場がありません。
今回、制定の事実関係と、
不明な部分について推理してみました。

(事実関係の確認)
まず、一番古い時代に制定されたのは、
「紋章」で大正15年に県議会で議決。
その後一度も改正なし。
次に古いのは「県旗」だろうとおもいきや、
制定年だけを見ると、職員バッジの方が古いのです。
こちらは事務的なものなので、
県庁内部の決裁で昭和40年に制定。
その後、「県旗」が県議会で議決されたのが
昭和43年です。
(推測)
県の旗が、県職員バッジをまねしたとは考えにくい。
むしろ、県旗のデザインが決まり、
それにあわせて県職員バッジのデザインが決まるのが
自然な流れでしょう。
「群馬県旗」について、ウイキの記述は次のとおり。
これは明治100年を記念して製作されたものである。
当初はデザインを県民から募集したが、
応募作品のなかに採用されるものは無く、
専門家に委託されて製作された。
作成者は群馬県繊維工業試験場の田島康次である。
中央部は群馬県章と同様に、
丸く図案化された「羣」が配置されている。
一方その外周にある上毛三山の形は県章と異なり、
「伸びゆく群馬」を表す3つの三日月型になっている。
県旗の地色の紫色は、古来からの上野国の文化的繁栄を表す
おくゆかしい色としての配色である[3]。
県旗の作成は、明治100年を記念した
群馬県の一大事業として大々的に募集されたのでした。
そして、デザインと色の趣旨まで
ていねいに解説した資料が残っているようです。
となると、
「県職員のバッジのデザインを県旗のデザインとして、
そのまま流用」は、しなかったと推測されます。
私の推測が正しいとするならば、
県旗の制定年よりも、県職員バッジの制定年の方が古い、
という事実が矛盾します。
それを解決するカギは、規則改正です。
「県の紋章」と「県旗」は、デザインが決まってから
一度も改正されていません。
しかし「県職員のバッジ」は、3回ほど改正があります。
県旗より古い昭和40年に制定されたのち、
第1回目の改正が昭和57年にありました。
第2回目の改正は平成6年です。
私が群馬県庁へ就職したのは昭和63年で、
その時には職員バッジはすでに現在のデザインでした。
そこで考えられるのは、昭和57年の改正により
職員バッジが今のデザインに変更されたのではないか?
ということです。
当時の時代背景として、
昭和58年は群馬県にとって第1回目の国体開催。
大いに気合を入れて準備したことでしょう。
その前年に県職員バッジの改正が行われたのです。
もしかすると、
初めに制定された職員バッジのデザインは、
多くの都道府県と同じように、
「県の紋章」型のデザインだったのではないか、と
推測されます。
しかし、群馬県では、明治100年を記念して
県の紋章と異なる「県旗」を、昭和43年に制定してしまったため、
このまま国体に突入すると、
群馬県職員は、群馬県旗と異なるバッジを身につけて
来県者へ対応することになります。
これは本当に群馬県職員なのかという混乱を招く、
という恐れから、国体開催の前年に
急遽、「県旗」に「県職員バッジ」のデザインを合わせる
という改正を行ったのではないか?
というのが私の推理です。
「県の紋章」や「県旗」のデザインは、
県議会で議決しますので、容易に変更できませんが、
「県職員バッジ」は、県庁内部の規則改正なので、
簡単に変更できます。
(推測のその先)
群馬県職員であることを示すはずの職員バッジが
県の紋章ではない、という変な事態が生じた原因を
さらに考えてみたいと思います。
現在の県職員バッジのデザインを、
県の紋章を採用せずに、
県旗のデザインに合わせてしまったことが原因です。
さらにその原因は、
県の紋章と異なるデザインの県旗を作ってしまったことが
原因です。
なぜ、ことなるデザインの県旗を作ったのか?
当時の群馬県知事は神田坤六(こんろく)さん。
みなかみ町と尾瀬を結ぶ県道の峠の開通記念に、
「坤六峠」と命名しました。
ほかの知事名の峠や県道は
あまり聞きませんので、
神田坤六(こんろく)知事は、
かなり目立ちたがり屋だったのだろうと思われます。
その性格故、
明治100年記念事業として
なにか大々的にやろうと考え、
県旗のデザインを県民から公募するという
当時としては先進的な取組みを行ったのではないでしょうか。
しかし、その結果は残念なもので、
応募作品から採用されたものはなく、
結局、専門家に県旗のデザインを依頼したのでした。
この神田知事の取り組みにより、
「県の紋章と県旗のデザインが異なる」
という珍しい現象が発生し、
それに引きずられる形で、
県職員であることを示すはずのバッジが
県の紋章と異なる、という事態にまで
発展したというのが事の次第ではないでしょうか。
これは私の推理なので、
事実とは異なっているかもしれません。
私の推測の方向性が正しいか確認する手がかりとして、
昭和57年以前の県職員バッジのデザインが、
今と異なっていたかどうか、知っている人にあたるか、
古い行政資料を調べれば、確認できると思います。
私の推測が正しければ、
昭和57年以前の県職員バッジのデザインは
今の県の紋章型で、57年の改正により
県旗型に変えられたのではないか、と思います。
P.S.
群馬県民手帳についても疑問が浮かんできました。
近年の表紙は県の紋章なのですが、
昔は県旗のマークだったような気がします。
あいまいな記憶なので、
昭和時代の手帳をお持ちの方、教えてください!
