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「わたくしたちの意識を問い続けてきた日本国憲法の平和主義」 清末愛砂 2018.1.22 法学館憲法研究所

2018-01-24 22:44:06 | 憲法

わたくしたちの意識を問い続けてきた日本国憲法の平和主義

法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/hitokoto/index.html

2018年1月22日



清末愛砂さん(室蘭工業大学大学院工学研究科准教授)

 わたくしたちは自らに問うてきたであろうか。一人ひとりが、ひとつの人格を持つ主体的な人間であろうとするなかで、日本国憲法の平和主義が何よりも強く求めてきた根源的価値がどこにあるのかということを。

 わたくしたちは想起しようとしてきたであろうか。日本国憲法9条の精神の下で生きることの価値を強くかみしめたいと願う人々が世界各地に存在しているということを。

1.死と生の感情の交差
 
 今から約16年前の2002年秋のある深夜、わたくしは生身の人間に自らの生をあきらめさせるということの残忍さを激しく呪ったことがある。ヨルダン川西岸地区ナーブルス郊外のバラータ難民キャンプに滞在していたときのことだった。
 当時、同地区はイスラエル軍の苛酷な軍事占領下に置かれており、ナーブルスでは連続100日を超す外出禁止令が発せられていた。同軍は「対テロ」「自衛」の名の下で昼夜を問わずパレスチナ人への攻撃を繰り返していたが、わたくしの記憶からけっして消えることがない、あの深夜の難民キャンプへの攻撃は、数多く経験した攻撃のなかでもとりわけ酷いものだった。


 就寝中、真横の壁から聞こえた大きな衝撃音で目を覚ましたわたくしは、窓枠に鋭く何かが当たるとともに、瞬時に赤い火花が散るのを目にした。激しい雨のようなスピードで銃撃の連射音がキャンプ中に響きわたる。この部屋にいたら窓から銃弾が入りこんでくるに違いない。そう思い、一度は移動するために立ち上がったが、湧き上がる恐怖心により腰を抜かし座り込んでしまった。泣きだしたくとも、か細い声すら絞り出すことができない。リアルに迫りくる死の影におびえたまま、身体は金縛りにあったかのごとく一ミリたりとも動かすことができずにいた。
 間髪を入れずに続く銃撃音を耳にしながら、暗闇のなかで壁にあたる実弾の振動を背中で受け続けた。その最中に頭をもたげた二つの矛盾する感情。「楽に死ねるように頭を撃ち抜いてほしい」。「生き延びたい」。それは極限的な死と生の感情の交差だった。
 わたくしは幸いにも生き残った。非暴力抵抗運動に従事していたわたくしに、住む部屋を提供してくれた難民一家の息子が、危険の最中にわたしの部屋に入り、おぶって救出してくれたからだ。


 わたくしはこれまでイスラエルの占領問題に関する講演を数多く行ってきたが、この深夜の出来事を2017年5月にいたるまで人前で語ることはできなかった。壮絶な痛みを伴う大きな記憶・怪物となり、それが身体全体を巣くっているような感覚を常に持ち続けてきたからだ。この深夜の記憶をすべて消してしまいたかった。記憶が消えない限り、いつの日か怪物がわたくしのなかで破裂するときが来ると恐れ、悶えてきた15年だった。

2.2017年5月3日の二つの出来事−大きな記憶を語る意味

 日本国憲法の施行から70年を迎えた2017年5月3日、安倍首相は自民党総裁として改憲4項目を示した。その大きな目玉は、9条1項と2項を残したまま、自衛隊の存在を憲法9条に明記するという案であった。2016年の参院選後から恐れてきた現実が目の前に現れたことを強く感じさせる日となった。安倍政権に最も近いともいわれる改憲勢力の一部が参院選後から自衛隊明記論を提案するようになり、安倍首相が同様の案を示すことを警戒していたからである。


 現に自衛隊が存在している日本社会では、この案への支持は容易に広がるだろう。しかし、自衛隊明記は単純な明記を意味するものではなく、自衛隊創設以降、時間の経過とともに確実に進められてきた、この国の軍事化と戦時体制の構築をさらに大きく進める契機となる。違憲立法であるはずの安保法制下で海外での武力行使が可能となった現在、後法優位の原則(後法は前法を破る)に基づき、9条が平和条項から武力に依拠する安全保障条項に変わり、憲法の平和主義が完全に終焉する。そう思ったとき、わたくしはついに大きな記憶を語らなければならないときがやってきたと自分に言い聞かせた。それがわたくしにとっての5月3日のもう一つの出来事であった。


