コヤチン、さまよい日記

静岡県内を東へ西へ行ったり来たりしています。
応援している清水エスパルスの試合の感想もお伝えします。

石薬師→庄野→亀山→関→坂下を歩きました。

2013-06-15 20:44:16 | 東海道
今日は東海道ウォークの三重県の続き石薬師の手前からのスタートです。
先々週に歩いていますので今回はインターバルが短いので足が慣れていることを期待したいと思います。

国道1号線から別れた旧東海道を行きます。
旧東海道に入ると程なく石薬師宿に入ります。
まず、小沢本陣跡があります。道のサイズとしては旧街道っぽくなってきました。

今日はここからスタートです。

佐佐木信綱記念館とその生家跡もあります。この地の出身で歌人・歌学者として万葉集の研究に寄与した人物であります。
 佐佐木信綱の生家です。

更に進むと国道1号線を越えたところにこの地の地名の由来ともなった石薬師寺があります。神亀3年(726)開山。弘仁年間(810~823)の開創と伝えられ、本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で薬師如来を刻み込んだと伝えられ、厄除け信仰を集めているという由緒ある寺です。
 石薬師寺の薬師堂です。

やがて石薬師の一里塚を越えると今度は庄野宿を目指します。
なかなか細い道等を抜けていきますがいたるところに次の宿への案内板がでており大変助かりました。
 石薬師一里塚。

石薬師、庄野間は短いのですぐ着きました。
旧小林家住宅を使用して「庄野宿資料館」となっていますが、開館前でしたので見ることができませんでした。
 庄野宿に入ります。

 現在の宿場はこんな感じです。

 旧小林家住宅(庄野宿資料館)

庄野宿を歩いていると川俣神社があります。ここに指定天然記念物スダジイの巨木があり高さ11m、幹周り5m、樹齢300年の巨木であります。


庄野宿から亀山宿に向かいますが、徐々に気温が高くなってきます。今日も出だしが曇りだったので歩きやすかったのですが、前回の東京のように暑さを感じてきます。

国道1号線に出会いますが、すぐに細い道に分岐していきます。
是より東神戸領の領界石があります。それに並んで女人堤防碑もあります。
中富田一里塚を越えて進むと安楽川に当たります。ここを和泉橋で渡ります。
このまま進み関西線の踏切を渡り井田川駅の前に出ます。この駅舎で一休みさせてもらいました。よく見るとこの駅亀山市の所在になっています。いつの間にか亀山市に入っていました。
女人堤防碑と領界石

 安楽川を渡ります。

 JR井田川駅。ちょっと休憩させてもらいました。

和田の道標というのがありました。脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、若松村へ三里三十四丁」と記されているようです。ここより分岐して交通の要だったんですね。
 和田の道標

 和田の一里塚

この後、ロウソクで有名なカメヤマ(株)の前を通りだんだん亀山の市街地に入ってきました。
江戸口門跡(跡はなく看板だけ)を通り市街地を右に折れ今度は下り坂になります。
下り坂を下りると池越しに亀山城跡の石垣が見えました。


 亀山城の石垣が見えます。

また風情のある街道道となります。
次は関宿に向かいますが保存地区の街並みに期待したいと思います。
道はだんだん郊外に向かいます。
 亀山宿の町並み。

鈴鹿川沿いを歩き踏切を渡るともうすぐ関宿の入り口です。東の追分から関宿に入っていきます。
街並みを歩いて行きますが、確かに落ち着きはあります。かつて有松の街並みを歩きましたが同じような感じです。妻籠くらい徹底したらいい観光資源になると思うんですが。
 目立つ看板に迎えられました。

 落ち着いた街並み。

 町並みを上から見てみました。

 高札所もあります。

関宿を抜け坂下宿に向かいますがここからは徐々に上りになります。鈴鹿峠に入っていきます。
1号線を歩きますが、一部脇にそれ再び1号線に戻ります。
だんだん山の中に入って行き、猿の姿も見えてきます。
もう一度1号線から離れると静かな山道になってきます。人も車もあまり通らない道です。
しかし道は上りです。
今日は坂下に入る手前の「鈴鹿馬子歌会館」の前でストップとしました。
 鈴鹿峠に向かい上りになってきました。

