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靖国神社 戦死自衛官は「合祀せず」

2015-08-15 20:20:27 | ご案内

東京新聞 TOKYO WEB

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015081402000131.html

靖国神社 戦死自衛官は「合祀せず」

写真

 安全保障関連法案の国会審議で自衛隊員のリスクの高まりが論議される中、靖国神社(東京都千代田区)は十三日までに、今後戦死した隊員が出た場合でも合祀(ごうし)はしないとの見解を明らかにした。共同通信の質問に文書で回答。靖国神社が一九七六年に示した合祀基準は、第二次大戦で死亡した軍人軍属らを念頭に置いた内容になっており「現在も基準に変わりはない」「自衛官合祀はない」と答えた。

 自衛隊は五四年の創設以来、戦死者を出していない。訓練中の事故などで死亡した隊員の追悼の場としては、東京・市谷の防衛省内に殉職者慰霊碑がある。元自衛官の佐藤正久参院議員は、靖国神社の社報への寄稿や自身のブログで「(殉職者慰霊碑では)広く国民が慰霊・顕彰することは困難」「靖国神社に祭られるかどうか議論をしておかなければ」といった考えを表明している。

 靖国神社は七六年に国会図書館に提出した資料に合祀基準を明記。合祀対象は、戦地と終戦後の外地で戦死した「軍人軍属」や、戦闘で死亡した満州開拓団員、旧ソ連・満州などでの抑留中の死亡者ら「準軍属およびその他」としている。

 この基準が現在も適用されているかを尋ねたところ「基準に変わりはない」と答えた。

 首相や閣僚の参拝に関しては「参拝を希望される方であれば、どなたでもひとしくお迎えする」、天皇陛下の参拝には「粛々とお待ち申し上げる」とした。天皇の参拝は七五年以来途絶えている。昭和天皇はA級戦犯合祀に反発して参拝を控えたとの見方が有力となっている。

 

 


靖国神社は英語ではYasukuni War Shrine (想田 和弘)

2015-08-15 20:20:00 | ヤスクニ 靖国神社 慰霊 

靖国神社は英語ではYasukuni War Shrine

想田 和弘さんFBより  2015.08.15

本質をついてる。閣僚がそういう神社を参拝したりするから「謝罪しろ」の声もなくならないんだよね。

追加)靖国神社ってのは、明治政府が富国強兵政策を進める上で、自ら進んで国家(天皇)のために命を投げ出そうという人間を大量に作るためにこしらえた装置。戦争のための神社です。もちろん神社を単なる慰霊のために訪れる人も多いですけど、そういう気持ちも最終的にはその目的のために回収されてしまう。

追加)安倍首相や閣僚が参拝したりしてつながりを維持しているのは、そういう装置が今後必要だと思っているからでしょう。靖国はいまは眠っている「国民を戦争に動員するための装置」ですけど、それをいつか起動する日が来ると思っている。だから問題なんですよ。A級戦犯がどうのという話は副次的な問題。

...

追加)だって靖国というのは「国(天皇)のために死んだ兵士を神として祀る」神社ですからね。要は国(天皇)のために死ぬことを賞賛し奨励する神社ですよ。単なる慰霊の施設ではないし、普通の神社ではない。政治家があんなに参拝にこだわるのも、そういう国家権力と関係の深い特別な神社だからなんですよ。

 

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終戦の日:高市総務相が靖国参拝…首相は私費で玉串料奉納 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20150815k0000e010153000c.html

毎日新聞 2015年08月15日 11時03分(最終更新 08月15日 13時42分)

 安倍晋三首相は終戦記念日の15日午前、東京・九段北の靖国神社への参拝を見送り、代理人を通じて玉串料を奉納した。安倍内閣の閣僚では、高市早苗総務相と有村治子女性活躍担当相が同日午前、靖国神社を参拝した。

 山谷えり子国家公安委員長も参拝を検討しているが、防災担当相を兼務しており、桜島の噴火警戒レベルが上がった対応で同日午前の参拝は見送った。

 首相の代理人の自民党の萩生田光一総裁特別補佐によると首相は14日、「英霊に対する感謝の気持ち、靖国への思いは変わらない」と萩生田氏に伝えた。玉串料は自民党総裁として私費で奉納したという。

