K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

映画「シロタ家の20世紀」 その2

2008年10月16日(木)雲ひとつない快晴

ピアニストのレオ・シロタはアジア太平洋戦争中、オーストリア国籍(同盟国側)でしたが、ユダヤ人だったので、とてもご苦労なさったようです。先ず、旧東京音楽学校の教授を解雇されました。さらに、外国人は軽井沢に強制疎開されました。シロタご夫妻は三笠の有島武郎の別荘に住んだようですが、詳しいことは分かりません。
有島武郎別荘【浄月庵】 現在は南軽井沢に移築


食糧不足による栄養失調と軽井沢の寒さでシロタ夫人は体調を崩されたようです。
娘のベアテはアメリカ留学中にアジア・太平洋戦争が勃発してしまったので、日本の両親シロタ夫妻と連絡が途絶えてしまいました。戦争が終わるとベアテは両親に会いたいとの一心でアメリカ軍に就職して、GHQスタッフとして、1945年12月24日に日本に再来日することが出来ました。しかし、自宅のあった乃木坂周辺は焼け野原となってしまっていました、が、両親の所在を突き止め、軽井沢で再会を果たしました。しかし、寒い軽井沢に病気の母を住まわすことは出来ないので、再会した日のうちに両親を東京に連れ帰り、どうやら、レオの教え子の家に落ち着くことが出来るようにしました。
戦後、レオ・シロタは復職が出来ず、日本にも落胆したようです。しかし、アメリカでの音楽教授の職を得て渡米しました。


太平洋戦争中の外国人強制疎開の地、旧軽井沢の建物です。

旧スイス公使館の疎開先   深山荘




戦争中、万平ホテルにはソ連・フィリピン・トルコ大使館、スペイン・ポルトガル公使館が疎開しました。




万平ホテルは現在営業しています。


旧三笠ホテル(1970年10月廃業)  重要文化財

全室、この暖炉がありました。

クローゼットの鏡に映っちゃいました


外務省の軽井沢出張所が置かれ、外国人の食糧等の世話をしていました。

旧軽井沢の三笠一帯に300人ほどの外国人が疎開したようです。彼らのパンの配給を担当したのは現在の旧軽井沢銀座の浅野屋です。

写真は2008年9月29日撮影
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日本国憲法」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事