 野生の猿も出没しました。

 国道1号から分かれて静かな通りに入ります。

 鈴鹿馬子唄の碑。今日はここまでです。
いよいよ三重県もあとわずか滋賀県と京都府の一部を残すのみとなりました。
年内完結を目指して次に臨みたいと思います。



日本橋→横浜歩きました。東京・神奈川が完結しました。

2013-05-26 20:35:56 | 東海道
今日は東海道の東側で残っている日本橋→横浜を歩きに出かけました。日本橋を早く出発しようと沼津発4時55分の初電で出発日本橋を7時40分に歩き始めました。さすがに4時起きは電車の中で寝ていたとはいえ応えます。
横浜までたどり着く事が出来るのか。何しろ3か月以上のブランクがある東海道ウオークですので。
 日本橋に向かう途中に日本銀行を見てきました。威厳があります。

日本橋出発時の天候は曇り。朝の内は涼しい中で歩き始めました。
まず、あまり見た事が無い日本橋を観察しました。
広重の浮世絵を見ると木製の橋ですが現在の橋は明治44年に架けられた石橋です。「全ての道は日本橋に通ず」と言われていますが、標識で東京何Kmとか書いてありますが、これは日本橋までの距離数を示しています。
橋の中央に道路元標が埋め込まれていますが複製が橋のたもとにあります。
 
日本橋と道路元標

日本橋から歩いてすぐに「江戸歌舞伎発祥の地」の碑があります。歌舞伎の事はよく分からないので詳細は後日調べておきたいと思います。
その碑から道路を挟んで「京橋の記念碑」があります。昭和34年に撤去された京橋の擬宝珠欄千の親柱が記念碑としてのこされています。
その隣に「煉瓦銀座の碑」があります。「明治5年の大火の後、当時の府知事由利公正は、不燃性の街づくりを強く主張し銀座通りに面してレンガ造りの二階建アーケード式建築が並んだ。ここは通称煉瓦通りと呼ばれ、銀座通り商店街形成の基礎となった。」との事です。
 江戸歌舞伎発祥の地の碑

 
京橋記念碑と煉瓦銀座の碑

この後は銀座の中を歩いて行きますが、早朝の銀座をランニングする人達が多い事。ビルが立ち並ぶ繁華街を走れるのは早朝しかないし気分がいいもんなのでしょうね。
 銀座のシンボルの和光です。

銀座も終わりに近づいた所に「銀座の柳」があります。松や桜を植えてもすぐに枯れてしまったので柳を植えたら緑で覆いつくすようになったと言われています。

この後、新橋を抜け浜松町に差し掛かると、東京タワーと増上寺が見えてきます。増上寺の山門まで行って写真を取って来ました。中まで見たかったのですが先を急ぐ事にしました。
 増上寺山門。

この後第一京浜国道を歩きますが、日比谷通りと交わるところに「西郷・勝両氏会見地」の碑があります。「江戸城総攻撃を目前にした慶應4年(1868)3月13日、14日の両日薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城がなされた。」という重要な会談が行われた場所です。
 西郷・勝両氏会見地の碑

 日比谷通りの先に東京タワーが見えました。

この後は品川に近づいた所に「泉岳寺」があります。東海道からあまり離れていないところにありすので四十七士に敬意を表して参拝しました。浅野氏の菩提寺で仇討を果たした大石蔵之介以下46人の墓があります。
 泉岳寺山門。

 大石蔵之介の像

 四十七の墓

品川駅の前を通り八ツ山橋を渡るとやっと品川宿に入って行きます。この後は京急沿いを歩く事になります。
北品川の商店街は東海道を盛り上げようと休み処等を作っています。道幅の狭い商店街ですがかえって風情を感じてきます。
この後青物横丁、鮫洲と抜け再び第一京浜国道と交わる手前に「鈴ヶ森処刑場跡」があります。確か同じ名前で磐田にもありました。ここで10万人もの処刑が行われたとの事です。磐田同様あまり語りたくない場所です。
 これより品川宿。

