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退職後、自分に気ままな課題をちょっと与えて遊んでいます。

日展・名古屋展が今日から開催

2016-01-27 10:13:30 | 美術絵画



いろんな経緯があり、「改組 新 第2階日展」として今日から名古屋で開催です。
日展は名古屋での開催は地域のひとにとって特別な作品展として評価されています。
これは入場者数からも分かります。

第45回日展で京都が約3.4万人、大坂が約3.7万人、名古屋では約6万人と人口比でいえば名古屋での人気は抜群です。

一方、応募者数から見てみますと入選の倍率は日本画で約2.5倍、洋画で約4倍、彫刻が約1.5倍、工芸美術が約1.7倍、
書は何と約11倍と、書は倍率だけからみれば厳しいものがあります。
書の応募は各地で書道教室の講師をされている先生方もされていますので、一般人の入選率はご推測ください。

分野別から見ますと日本画・洋画・彫刻・工芸美術はテーマを自由に選ぶことができます。
書道の場合、書作は出品者ですがその書く字句や漢詩などを自分で作ることは容易ではありません。
漢詩が隆盛になったのは中国の盛唐の時代、7-9世紀のころで李白や杜甫などが有名で蘇東坡などはやや時代が下ります。
これらの漢詩などを書く書作家が多いのが現状です。
王羲之の書状や良寛の書状・自作の漢詩・短歌が有名は理由は展覧会作品とは異なっているからでしょう。

日展の書道の部屋を素通りしないで、ご自分なりの鑑賞方法で気持ち良い刺激を受けることがあればいいですね。

石川九楊氏は「書と言葉」で
座右銘や人生訓、教訓の語句が、揮毫の筆調(トーン)と美しく共棲している。だがそれは、自立できない言葉と自立
できない形象とが凭れあった場で成立する哀しい美だ。
書が言葉を記したところに成立するのは自明の理だが、現代の書の表現が、言葉に寄り添うだけでなく、成立の根拠で
ある言葉とせめぎあい、言葉を無化するところにしか成り立たない。
言語無化を曲解した書道界の手法は、言葉を書かないこと。
「非文字性の書」という部外者には見当もつかないジャングルが、良くも悪しくも現代書の位置を鮮明に映し出す。

書道家で文化勲章受章の村上三島氏は書道界の現状で制作者と鑑賞者との溝を感じて居られます。

「言霊」とも申します。言葉は人に訴えるメッセージ性があります。
歌謡曲でもニューミュージックでも音楽とことばのハーモニーです。そしてそこに歌い手のエネルギーが加わります。
歌謡曲などは一般的には作詞、作曲、歌い手と分かれます。
シングソングライターは作詞・作曲・歌い手は同じであり、信じた道を突き進み漫画世代に受け入れやすい「はなしことば」
を使って聞く人が持っている不安やストレスを吹き飛ばそうとするエネルギーがあります。
長淵剛が富士山の麓で10万人もの聞き手を集める理由もそこにあるのでは、と思っています。

歌謡曲の世界と書道界の世界との比較は飛躍しすぎと思いますが、歌い手の技量、書き手の技量のウエイトが大きく、
「聴くひと、見るひと」にどこまでメッセージ性、エネルギーが伝わるのかが勝負と思われます。