 首相の参拝見送りは、侵略や植民地支配に言及した戦後70年談話を14日に表明した直後で、周辺国との無用な摩擦は避けるべきだとの判断があったものとみられる。

 一方、参拝した高市氏は記者団に「国策に殉じてかけがえのない命をささげられた方々に尊崇の念を持って感謝の誠をささげた」と語った。

 また、有村氏も「国難の時に命をささげられたみたまに心を込めて追悼、感謝の誠をささげた」と語った。

 有村氏は参院比例代表で神道政治連盟の組織内候補、高市氏も神道政治連盟国会議員懇談会の幹事で、閣僚就任前から終戦記念日などに参拝している。

 また、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久元参院副議長)の約70人も靖国神社を集団参拝した。次世代の党の平沼赳夫党首、民主党の羽田雄一郎参院幹事長らが参加した。これとは別に、自民党の稲田朋美政調会長、小泉進次郎復興政務官も同日午前、参拝した。【松本晃、影山哲也】

 

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「さとうきび畑」全盲のテノール歌手・新垣勉さんが歌う、オンリーワンの歌声

2015-08-15 20:16:56 | 案内 情報 デモ 集会 逮捕

http://spotlight-media.jp/article/181422913941139553

 

「さとうきび畑」全盲のテノール歌手・新垣勉さんが歌う、オンリーワンの歌声

 

「さとうきび畑」は、多くの歌手が歌い、カバーしている曲だが、全盲のテノール歌手・新垣勉(あらがき つとむ)さんほどこの曲がピッタリな歌手はいないだろうと思っている。

私の卒業した大学の前身である「東京キリスト教短期大学」を卒業された新垣さんは、重なってはいなかったが先輩に当たる。音楽家でもあるが、牧師でもある。

「さとうきび畑」 新垣勉

 

 

「さとうきび畑」

第二次世界大戦を通して、沖縄は日本で唯一の地上戦が繰り広げられた。その激戦を極めた沖縄戦を通して、多くの人々が殺し合い、集団自決した。数え切れないほど多くの戦死者・自決者たちが今なお「さとうきび畑」の下に眠っていると言われている。

この曲の作者・寺島尚彦さんは、1972年・日本に復帰する前の沖縄を訪れ、曲の中で66回繰り返される風の音を「ざわわ ざわわ ざわわ」と表現した。

「さとうきび畑」は、ひとりの少女が主人公になっている。少女は沖縄での戦闘で死んだ父親の顔を知らない。やがて大きくなり、ひとりで父親を探しにさとうきび畑に行く。

父はなぜ殺しあったのか、なぜ殺されたのか、なにを恐れ自決したのか。通り抜ける風の音を聞きながら静かに悲しみを訴える。

新垣勉さんも沖縄に生まれ、父親は米軍の軍人だった。1歳の時に両親が離婚、父親は帰国したため、「さとうきび畑」の主人公の少女と同じく、父親の顔を知らないで育った。

出典 CD「さとうきび畑」新垣勉 ジャケットより

新垣勉さんの生い立ち

沖縄県中頭郡読谷村で在日米軍人であったメキシコ系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。出生後まもなく、看護婦の医療ミスによる劇薬の点眼により全盲となる。

1歳の時に両親が離婚し、父親は帰国。母親は再婚したため、母方の祖母に育てられる。その際、祖母を母親と、実の母親を姉と言い聞かされながら育てられた。

その後、自らの境遇を悲観し「将来は両親を殺害して自分も死ぬ」と考え、井戸へ飛び込み自殺を図ろうとするが友人に助けられ、未遂となるなどの少年時代を過ごした。14歳で祖母を亡くし、天涯孤独の身となる。

しかし、そんな新垣さんの心の支えは、ラジオから流れてきた賛美歌であり、賛美歌を聞きたいと教会の門をたたいた。

そこで一人の牧師(城間祥介牧師)と運命的な出会いをする。牧師に彼の今までの人生をすべて語った。 そして牧師は黙って彼の話を聞いていた。すべて話し終わると、新垣さんは牧師が泣いていることに気づいた。

城間牧師は、自分の3人の子どもと同じように新垣さんをかわいがり、牧師の温かい家庭の中に彼を迎えた。牧師の家族と一緒に歌を歌ったりしながら過ごし、彼は心が癒やされていくのを感じた。

牧師との出会いをきっかけに、声楽家と牧師になる事を目指すようになり、沖縄県立沖縄盲学校、東京キリスト教短期大学、西南学院大学神学部専攻科を卒業し、日本バプテスト連盟系教会の副牧師になる。当時は聖歌隊としての奉仕も活発に行なった。