 現在の品川宿。

 鈴ヶ森刑場遺跡。

第一京浜国道を歩きますが、品川宿あたりから天気が良くなり太陽光線が容赦なく攻撃を始めました。
だんだん歩いていて苦しくなってきます。まだ蒲田にも着いていないのに。
時刻も昼に近付いて来ました。よく考えたら今朝は4時頃朝食を食べてしまったので昼までのインターバルが長いという事を思い出しました。足は痛くなるしガス欠気味だしピンチです。かといってがっつり食べたい訳ではないので色々迷っていました。

蒲田付近でそば屋発見。旨いかどうか分からないけど入っちゃいました。
頭がオーバーヒート気味でしたので気持ち良かったです。

やっと歩く元気がでてきて遂に六郷橋までやって来ました。
東京とはここまで神奈川県に入ります。六郷川(多摩川)を渡っている時に吹いていた風が気持ち良かったです。
 六郷川(多摩川)河原での草野球にほのぼの感。

 遂に神奈川県に入ります。

 六郷渡しの碑。

川崎市に入るとそこが川崎宿です。この町も街道沿いの案内がしてあり分かりやすかったです。手書きで書いてあったのも味があります。
しかし川崎宿は史跡があまり残っていないので立て札による説明だけでした。
本来なら川崎大師にも行きたいのですが時間も押して来たので横浜に向かって行きます。
 現在の川崎宿。

京急の八丁畷駅の近くに芭蕉の句碑がありました。色々な所で芭蕉さんの句碑を見ますが才能豊かだったんですね。
その先を進むといつの間にか川崎市から横浜市に移っていました。
「市場の一里塚」の前を通ると新鶴見大橋が架かっています。デザイン的な橋でした。
 芭蕉の句碑。

 市場の一里塚。

 新鶴見大橋。

この橋を越えると「鶴見橋関門旧蹟の碑」です。安政6年の横浜開港以来外国人殺傷が多く発生した為不審な浪士や旅人を取り締まる為関門が設けられたという事です。
 鶴見橋関門旧蹟の碑。

京急鶴見駅を越え進むとJR鶴見線の「国道」という駅があります。前から気になっていたのですが行ってみると第一京浜国道が横を通っています。駅は何もなく通路には照明もありませんでした。かつては通路で店が出ていた事を偲ばせるだけです。
 国道駅。中は真っ暗。

国道駅をさらに進むと「生麦事件の碑」があります。日本史でも習いました。「文久2年(1862)、薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴見区)を通過のさい、日本語を理解できずに行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を無礼打ちにし、殺傷した事件である。この事件がきっかけとなり、薩英戦争が起こることになる」という事件でした。この碑の場所は転々としているようで今も近くに高速道路の工事が行われているので移転していました。
 生麦事件の碑。

さあ今日何回目かの第一京浜国道を歩きますがいよいよ暑さが疲労を助長するようになって来て2回目のピンチです。
国道沿いはなかなか見所もなく気力だけで歩きますし、近くに駅はいっぱいあるのでリタイアは簡単ですが微妙に未歩行区間が残ると又、ここまで来なくてはいけなくなるので是が非でも横浜の上台橋まで歩かなくてはなりません。

遂に、東神奈川駅に曲がる交差点まで来ました。JRの駅で1区間です。
コンビニで飲み物を買って力水にして進みます。

滝の川橋を渡って先を左折。京急神奈川駅を越え鉄道の上を渡り、最後の細い道に入ります。
この辺が神奈川宿の辺です。
広重の神奈川宿は海のすぐそばを通りますのでこの辺から現在の海までは埋め立てされたんですね。

「田中屋」という料亭があります。昔は「さくらや」といっていましたが広重の「神奈川宿」にもさくらやの看板が描かれています。当時からあったんですね。ここは竜馬の妻のおりょうが働いていた事でも有名です。
 田中屋です。数々の著名人も利用しました。

その先に「神奈川関門碑跡」があります。ここも先程の「鶴見関門碑」と同じです。
 神奈川関門碑。

この後、約3カ月前に来た懐かしい橋が現れます。ヤッターーーーーー!!!!!!!!
辛かったけど歩き切りました。
これで東海道は日本橋から三重県の石薬師宿の手前までが繋がりました。残るは三重・滋賀・京都歩き切るぞ。
 苦しかった!!!でも達成感がありました。