「紋章」という県のマークと「県旗」があります。
ほとんどの都道府県は、
県のマークを県旗にも使っているのですが、
なぜか群馬県旗は県の紋章と異なるデザイン。
私も県職員時代から、
なんでだろうと疑問に思っていました。
その上、県職員が身につける職員バッジのデザインは、
なんと県の紋章ではなく、県旗のデザインを使っています。
これでは県の紋章の立場がありません。
今回、制定の事実関係と、
不明な部分について推理してみました。

(事実関係の確認)
まず、一番古い時代に制定されたのは、
「紋章」で大正15年に県議会で議決。
その後一度も改正なし。
次に古いのは「県旗」だろうとおもいきや、
制定年だけを見ると、職員バッジの方が古いのです。
こちらは事務的なものなので、
県庁内部の決裁で昭和40年に制定。
その後、「県旗」が県議会で議決されたのが
昭和43年です。
(推測)
県の旗が、県職員バッジをまねしたとは考えにくい。
むしろ、県旗のデザインが決まり、
それにあわせて県職員バッジのデザインが決まるのが
自然な流れでしょう。
「群馬県旗」について、ウイキの記述は次のとおり。
これは明治100年を記念して製作されたものである。
当初はデザインを県民から募集したが、
応募作品のなかに採用されるものは無く、
専門家に委託されて製作された。
作成者は群馬県繊維工業試験場の田島康次である。
中央部は群馬県章と同様に、
丸く図案化された「羣」が配置されている。
一方その外周にある上毛三山の形は県章と異なり、
「伸びゆく群馬」を表す3つの三日月型になっている。
県旗の地色の紫色は、古来からの上野国の文化的繁栄を表す
おくゆかしい色としての配色である[3]。
県旗の作成は、明治100年を記念した
群馬県の一大事業として大々的に募集されたのでした。
そして、デザインと色の趣旨まで
ていねいに解説した資料が残っているようです。
となると、
「県職員のバッジのデザインを県旗のデザインとして、
そのまま流用」は、しなかったと推測されます。
私の推測が正しいとするならば、
県旗の制定年よりも、県職員バッジの制定年の方が古い、
という事実が矛盾します。
それを解決するカギは、規則改正です。
「県の紋章」と「県旗」は、デザインが決まってから
一度も改正されていません。
しかし「県職員のバッジ」は、3回ほど改正があります。
県旗より古い昭和40年に制定されたのち、
第1回目の改正が昭和57年にありました。
第2回目の改正は平成6年です。
私が群馬県庁へ就職したのは昭和63年で、
その時には職員バッジはすでに現在のデザインでした。
そこで考えられるのは、昭和57年の改正により
職員バッジが今のデザインに変更されたのではないか?
ということです。
当時の時代背景として、
昭和58年は群馬県にとって第1回目の国体開催。
大いに気合を入れて準備したことでしょう。
その前年に県職員バッジの改正が行われたのです。
もしかすると、
初めに制定された職員バッジのデザインは、
多くの都道府県と同じように、
「県の紋章」型のデザインだったのではないか、と
推測されます。
しかし、群馬県では、明治100年を記念して
県の紋章と異なる「県旗」を、昭和43年に制定してしまったため、
このまま国体に突入すると、
群馬県職員は、群馬県旗と異なるバッジを身につけて
来県者へ対応することになります。
これは本当に群馬県職員なのかという混乱を招く、
という恐れから、国体開催の前年に
急遽、「県旗」に「県職員バッジ」のデザインを合わせる
という改正を行ったのではないか?
というのが私の推理です。
「県の紋章」や「県旗」のデザインは、
県議会で議決しますので、容易に変更できませんが、
「県職員バッジ」は、県庁内部の規則改正なので、
簡単に変更できます。
(推測のその先)
群馬県職員であることを示すはずの職員バッジが
県の紋章ではない、という変な事態が生じた原因を
さらに考えてみたいと思います。
現在の県職員バッジのデザインを、
県の紋章を採用せずに、
県旗のデザインに合わせてしまったことが原因です。
さらにその原因は、
県の紋章と異なるデザインの県旗を作ってしまったことが
原因です。
なぜ、ことなるデザインの県旗を作ったのか?
当時の群馬県知事は神田坤六(こんろく)さん。
みなかみ町と尾瀬を結ぶ県道の峠の開通記念に、
「坤六峠」と命名しました。
ほかの知事名の峠や県道は
あまり聞きませんので、
神田坤六(こんろく)知事は、
かなり目立ちたがり屋だったのだろうと思われます。
その性格故、
明治100年記念事業として
なにか大々的にやろうと考え、
県旗のデザインを県民から公募するという
当時としては先進的な取組みを行ったのではないでしょうか。
しかし、その結果は残念なもので、
応募作品から採用されたものはなく、
結局、専門家に県旗のデザインを依頼したのでした。
この神田知事の取り組みにより、
「県の紋章と県旗のデザインが異なる」
という珍しい現象が発生し、
それに引きずられる形で、
県職員であることを示すはずのバッジが
県の紋章と異なる、という事態にまで
発展したというのが事の次第ではないでしょうか。
これは私の推理なので、
事実とは異なっているかもしれません。
私の推測の方向性が正しいか確認する手がかりとして、
昭和57年以前の県職員バッジのデザインが、
今と異なっていたかどうか、知っている人にあたるか、
古い行政資料を調べれば、確認できると思います。
私の推測が正しければ、
昭和57年以前の県職員バッジのデザインは
今の県の紋章型で、57年の改正により
県旗型に変えられたのではないか、と思います。
P.S.
群馬県民手帳についても疑問が浮かんできました。
近年の表紙は県の紋章なのですが、
昔は県旗のマークだったような気がします。
あいまいな記憶なので、
昭和時代の手帳をお持ちの方、教えてください!