西南学院大学在学中にイタリア人ボイストレーナーのアンドレア・バランドーニに「君の声は日本人にはないラテン系の明るい素晴らしい響きをしている」と賞された。その際、自分の出生について語ると、「辛い体験だったと思うが、それは神様からのプレゼントであり、また君の父親からのプレゼントでもある。君はその声を持つ、たった一人の存在だ。感謝すべきものなんだよ。」と言われ、その言葉で両親を恨む気持ちが癒やされたという。

聖歌隊での実績を元に本格的に歌手活動をしたいと考え売り込みを始めるが、売り込み先から「音大も出ていないのに声楽家を目指すとはおこがましい」と馬鹿にされ、屈辱を受ける。

その後、音楽への思いを貫き、34歳で武蔵野音楽大学に入学、大学院修士課程まで進み修了。チャリティーコンサートなどで歌を披露するようになる。

2001年、49歳の時に寺島尚彦作詞・作曲の『さとうきび畑』で初のCDデビューを果たす。現在、各地でコンサート活動等を行なっており、澄んだ歌声と逆境を乗り越えた半生、ダジャレも含むユーモアに富んだトークなどが人々の共感を呼んでいる。

2004年2月20日には、日本武道館にてチャリティーコンサートを行い1万人を集める。

新垣さんの半生は東京書籍から発行されている。中学2年生用の英語教科書「NEW HORIZON」で「Try to Be the Only One」(オンリーワンであろうと努めよ)という教材として取り上げられた。

(参照記事:wikipediaほか)

「この悲しみは消えない」

子どもの頃、沖縄で多くの一般人が集団自決したと聞き、「人はいつか死ぬのに、なぜ自ら死を急ぎ、選択しなければならなかったのか?」さっぱり分からなかった。

牧師である父親に聞いたところ、「生きているより、もっと辛い目に遭うからだよ。」と答えたことを覚えている。

たしか私が小学校3年くらいだったかと思うが、「生きているよりも、もっと辛いこと」というのがどういうことなのかも、私には理解できなかった。

沖縄戦のことを少し調べると、戦闘の激しさ、犠牲者の数、資料や証言の数々に圧倒させられる。沖縄が持つ悲しみが伝わってくる。今なお、沖縄では当時から引きずる「基地問題」などが消えず、「沖縄は本土を守るための捨て石」「棄民(きみん)」との悲しいイメージや言葉が払拭されずにいる状態である。

「沖縄の人々のために、自分の歌が少しでも慰めや励ましになれば・・・。人々が許し合い、愛し合う世の中になるように、平和のために歌いたい。」と新垣さんは語る。


引用元ブログ:ameblo 牧師の妻です・こころのブログ

 

独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(後編)

2015-08-15 19:56:31 | 平和 戦争 自衛隊

http://dot.asahi.com/wa/2015081200117.html

独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(後編)

(更新 2015/8/14 07:00)

 

吉永小百合さんよしなが・さゆり 東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。11歳で連続放送劇「赤胴鈴之助」に出演、13歳で松竹映画「朝を呼ぶ口笛」で映画界にデビュー。日活の専属を経てフリー。おもな主演映画に「キューポラのある街」「伊豆の踊子」「細雪」「動乱」「北の零年」「母べえ」「ふしぎな岬の物語」など 

吉永小百合さん
よしなが・さゆり 東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。11歳で連続放送劇「赤胴鈴之助」に出演、13歳で松竹映画「朝を呼ぶ口笛」で映画界にデビュー。日活の専属を経てフリー。おもな主演映画に「キューポラのある街」「伊豆の踊子」「細雪」「動乱」「北の零年」「母べえ」「ふしぎな岬の物語」など 

第二楽章: ヒロシマの風 長崎から (ジブリ)

吉永小百合編、画:男鹿和雄
定価:2,700円(税込)

amazonspace

 戦争の犠牲者に祈りを捧げる夏を迎えた。戦後70年。焦土からの驚異的な復興と、平和な社会をつくりあげながら、安全保障政策で今、日本が岐路に立つ。戦後に寄り添い、数多くの映画に出演してきた吉永小百合さんが、戦争の愚かさ、平和の尊さを語った。

*  *  *

 今年はワシントンで、画家・丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」の展覧会が開かれていますよね。原爆投下直後の広島で、惨状を目の当たりにし、原爆を描くことをライフワークとした夫妻です。惨状を写真で直接伝えることも大切ですが、作家のフィルターを通して詩や小説、絵画、演劇といった表現で伝えることで、写真とはまた違う共感を呼ぶということもあると思います。