今回は3カ月余りのブランクがあったので大変でしたが、近いうちに三重遠征を計画したいと思います。

平塚→藤沢→戸塚→保土ヶ谷→横浜駅歩きました。フ~

2013-02-17 20:11:48 | 東海道
今日は東海道の未踏破地域の東側の神奈川を歩きました。昨年平塚までは終わっていますので続きです。
気がかりは天気はいいのですが鼻炎の調子が心配です。今朝起きた時は調子は悪くないので一安心ですが鼻炎の薬を持って出発でした。

平塚を8時30分頃出発しました。東に向かうとすぐに相模川の橋に差し掛かります。今日は天気に恵まれているので富士山や丹沢山系まで眺められます。川では水鳥たちが遊んでいました。
平塚駅前スタート

  
相模川からの風景。(左)川上方面を望む(中)丹沢の山々(右)富士山も見えました

橋を渡って茅ヶ崎市に入ります。湘南の匂いが強くなってきます。
小出川を渡った所に「馬入橋橋脚跡」があります。なにやら発掘された橋脚を保存してあり国指定史跡になっています。
 茅ヶ崎市に入ります。

 旧相模川橋脚

そこから先に「南湖左富士」の碑がありました。左富士って吉原だけかと思ってましたが確かに江戸方面からくると左側に富士山が見えます。今日はここからも富士山がしっかり見えてました。
 
南湖の左富士とここから望む富士山

茅ヶ崎駅入口を越えたあたりに茅ヶ崎一里塚がありました。原型はとどめていませんが碑とこんもりとした盛り土が残っていました。

茅ヶ崎一里塚跡

その後は延々と国道1号線沿いを歩いて行きます。なんか排気ガスの中を歩くと鼻に刺激が入りそうで恐ろしいです。しかし今のところ大丈夫でした。
そして道は藤沢市に入って行きます。
藤沢市に入ります。

辻堂を越えて1号線から別れて進んで行きます。だんだん藤沢の市街地に入って行くと人も車も多くなっていきます。更に歩道が狭い所があるので通りにくい。
小田急の藤沢本町駅を跨ぎ藤沢宿の中に入って行きます。やっと一つ目の宿場町に着きました。
義経の首洗い井戸なんていう物騒な所の入口を越えると藤沢宿では最も名高い遊行寺が現れます。時宗の総本山ですので敬意を表して参拝してきました。一遍上人の像もありました。
遊行寺の山門

遊行寺。境内でフリーマケットやってました。

一遍上人像

遊行寺からは登りになります。遊行寺坂というのですが甘く見ていたらなかなか大変でした。そういえばこの道ではないのですが箱根駅伝の8区の山場は遊行寺の坂でした。この坂を境にいままでいいペースで歩いていましたが足取りがガクンと重くなりました。
 遊行寺坂。結構長くて辛かった。

 こんな看板見つけました。今年はまたJ1です。

この坂の先でいよいよ横浜市に入りました。
そして再び1号線とも合流となり排気ガスロードとなりました。しかし悪い事ばかりでなく1号線に入った事で食べる店が増えお昼でもあり食べる店を見つけるのは容易になりました。
 いよいよ横浜市。

戸塚区は要所で東海道の説明書きが記してあり分かりやすくなっていましたが、分岐する所にも道標をつけといてくれると助かったんですが。

1号線から別れ戸塚駅方面にむかいます。今度は長い坂を下る道です。
下りきると戸塚駅はもうすぐですがこの辺が戸塚宿になります。本日2つ目の宿場町に到着です。本陣跡碑もありました。
 戸塚駅に向かう坂で梅が咲いていました。

 戸塚宿の澤邊本陣跡碑

この後戸塚駅の辺は工事で通りにくくなっていましたが踏切を過ぎると歩きやすい道になって来ますがその後はまたもや1号線と合流です。
この後は又1号線と別れ住宅街の中の道になります。住宅街は歩いていて面白みに欠けます。
そんな事を思いながら進むと不気味にも急な坂と出くわします。これはなかなか急です案内にもなかったような気がします。さらにペースダウンとなってしまいました。
坂を登りきるとバイパス風の広い道にでますがここを歩道橋で渡ります。痛んでいる足に階段は辛い。
歩道橋の先が東海道です。でもここはなかなか見晴らしがいい東戸塚駅周辺の高層マンション群や富士山まで見えます。
 