 怪物となっている大きな記憶を語るのはなぜか。それには複数の意味がある。

一つ目は前述のイスラエル軍がそうであるように、「自衛」や「安全保障」または「対テロ」の名の下で武力行使が継続されている<現代の戦場>のリアリティを伝えなければならないと考えたからである。それにより、わたくしがかつて感じたように、爆撃にさらされた者たちに生きることをあきらめさせるという、戦場の絶望的なまでの残忍さを多くの人々に知らせたかった。

 二つ目に「自衛」や「安全保障」または「対テロ」という言葉が、戦場で指揮命令を下す上官を含む一人ひとりの兵士の行動を後押しし、武力行使の残虐性を高めている問題を広く喚起したいと考えたからである。
 三つ目に死と生の感情の交差を経験した後に、壮絶な痛みのなかでわたくしを支え続けてきたものが沈黙だけでなく、後述する9条のオリジナルな発想と価値を信じることにあったからである。

3.日本国憲法の平和主義の根源的価値とはどこにあるのか

 日本国憲法9条のオリジナルな意味は、非暴力な手段を用いて非暴力な社会を構築することにある。わたくしがこの発想に希望を見いだしてきたのはなぜなのか。憲法前文が述べるように「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、「他国と対等関係に立」つことを外交の妥協なき大前提とした上で、いかなる場合でも戦争や武力行使を許さず、その実行を可能とするあらゆる形態の自衛力を含む戦力や実力部隊の保持を認めないこと。
 わたくしが経験したような出来事が生じないようにするための有効な手段は、憲法学上の9条解釈の少数有力説である「全面放棄・全面禁止説」以外にはあり得ないことを現場で痛感・確信してきたからである。

 改憲勢力のなかからは、9条改憲阻止を求める人々を「空想的平和主義」と揶揄する声が聞こえてくる。しかし、わたくしは空想を語りはしない。経験から裏付けされる<現実的平和主義>を語っている。現実の世界を無視した的外れな中傷は、死を強制された者たちの最期の瞬間まであきらめきれなかった一縷の望みと尊厳を踏みにじる行為であり、死者の魂を愚弄するものである。そのようなものをわたくしは断じて許さない。

 軍事主義と植民地主義を遂行するなかでアジア2000万人といわれる甚大な犠牲を生み、敗戦を経験した大日本帝国を経て、わたくしたちは日本国憲法を選び取った。その憲法は、基本的人権の尊重を基調とする平和主義こそが恐怖と欠乏からの解放を人びとにもたらす術であることを示すと同時に、大日本帝国が排外主義とともにあるナショナリズムや戦争を通して奪った人間性の回復を可能ならしめるものであった。わたくしたちはその平和主義の真の価値を活かした社会を構築することができないまま、愛国心を強制する戦時体制に加速的に戻ろうとしている。

 そのような状況にあるからこそ、日本国憲法の平和主義は現在、わたくしたちの意識を厳しく問うている。人間の尊厳とは何か。生きるということにあまりにも冷淡なこの世界でもっとも虐げられた者こそが、この憲法の持つ普遍的な平和主義の価値の実現を誰よりも希求しているなかで、それを捨て去ろうとすることがいかに愚かな行為であるのかということを。

 

◆清末愛砂(きよすえ あいさ)さんのプロフィール

1972年生まれ。山口県周南市出身。大阪大学大学院助手、同助教、島根大学講師を経て、2011年10月より現職。専門:憲法学・家族法。
近年の主な編著書:清末愛砂・飯島滋明・騠良沙哉・池田賢太編『ピンポイントでわかる 自衛隊明文改憲の論点 だまされるな!怪しい明文改憲』(現代人文社、2017年)、清末愛砂・飯島滋明・石川裕一郎・榎澤幸広編著『緊急事態条項で暮らし・社会はどうなるか−「お試し改憲」を許すな』(現代人文社、2017年)、飯島滋明・清末愛砂・榎澤幸広・佐伯奈津子編著『安保法制を語る!自衛隊員・NGOからの発言』(現代人文社、2016年)、清末愛砂・松本ますみ編『北海道で生きるということ−過去・現在・未来』(法律文化社、2016年)。

 

 

 

 


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