 そういう意味でも、ヒロシマの悲劇を最も強く伝える戯曲が、井上ひさしさんの「父と暮せば」だと思います。原爆で死んで幽霊になった父と生き残った娘の物語です。

 この本の冒頭で、広島と長崎に落とされた原爆のことを、日本人の上に落とされただけではなく、人間の存在全体に落とされたものであり、だからまた、あの地獄を知っていながら、知らないふりをするのは、なににもまして罪深いことだと述べています。

 人間が人間として生きることも死ぬことも、一瞬にして奪ってしまう原爆は、本当にとんでもないこと。その現実を私たちは絶対に知っていなければならないと思うんですね。

 どんな反対や困難があっても、原爆展も続けていくことが大切なんだと思います。めげそうになっても、つらい状況の中でも声を上げて、戦争はいけない、核はいやだと伝えていかなければいけないと思うのです。

 その真実の姿を見なかったために、とても残念なことに、私たちはもちろんのこと、被爆者さえも、これだけ大きな力を持つ核なんだから、平和に利用したら素晴らしいエネルギーになるんじゃないかと思ってしまいました。そして、ちゃんとした知識も持たずにうかうかしているうちに、この狭い列島に54基もの原発ができて、福島の悲劇を招きました。

 あれから4年も経つというのに、いまだに放射性汚染水が漏れているという報道があります。福島の人たちの怒りと悲しみは今でも癒やされることはありません。

 そしてあの大震災の夏、服飾デザイナーの三宅一生さんからの依頼で、福島の原発被災者の方の詩を朗読しました。三宅さんには前々から原爆の詩の朗読をとお声をかけていただいていたのですが、3・11後に、福島の詩人・和合亮一さんの詩を託されたのです。そして今年の3月、福島の詩人たち、子どもたちの詩を朗読したCDを作りました。それが、「第二楽章 福島への思い」です。

 この「第二楽章」は「広島編」「長崎編」のあと、本来なら「沖縄から『ウミガメと少年』」が、3部作の最終章になるはずでした。沖縄戦を語りながら、戦争が出てくることもなく、美しい海と空とウミガメが語られている野坂昭如さんの「戦争童話集」によるもので、それだけになお戦争の愚かしさと少年のつらさを物語っています。ところが、福島が4作目となってしまったのです。

 あらためて、何度でも言います。戦争はだめ、核もだめ、と。選挙権が18歳からになりますね。若い人たちに未来を見つめて考えてほしい、と思います。

 今回の映画「母と暮せば」は、作家井上ひさしさんの思いが下敷きにあります。

 井上さんは「父と暮せば」と対になる作品を長崎を舞台に書きたい、と生前構想されていました。そのことをお嬢さんの麻矢さんから聞かされた山田洋次監督が、「泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書きました」と言われる作品です。お話をいただいたとき、なんの迷いもなく、即座に「やらせていただきます」と言って、撮影の準備に入りました。戦争に翻弄される家族を描いた作品「母べえ」に続く山田監督作品です。

「母と暮せば」の私の役は、夫に先立たれ、助産婦をしながら、二人の息子を育てている母親・伸子です。

 45年8月9日、長崎医科大で勉強中だった伸子の次男は、一瞬にして消えてしまいます。その日から伸子は息子を尋ねて長崎の街を捜し歩くのですが、何の手がかりもありません。

●戦争と平和もっと語って

 伸子の長男はすでにビルマで戦死していました。取り残されてしまった伸子は、ひたすら次男の消息を捜し、帰りを待ちます。そして、あの日から3年が過ぎた48年8月9日、次男がふいに母の前に姿を現すのです。

 長崎の原爆をテーマにした仕事は、私にとって2作目です。最初は先にもふれましたが、99年に朗読詩「第二楽章 長崎から」に取り組んだことです。

 その中に、永井隆博士の遺児、筒井茅乃さんの手記から抜粋、脚色させていただいた「娘よ、ここが長崎です」が収録されています。その作品を通して、茅乃さんにお会いした折、茅乃さんからワインレッド色の美しいロザリオをいただきました。毛糸の手編みのポーチに入れてくださって、いままでずっと大切に飾るだけにしてきたのですが、この映画ではぜひ使いたいと監督にお願いしました。

 クリスチャンである伸子が、息子たちのお墓の前でロザリオを手に祈る場面があるのですが、そのロザリオがそうです。

 茅乃さんにも見ていただきたい映画ですが、彼女はすでに天国に召されています。生きていらしたら、今年の8月で74歳になるはずですが、7年前に66歳で肝細胞がんでお亡くなりになりました。

