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真山仁、福島第1原発を行く ハゲタカ第5弾『シンドローム』

2015-11-04 22:21:18 | 福島、原発

ダイヤモンド・オンラインhttp://diamond.jp/articles/-/80914より転載

『週刊ダイヤモンド』特別レポート

真山仁、福島第1原発を行く

ハゲタカ第5弾『シンドローム』週刊ダイヤモンドで連載開始!

週刊ダイヤモンド編集部
2015年11月2日
 

累計200万部を突破し、NHKでドラマ化もされた人気経済小説の『ハゲタカ』。いよいよ週刊ダイヤモンド11月7日号(一部地域をのぞき2日発売)より、待望のシリーズ5『シンドローム』の連載が始まる。新シリーズでテーマとなるのは、東日本大震災以降の電力だ。ここでは、ハゲタカの作者である、小説家の真山仁氏による福島第一原発の取材記を紹介したい。

真山 仁(まやま じん)
小説家。1962年大阪府生まれ。同志社大学卒業後、新聞記者、フリーライターを経て、2004年に企業買収をめぐる人間ドラマ『ハゲタカ』でデビュー。近刊に『売国』(文藝春秋)、『雨に泣いてる』(幻冬舎)、『ハゲタカ外伝/スパイラル』(ダイヤモンド社)など。
 

 リーマンショック後の米国で大暴れした日本最強の企業買収者・鷲津政彦が次の標的に据えたのは、電力業界だった。

 そのためには、私があの場所に足を踏み入れるしかなかった。

 6月24日、午前7時過ぎ、私は郡山のホテルを出発し、一路福島県楢葉町のJヴィレッジを目指していた。東日本大震災前のJヴィレッジは、日本サッカー初のナショナルトレーニングセンターを含めた総合複合施設であり、なでしこリーグの東京電力女子サッカー部マリーゼ(2011年休部)のホームスタジアムだった。

 11年3月11日に発生した東日本大震災以降、原子力発電所事故対策の、その後は復興(原発廃炉)の拠点になっている。

 Jヴィレッジ内で取材後の「内部被ばく」確認をするための線量チェックが行われる。その上で、専用のバスで福島第1原発(1F)に向かう。

 事故から4年半以上が経過しても、1F周辺は、放射線量が多く立ち入りが制限されている。Jヴィレッジと1Fをつなぐ国道6号線は除染が済んでいるが、道路沿いの限られた場所以外は、許可を得た者が防護服などを身に着けてしか入れない「帰宅困難区域」だ。国道につながる道には鍵の掛かった鉄柵が設けられている。

当時の感覚を取り込みかみしめる

 1F到着時「原発というより、大規模な工場にやって来た」というのが第一印象だった。

 過去に取材した原発には「要塞」というイメージがあった。人里離れた半島の先に身を隠すように建設された上、入り口の厳重チェックだけで見学者を十分緊張させる物々しさがあった。

 1Fは、事故後に入構ゲートが変わったのもあるのだろう。比較的スムーズに構内に入り、駐車場から免震棟へと向かった。

 人の行き来が活発だった。震災直後に水素爆発が発生し、二度と人が入ることなど不可能になった、という思い込みがあっただけに、その「活気」は、驚きだった。

 事故後の前線基地である免震棟に入る。

 白い壁には、作業を行う人たちへのエールが所狭しと張られ、千羽鶴が至る所につるされていた。

 免震棟内は日常業務を行う穏やかさがあるのだが、不思議なもので、ここであの死闘が繰り広げられたのかと想像するだけで、何とも言えない緊張感を覚えた。

 震災の被災地を取材していると、自分自身が当時にタイムスリップしているような錯覚に陥るときがある。そして、私自身は体験していないにもかかわらず、あのときの様子、声が至る所から迫ってくる──。免震棟に入ったときも同じような感覚に襲われた。

 あのとき、ここに避難しながら、事故の収束を図ろうとした人たちの思い、恐怖が脳裏を駆け巡る。

 自分は、この感覚を取り込み、かみしめるために「現場」に来るのかもしれない。防護服に着替えながら、そんな思いがよぎった。

 取材日は気温30度を超える暑さで、事前に東電の広報から「構内取材の間は、水分補給ができない。そのため、熱中症の危険もある。兆候が表れたところで見学は中止する」と言われていた。