東戸塚方面と富士山が見えました。


品濃一里塚は住宅街の中にありまいた。

この後はまた住宅街の中です。退屈だとおもっていたらまたもや急な坂が出現。なんとこの坂の名前は「焼餅坂」っていうようです。面白い名前ですが歩く方は何とも面白くない坂です。


この坂を登りきったところに一本の木の碑がありました。ここが相模と武蔵の境となっていました。相模から武蔵へと旧国名が変わります。ひとつの川等で分かれているケースが多いのですが、ここは坂で分かれているのでしょうか。


この先は権太坂という地名が出てきます。権太坂と言えば箱根駅伝の2区の難所です。(この道ではないのですが)今度はこちらからは下りになります。まあ登れば下りますよね。
坂の上からランドマークタワー等横浜の中心地が見えてきました。


かなり長い事下ってやっと権太坂が終わりました。
坂を下ると保土ヶ谷はもう少しです。東海道線の線路が横を走ります。その先で今日何度目かの1号線との合流です。合流して暫くすると旅籠の本中野家や本陣跡等が現れ遂に3つ目の宿場町の保土ヶ谷に着きました。

権太坂の終点(江戸方面からはここから登りです)


旅籠「本中野屋」跡


本陣跡

さあ、今日はこの辺で保土ヶ谷駅から帰ろうかどうしようかと思いましたが次回で一気に日本橋・横浜間を終わらせるために今日は無理をする事にしました。
ここから横浜駅は普通だったら大した距離ではないのですがかなり足にダメージがある状態なのでかなり辛いです。でも強行しました。

相模鉄道の天王町駅を越え商店街の中を通ります。歩道が狭くて通りにくい。
更にその先松原商店街ではホコ天でかなり客が来ていて更に通りにくい状況ですが、元気な商店街を見るとこちらも元気になります。
その商店街を越え、その後は通行量も少なくなり浅間神社というこちらの方にもありそうな神社を越えるともう横浜駅は遠くありません。
今日は上台橋という車道と交差する橋で終了しました。
 今日はここまでにいたしとうございます。

この後は横浜駅から電車で帰りました。疲れているのに電車では寝られませんでした。無理したので明日の仕事が心配です。

新たなステージ。桑名から歩きました。

2013-01-12 23:15:26 | 東海道
昨日の新年会のあと鈴鹿の姉の家に行き、今日は桑名から約3か月ぶりに東海道ウォークを再開しました。

いよいよ三重県を歩くことになり新たなステージに入りました。
朝、桑名の七里の渡し跡まで送ってもらいここから歩きます。8時から歩きましたが冬の工程は歩き出しが寒いので体が温まるまでは重装備(ちょっとオーバーですが)でスタートします。
3か月前名古屋の宮の渡し跡から当時は舟でここに渡ってきたんですね。船酔いの人とか海が荒れた時は大変だったのでしょうね。その場合は陸を歩いていたみたいですが、今回は東海道のルート重視という事で間の道はカットさせていただきます。
 

七里の渡し跡の近くに重要文化財の「六華苑」がありますが今日は朝早くて開いていないので次の機会にします。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間に建てられました。
七里の渡し跡から桑名城の外堀沿いを歩きますが、桑名城跡は九華公園として整備されていますがここも今回はカットして先を目指します。


住宅街の中を道は何回か屈折しますが随所に石に東海道の案内があり間違えずに歩くことが出来ました。途中に寺の多い道を通って行きますが由来等は入口に説明が書いてあり桑名市の東海道に対しての親切さがうかがえました。


暫らく歩くと「矢田の立場」の案内板があり復元された火の見櫓もあります。


この後も何気ない道を歩くので退屈してきます。そのうちに員弁川にぶつかり立派な常夜燈があります。「伊勢両国常夜燈」というそうです。町屋川の舟運や東海道の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、この常夜燈ははその頃をしのばせるようで案内板も出ていました。


