K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

谷中・上野の見所

2009年1月18日(日)曇


昨日のクラス会で谷中・上野方面を散策しました。見所満載のところを新幹線並みの速さで通り過ぎましたので、十分な見学ではありませんが、二三名所をご紹介します。江戸は室町時代に太田道灌が江戸城を建立しました、が、本格的な発展は1590年小田原攻めに成功して天下統一後、豊臣秀吉の命令で徳川家康が三河・遠江・駿河等から関東に移封され、江戸城を居城としてからです。
ほぼ260年続いた徳川幕府の歴史に関わる見所は多種あります。



〔黒田記念館〕

明治から大正にかけて活躍した日本洋画界の重鎮黒田清輝の絵画等が展示されています。記念館の建物は1928年(昭和3年)に竣工したとものなのでどっしりとした天井も高く落ち着いています。
なんといっても入場無料で本物の《湖畔》が鑑賞できるのはお薦めです。

黒田記念館案内図

湖畔



(上三枚の写真はパンフレットを撮りました)



〔江戸時代・徳川家〕

上野の東京国立博物館は学生時代から親しんでいましたが、寛永寺は名前だけで訪問したことがありませんでした。東京国立博物館の北から北西の広大な地域に寛永寺と墓地が広がっていました。
寛永寺は三代将軍徳川家光が創建者で初代住職は天海です。天台宗の関東総本山で山号を東叡山(とうえいざん)といいます。比叡山に対する東の比叡山ということのようです。
墓地で自称ガイドさんが「忍ばすの池はなぜ作ったのかわかりますか」
「さあ・・・」考えたこともありませんでした。
自称ガイドさん「琵琶湖を模したのですよ」
「そうか、最澄が唐から帰国後天皇から賜った比叡山延暦寺の東は琵琶湖ですよね」

5代将軍徳川綱吉公霊廟勅使門
犬公方と言われる綱吉は「生類哀れみの令」で評判が悪い人物ですが、将軍職についた当初は仏教儒教など学問に打ち込み「天和の治」といわれるように政治にも打ち込みました。寛永寺の根本中堂は綱吉の建立です。寛永寺に霊廟があります。
徳川綱吉公霊廟内に13代将軍家定と妻の篤姫(天璋院)の墓があります。天璋院は1883年(明治16年)に48歳で亡くなりました。天璋院の墓はお身内の方々しかお参りができないとのことです。
案内板の天璋院の墓の写真です。


15代将軍徳川慶喜の墓
寛永寺の飛地、谷中の墓地にあります。(現地を歩いていると寛永寺の墓地と谷中の墓地の境界は分かりません)
※徳川将軍の墓
日光東照宮:初代家康
日光輪王寺:3代家光
芝増上寺:2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂
上野寛永寺4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定

慶喜の墓はストゥーパのようでしたが、自称ガイドさんによると慶喜は出身が水戸なので神道のお墓という説明でした。付け加えての説明で、徳川家は神道でも仏教でもどちらでも良いとのことでした。
慶喜ご夫妻のお墓の背後にはふたりの側室の墓があります。慶喜夫妻には子が一人いましたが早世しました。側室の2人で10男11女を儲けました。10男の精は勝海舟の婿養子になりました。

勝精・伊代子の墓


〔彰義隊の戦いの跡〕
彰義隊の戦いの弾痕は各所に残っているようですが日暮里駅から北へ3分ほどのところにある全経寺は幕府側のものを匿ったということで官軍の弾痕跡があります。


『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』の滝沢馬琴の筆塚


江戸末期から明治の新聞記者・戯作文学の仮名垣 魯文(かながき ろぶん)の墓
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