 そんな暑さなのに、幾重にも服を重ねた上に、頭にフードとヘルメットをかぶり、さらにゴーグルと半マスクを装着すると、冷房の効いた免震棟内でも汗ばんだ。

 唯一の救いは保冷剤が前後に入ったベストを着たことだ。

 「これを装着することで、熱中症はかなり防げるようになった」という言葉を信じ、とにかく目を見開き耳を澄ませて、記憶に刻もうと免震棟を出た。

 構内の移動は全てバスだった。視界に入る限りでは、事故当時嫌というほど見たがれきは影もなく、代わりに所狭しとタンクが並んでいた。毎日300トン生まれる汚染水をためるタンクだ。

 事故当初に突貫で建設したタンクはその後漏水が見つかり、より強度の高い溶接型に代える作業が続いている。

 一方、海沿いを見やると、6基の原発建屋が整然と並んでいる。無事に冷温停止した5、6号機以外は、それが原発だったことも分からない状態だが、痛々しい事故の傷痕は薄れ、それぞれの状況に応じた処置が終わっていた。

 非日常という日常──。この日、構内で何度も私の脳裏にその言葉が浮かんでは消えた。

 最初に案内されたのは、構内全体を見渡せる高台だった。

 見渡す限りタンクの山。もしかしたら、日本中の化学工場や石油タンクを集めたよりも多いのではないか。

 じりじりと照り付ける太陽の中で、「もはや、ここは発電所ではない」と思った。一方、海側を見やると、日光に映えた海は、あの日津波を引き起こしたとは想像もできないほど穏やかだった。

 その後、バスは原発建屋に向かう。水素爆発で建屋が吹っ飛んだ3号機の前で「降りてください」と言われた。

 事故の現場の真っただ中に、第一歩をしるした瞬間だった。

 あれだけの甚大な事故が起きた発電所の目の前に私は、自分の足で立っている──。それを実感するのに時間を要した。足元からじわじわと不思議なエネルギーが込み上がってくる。

 私の認識は事故直後の1Fの印象で止まっていたのに気付いた。

 至る所に、事故の爪痕は残っている。しかし、まさかこんな間近であの原発を見上げる日が来るとは思っていなかった。

 それどころか、一時は核燃料や使用済み核燃料を保管するプールの水が蒸発し、新たな被害が起きる可能性も懸念されていた4号機の構内に入ることもできた。

 そして、震災翌日水素爆発した1号機の前──。最も被害が大きかった建屋には、巨大なスクリーンが掛かり、静かに廃炉の準備が始まっているという。

 数メートルしか離れていない場所に立って見上げたとき、私は事故後一日も、いや一秒も休むことなく事故の収束と除染、さらには廃炉に向けて葛藤してきた多くの人々の存在に頭が下がった。

 今なお、震災について語るとき「あの日から時計が止まった」という言い方をする。

 だが、それは誤りだ。震災後も時はずっと刻まれ、多くの人の奮闘が、気の遠くなるような歩みを続けていたのだ──。

 そんな思いをかき消すように、線量計から立て続けに2度警告音が鳴り、引き上げ時を告げた。

 事故後、多くの日本人は原発は悪であり、原発のことなんて考えたくないと思ったに違いない。だが、事故現場は厳然とそこにあり、人の手がなければ、収束の道は開かれない。誰もが忘れたいと思う現実を、ここで作業を続ける人たちだけは、絶対に忘れるわけにはいかないと受け入れて闘ってきた。

 この先、約40年──この非日常の日常は続く。

 科学技術は人を幸せにするために研さんを積み発展してきた。だが、あの日以来、科学技術の進化に大きな疑問符が付けられた。

 また、事故を起こした東電は、企業として瀕死の状態のまま現在に至っている。

 その現実を見据え、そして、そこから浮かび上がる科学文明を築いた人間のありさまを考えるときが来ている。

 それを、『ハゲタカ』シリーズという世界を使って描こう──。

 そう決心し、1Fを訪ねた私は、きっとそれが、未来の日本の指針になるのではと固く信じて時を刻むことにした。






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