この員弁川を渡ると桑名市から朝日町に移ります。朝日町に入っても住宅地の中を歩き、近鉄の伊勢朝日駅の近くに東芝の大きな工場を見て進みます。
伊勢湾岸道の下を抜けると朝明川を渡りますがそこを渡ると四日市市に入って行きます。
 朝明川から養老山系を望みます。

四日市に入っても景色的にはあまり変わりありません。
三岐鉄道や関西本線と交差している下をくぐると富田地区に入って行きます。近鉄の高架下を抜けると一里塚跡の碑がありました。


しばらくすると国道1号線と合流し海蔵川を渡ります。だんだん四日市の市街地が近づいてきます。
 海蔵川の橋から四日市ドームが見えます。

その先三滝橋というかつては人馬で賑わった橋を渡ります。四日市市街はもうすぐ。
 
三滝橋(左)       三滝橋から四日市のコンビナート方面(右)


三滝橋を渡ると名物の長餅の老舗「笹井屋」がありました。

四日市市街に入り当時の宿場の中心地に入りました。
 「江戸すぐ」って書いてあります。すぐじゃなんだけど。

諏訪神社を越えると東海道はなんとアーケードの中を通ります。珍しい。当時はアーケードじゃなかったんでしょうけど。
そこを抜けると、近鉄四日市駅のすぐそばに出てきました。
 アーケードから出たら近鉄がすぐ近くに。

ここを西に進んでいきますがここからは狭い道になってきます。この道は狭い割に車の通行量が多く歩くには歩きにくいです。後ろから来る車に気を付けながら歩かなくてはいけません。なかなか風情のある建物もありますがゆっくり見て歩けませんでした。


日永に一里塚跡碑

相変らずの狭い道を抜けると1号線と合流し「日永の追分」がありました。ここは東海道と伊勢道の追分です。


この先は交通量の多い狭い道からは解放されました。
内部川を1号線で越えて、すぐに分かれ道になりますがここで道を間違えてロスタイム。更に余分な体力も使ってダメージ大でした。

東海道に戻って進むと杖衝坂という急な坂が出現。さっきダメージを受けた後だけに更にダメージを受けましたが、あまり長い坂じゃなくて良かった。


 
杖衝坂碑と芭蕉の句碑

この坂を登り切って1号線と合流。暫らく進み多分石薬師宿までもう少しのところなのでしょうが時間的に体力的に判断すると今日はここまでとなってしまいました。
次回はもう少しで石薬師ってところから開始です。

この後、義兄に迎えに来てもらいJR四日市駅まで追ってもらいました。
 JR四日市駅


豊明前後駅前から宮の渡しまで歩いて愛知県完歩が完成しました。その後おまけもあります。

2012-10-07 21:48:58 | 東海道
今日、8月以来の東海道ウォークに出ました。9月は2回企画しましたがいずれも雨特に1回は台風襲来とチャンスがありませんでした。
今日は妻が名古屋に行く用事があるという事で、豊明の前後駅前まで車で行って降ろしてもらいました。

 前後駅前から出発です。

今日は秋晴れの好天に恵まれ、前回ここまで歩いた時のような暑さが無く心地よい天候の中で歩き始めました。暫らく住宅地の中を歩きますが国道1号線に合流します。更に歩くと中京競馬場前駅が見えてきて、中京競馬場に向かう所には馬のモニュメントがあります。もうすぐ名古屋市に入って行きます。
その前にこの辺で歴史的に有名な「桶狭間の合戦場の伝説地」を見ておこうと思います。織田信長と今川義元が戦った合戦ですが余りにも有名です。
 
今川義元の墓もありました。

西に向かっていきますが、国道1号線から少し外れ並行した道を行きます。再び国道1号線に合流した所の辺が豊明市と名古屋市の境のはずですがここも何も書いてありません。
合流してすぐに右に入る道を行きます。これが有松の町並み保存地区に入って行く道です。今日は有松の御祭りみたいです。街の人々が祭りの準備を進めていました。
 

