K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

大学時代の同期会

昨日のことです。

2009年4月11日(土)


東京は良く晴れた初夏のような日でした。湿度が14パーセントだったので、夕方は寒い感じがしました。日本の気候が変わったような乾燥が続くとお肌に悪いですよね。

今日は大学時代のサークルの同期で上野に集いました。



一週間前は満開だったサクラもほとんど散ってしまいましたが、お花見宴会は盛り上がっていました

正面は東京国立博物館

博物館敷地の枝垂れサクラ

仏教美術を鑑賞する会だったので、東京国立博物館「阿修羅展」に合せました。
博物館の中は同期でゾロゾロという野暮なことはせずに、自由鑑賞



興福寺国宝館の阿修羅像・八部衆像・十大弟子像・・・
このシーズンに、興福寺さんはお淋しいこと、みなさま東京にお出ましになってしまって・・・
国宝館は世親、無著さまがに見学の方へのおもてなしにお忙しいでしょうね。

興福寺の国宝館の諸仏はは学校を卒業後、見学していないので、阿修羅像などなど、ん十年ぶりの見学になり、コッコーの頭の中の阿修羅像のイメージは美術全集の写真でした。
国宝館の収蔵品は多数なので、現地での見学は食傷気味になってしまいますが、博物館では数にも限りがあり仏像と仏像の間隔をゆったりとった陳列だったので、各方角から見学できたので新鮮でした。学生時代は見学のあとで、何か感想を言わなければというプレッシャーがありましたが、今は「感じなければいいのだ、無理に感想をいう必要はない」と、ゆっくり、ゆったり楽しみました。これらの諸仏のお顔のやさしさや可愛らしさをみると、国家として第一歩を踏み出した時代を反映しているのかな。

阿修羅は八部衆の1つです。
八部衆は、
五部浄(ごぶじょう)
沙羯羅(さから)
迦楼羅(かるら)
鳩槃荼(くばんだ)
阿修羅 (あしゅら)
乾闥婆(けんだつば)
緊那羅(きんなら)
畢婆迦羅(ひばから)
Cちゃん「かるらっていまどきの名前にいいじゃない」
コッコー「そうだね。最近はきれいな音で、当て字が多いからね」
コッコー「さから、かるら、・・・・パーリ語かサンスクリット語の読みをそのままで、中国に伝来した時に漢字を当てたのね」

阿修羅像は激しい怒りや争いをじっと耐える姿だと思い込んでいました、が、目の前の阿修羅像は三面とも可愛らしく穏やかな表情に見えました。どのお顔も正面からも横顔からも端正で、静かな感じでした。スタイルもとっても良く、像全体からすると手がとても長いなという感じのほかは均整がとれていました。当時の日本人はこんなにスタイルがいいとは思えないな、モデルは と、思ってしまいました。

さて、博物館のネット上での説明をコピーします。

阿修羅の物語
阿修羅はインドに古くからいた神様で、天空の覇権をめぐる戦いに執念を燃やしました。
インドの最高神インドラ(帝釈天)と壮絶な戦いを繰り広げたことで有名です。最後には戦いに敗れ、仏教を深く信じるようになり、その像は仏教を守る神さまとしてまつられています。

阿修羅の姿
阿修羅は3つの顔、6本の腕があります。仏教用語では三面六臂といいます。ひとりで数人分の活躍をするような強い力、この世のものではない不思議な力をもっていることを表しているのでしょう。

阿修羅の表情
阿修羅は戦いの神なので、怒った勇ましい顔で表現されます。けれども、この阿修羅の顔はまるで子どものよう。ちょっと眉をひそめて悲しげな表情をしています。それはなぜでしょうか。
阿修羅が作られた奈良時代までさかのぼれば、その秘密が分かるかもしれません。
この像を作らせたのは、聖武天皇のお后の光明皇后です。733年に皇后のお母さんがなくなり、皇后はお母さんを思って興福寺に西金堂という建物を建てることにしました。そして、1年後の734年1月11日にたくさんの仏像をお祭りして供養しました。それらの仏像は、金光明最勝王経という古いお経に記された物語のある場面を再現するように置かれていたといわれています。それは、お釈迦様の周りにみなが集まってじっと話を聞いている場面だったのです。そのうちのひとりが、この阿修羅像です。

阿修羅の仲間
阿修羅像は興福寺の西金堂に、八部衆のなかのひとりとしてまつられていました。八部衆というのは、お釈迦に仕え、仏教を守るガードマンです。鳥の顔をしたもの頭の上に蛇をのせたものなど、不思議な姿をしています。




阿修羅展で橘夫人の念持仏のお厨子と阿弥陀三尊像を見ることができたのは嬉しかったです。阿弥陀三尊像はお厨子の外に出されていたので、姿がよく分かりました。
お厨子は屋敷の室内に置き、屋敷の主の持仏を安置しておきます。玉虫の厨子よりはるかに大きくて威圧的な感じがしますので、所有者橘三千代の権勢を再確認しました。

県犬養 三千代(あがたのいぬかい の みちよ)
 橘三千代は、朝廷の女官として52年間勤めました。天武天皇(在位672年~)・持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇(~724年)までの5代にわたるものでした父の県犬養氏は6世紀始め頃、安閑天皇の時代に屯倉の管理を任されたとの記録があります。出身は河内の古市で、もとは猟犬の飼育を職務とする伴造ともいわれています。
 三千代は美努王の妻となり、葛城王(のち橘諸兄=聖武天皇のころ政権を担当)などを産みました。
 694年(持統8年)、美努王が大宰府の長官となって筑紫に赴任すると、王を捨てて藤原不比等の後妻となり光明子(貴族出身として初めての皇后となる)らをもうけました。
 また文武天皇(683年~707年)の養育係りを勤め、708年には、その功労により橘宿禰(たちばなのすくね)姓を賜わり、藤原・橘両氏の繁栄の基礎を築くことになりました。
 720年(養老4年)に夫の死で、莫大な遺産の大半は妻・三千代のものとなり、光明子に受け継がれたようです。733年(天平5年)1月11日に亡くなりました。死後の同年12月28日に従一位、760年(天平宝字4年)8月7日に正一位と大夫人の称号を贈られました。
 聖武天皇の皇后となった光明子が、母・三千代の一周忌に合わせて興福寺に西金堂が建立して諸仏を安置しました。また法隆寺に、三千代のものと伝えられる「橘夫人厨子」があります。


続く
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