ムネオ日記
2010年12月3日(金)
鈴 木 宗 男
昨日「送り出し会」に出席した方々から「温かい雰囲気で心のこもった挨拶が続き感激しました」「やはり経験ある政治家のお話は胸に響きます」等々のお声をいただく。
人情の機微を感じながら政治家は人間関係が太いか細いかで長続きできるかどうか決まると改めて思った次第である。
8年前、逮捕され437日間勾留、16年11月、第1審で有罪判決を受け平成17年9月11日の衆議院選挙で新党大地を立ち上げ奇跡の復活、平成20年2月第2審でも有罪判決、最高裁に上告、21年8月30日衆議院選挙で再び当選。今年8月4日、衆議院本会議で院議をもって衆議院議員在職25年永年表彰を受けることができた。
何時、いかなる状況でも私を支えてくれた松山千春さんはじめ北海道はもとより全国の後援者に心から感謝したい。合せて秘書はじめ事務所スタッフもよくやってくれた。心からお礼申し上げたい。
6日の収監に向け限られた時間の中で私が居ない間のことについて、何があってもいい様にしっかり打ち合わせをする。
毎日新聞1面に「特捜事件1部可視化、最高検が最終調査」という見出し記事がある。大阪地検特捜部の証拠改ざんの発覚、密室での強圧的取調べ。検事の誘導による一方的な調書作りが明らかになったが、これは大阪地検だけの問題ではなく、検察全体にある問題である。
私の事件でも、やまりん関係者・島田建設関係者も弱みに付け込まれ検察の誘導により検察の都合によい調書になり、そのデタラメな調書を裁判官は「信用性が高い」と判断してしまう。
冤罪を無くす為にも取調べの可視化は絶対必要である。何よりも大阪地検特捜部の大坪特捜部長・佐賀副部長が自分達の事件では可視化して下さいと言っている事が一番の証明ではないか。
取り調べる側に居た時は可視化に反対し、逆に立場が変わり取調べを受ける側になった時「可視化」と言うのはとってもわかりやすく正直な話しではないか。狙われたら明日は我が身の思いで衆参国会議員は与野党の分けなく、民主主義の危機という観点から一体となって早急に取組んでいただきたい。
収監前に心からの願いである。私は発言の場、発信する機会があったが権力にうちひしがれ人生、挫折や失望を味わい自分の主張をできない人が多くいる事だろう。そうした人の為にも私はこれからも「人生、生きていればよい事がある。いや逆転もあるぞ」というメッセージを発信し行動をしていく。
権力の中枢に居た時、私は変わっていないし原点は忘れていないと思っていても「前しか見てない鈴木宗男」「権力志向のギラ付いた鈴木宗男」という受け止めをされた。
今、私は横や後ろを見ている。何よりも声なき声を大事にしている。天国と地獄を経験した強みを生かして参りたい。
朝日新聞の夕刊「ニッポン人・脈・記」1日付きに鉄路よ運べあの東京へ津軽1回目を何度も読み返した。
青森駅は雪が舞っていた。まもなく夜行の「津軽」が出る。
「一緒に家に戻るべ」
着物姿の母が引き留めた。だが少年は、出稼ぎの男たちでごった返す列車に乗り込んでいく。母親はくずおれ、駅員が2人、駆け寄って両脇を支えた。
歌手の吉(よし)幾三(いくぞう)(58)は15歳の時、そうして東京を目指した。日本が高度成長へ走っていた頃である。出稼ぎや集団就職で、あるいは吉のように夢を追い、津軽の人々は夜行に揺られた。
青森県の西半分、岩木山とリンゴ畑が美しい津軽は、地吹雪で白一色に覆われる厳冬の地でもある。青森や弘前、五所川原の各市が中核を成す。
吉は五所川原市で生まれた。正確にはかつての金木町で、太宰治とは同郷になる。貧しい農家の9人目、末っ子だった。
父は民謡の名手だったが、歌で稼いでも酒に消えてしまう。吉は思った。民謡ではだめだ、東京でスターになってやる。
父は湯飲みを投げてきた。
夜通し乗った「津軽」は酒臭かった。解放された上野駅で、吉は辺りに漂う香ばしいにおいに陶然とする。これが東京か。ポップコーンという菓子自体をまだ知らなかった。「あのにおいがすると、東京に出てきた頃を思い出す」と吉は今も言う。
名を上げるまでは帰れない。北海道への巡業で青森を通っても、金木町には寄らなかった。青函連絡船で家の明かりを思い、手紙も書いた。「明日は東京で仕事があるから帰れないってね。忙しくもないのに」
「俺(お)ら東京さ行ぐだ」がヒットし、「雪國」で人気を不動にする。念願の紅白に出て、郷里には立派な家を建てた。今は気兼ねなくそこに帰ってくる。
真っ青な稲の向こうに浮かぶ岩木山がいい。「津軽の人はみんな自分の所から見る岩木山が一番って言う。僕もそう」
唄)いつもじょんがら大きな声で
親父(おどう)歌って汽車から降りる
お岩木山ヨ みえたか親父
自作「津軽平野」の一節だ。
吉を迎えた上野駅は、東北の人にとって東京の玄関だった。
吉さんの記事を見ながら中学の同級生が足寄から集団就職で東京へ向かった時、見送った事を想い出し又、私も北海道から東京に出た昭和41年夜行列車で上野駅に着いた事が脳裏を過ぎり感慨無量であった。
同級生の中には連絡の取れない人もいる。どうしているかと案じながら私は生かされている、生きていることに感謝の気持で一杯である。
吉さんがお岩木山なら、私は故郷から見える阿寒の山々である。
娘から「待っててくれる人も場所もある。帰る場所もあれば、どこに行っても強くなれます」と、私の手帳に書き込みがある。
こうも書いてあった「自分の歩んできた道を否定しないで下さい。鈴木宗男を信じ、人生を賭けてくれた人が沢山います」娘の思いにただただ納得するものである。
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新党 大地
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