 
古い街並みが続きます。 いつもと違うのは早朝にもかかわらず祭りの人々が慌ただしく走り回っていました。

 普段は格納されている山車も外にいます。

有松の町並みを過ぎると上を高速道路が走っています。最近開通した名二環と言われる道路です。古いものを見てきた後新しい建造物を見ると不思議ではあります。
更に進んでいくと平部という交差点がありそこを過ぎると「これより鳴海宿」の看板がありました。石とかに彫ってあるのはよくありますが、看板に書いてあるというのは珍しいです。
確かにそこからは街道の雰囲気がしてくるのは不思議です。
 

鳴海宿は現在商店街になっているところが多く、問屋場跡や本陣跡の碑があるのでしょうが見つけられませんでした。このようなところは注意深く歩かなければいけません。
その後何度か大き目な交差点を渡り進みます。多分何回か走った事のある道ですが歩いてみると景色が違って見えるのか分からなくなる事があります。視線が違うからなのでしょうか。
天白川を渡りますが、この天白川はかなり昔現在の日進市に住んでいた頃、近くを流れていた小さな川がこの天白川でした。この辺は中流域になるかと思いますがかなり川幅が広くなっています。

天白川です。

川を渡り少々で笠寺一里塚跡に着きます。名古屋市を通る唯一の一里塚で上り線側が残っています。


 笠寺観音(笠覆寺)です。ここも存在は知っていましたが、初めてです。

その先は名鉄の踏切を越えて行きます。
 
「是より北よびつぎ」と書いてある碑ですが、この「よびつぎ」は「呼続」と書きますが以前これが読めませんでした。よびつぎと教えてもらったら確かにそうとも読めるなと感心した思い出があります。

その先もう少し上流が名古屋の桜の名所として有名な山崎川を越え、1号線に出ますがここは1号線が左に曲がっているところです。かなりこの辺は昔何度も通りました。懐かしい交差点です。

 
名古屋高速の下を走る1号線。直進(画面右方向)は確か41号線だったかと思いますが…

東海道線の踏切を越えるとゴールはもうすぐです。いよいよ愛知県完歩も近づいてきました。

この説明によると「裁断橋は豊臣秀吉の小田原征伐に出陣し病死した堀尾金助の霊を弔うため金助の母が老朽化した橋の修築をおこなった。橋の擬宝珠(ぎぼし)には仮名で母が子を思う銘文が刻まれている。明治時代に河川改修により川筋が変わり大正末期には埋立られた。」とあります。

まっすぐ歩き、歩道橋で19号線を越え進むと遂に「宮の渡し公園」に着きました。これで今日の工程は終了です。午前中に着きました。道路の向こう側に「丹羽家(旧脇本陣)]」があり説明版を読んでいるとここの家のご主人がいらっしゃって色々説明して頂きました。うだつが立派でこの部分は往時の物のようです。

 

 宮の渡し公園。ここから桑名に渡し舟が出ていました。

ここで今日の日程は終了ですが、ここまで来たら「熱田神宮」に寄って行かないと申し訳ないので行ってきました。
 
今日は七五三や初宮参りの参拝客が多く、かなり賑わっていました。

この後、妻と栄で待ち合わせし食事をして帰る途中に2005年に行われた「愛地球博」の会場跡が現在公園になっています。通称「モリコロパーク」と言われています。ここは万博前は青少年公園と言われていました。子供が小さいころはよく連れてきました。現在もそのような家族が多く見受けられて当時の自分たち家族と重ね合わせて思い出に浸っていました。
 愛地球博記念会館。愛知万博の資料館です。

 日本庭園も池の畔に広がっていました。

 現在でも人気の「サツキとメイの家」

 観覧車が万博を思い出させてくれます。

 芝生広場の隣に「コスモス畑」綺麗に咲いていました。

 公共交通機関ではリニモです。

今日は、東海道とプラスしてモリコロパークもご紹介しましたが孫が出来たらまた来たいと思っています。その頃にはここも変わっているのでしょうか。
東海道はいよいよ東は日本橋から平塚を目指します。西は三重県に入って行きます。土地勘が薄くなって行くので事前の予習が必要です。季節も良くなってきたので張り切って行きたいと思います。