 朗読で長崎を表現するのとはまた違って、映画で演じるのは正直のところ、すごく難しかった。せりふの一つひとつが、長崎と広島の人々の思いを代弁する言葉のように思えてならないのです。

 でもね、山田監督作品ならではの、寅さんに通じるユーモアもちりばめられているのです。私の息子を演じる二宮和也さんが軽やかで素晴らしい演技をしています。やさしく泣けるファンタジー作品ですし、全編、見てほしいシーンです。

 今回クランクイン前に、二宮さんと監督と一緒に長崎原爆資料館に行き、あらためて、原爆がどれほど恐ろしいものだったのか、心に刻みました。

 戦後70年を迎えて、広島に、長崎に、原爆が落とされたことを知らない若い人たちが増えています。当然、核の悲惨さも知らない。そんな時代だからこそ、世界中から核兵器をなくすこと、戦争の愚かさと平和の尊さを、私たち日本人はもっともっと語っていかなければいけない。

 俳優である私はこれからも、詩の朗読と映画の仕事を通して語り継いでいきたいと思います。

(聞き手・文/由井りょう子、構成/長沢 明)

週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋

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独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(前編)

2015-08-15 19:45:36 | 平和 戦争 自衛隊

http://dot.asahi.com/wa/2015081200116.html?page=1

独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(前編)

(更新 2015/8/14 07:00)

 

吉永小百合さんよしなが・さゆり 東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。11歳で連続放送劇「赤胴鈴之助」に出演、13歳で松竹映画「朝を呼ぶ口笛」で映画界にデビュー。日活の専属を経てフリー。おもな主演映画に「キューポラのある街」「伊豆の踊子」「細雪」「動乱」「北の零年」「母べえ」「ふしぎな岬の物語」など 

吉永小百合さん
よしなが・さゆり 東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。11歳で連続放送劇「赤胴鈴之助」に出演、13歳で松竹映画「朝を呼ぶ口笛」で映画界にデビュー。日活の専属を経てフリー。おもな主演映画に「キューポラのある街」「伊豆の踊子」「細雪」「動乱」「北の零年」「母べえ」「ふしぎな岬の物語」など 

 

第二楽章: ヒロシマの風 長崎から (ジブリ)

吉永小百合編、画:男鹿和雄
定価:2,700円(税込)

amazonspace

 戦争の犠牲者に祈りを捧げる夏を迎えた。戦後70年。焦土からの驚異的な復興と、平和な社会をつくりあげながら、安全保障政策で今、日本が岐路に立つ。戦後に寄り添い、数多くの映画に出演してきた吉永小百合さんが、戦争の愚かさ、平和の尊さを語った。

*  *  *

 数日前に映画「母と暮せば」の撮影を終えたばかり。12月の公開に向けて、撮影中とはまた違う忙しさです。私にとっては119本目の出演作になりました。救急車だと言って笑っているのですけど、テーマが長崎の原爆ですから、戦後70年の今年のうちに公開しようと、スタッフみんなで頑張っています。

 この忙しさに追われている間に、安保関連法案が衆議院で強行採決されてしまいました。映画関係者らでつくる「映画人九条の会」の反対アピールの賛同者に加わりました。

 振り返ってみれば、私は10代で映画の世界に入ってからは、演じることで、社会も戦争も原爆も学んできたと思っています。さらに人との出会いによって、平和や核のことを考えてきました。もしも作品で出合わなかったら、私は原爆も戦争もここまで考えることはなかったのかもしれません。でもまた同時に終戦の年に生まれた一人として、考え続けなければならないんだろう、という思いも持つのです。

 私自身、父や母に戦争について聞いたことは、ほとんどありませんでした。南方戦線に送られていた父が病気で倒れたために帰還できて、私が生まれたことは、それとなく聞いています。また、私が生まれる直前に東京大空襲がありました。だから、私はこの世に生まれ、生かされたことに感謝しなければいけないと思っています。生まれなかった命も、生まれてすぐに奪われた命もあるのですから。

 母からは、私が生まれたころは、食べるものもないし、母乳も出ないし、いきなりみそ汁をふくませたとか、私を背負って神奈川県の農村へ食料を求めて通ったとか、そんな話を聞きました。子どもを連れていると、いくらか多めに野菜や牛乳などを分けてもらえたそうです。戦中から戦後へ、親の世代が体験した話を、もっともっと聞いておくべきだったと今になって悔やんでいます。

●演じることで戦争を学んだ

 原爆を描いた映画に出演した最初は、1966年の「愛と死の記録」です。原爆の後遺症に苦しむ青年と、彼を愛する娘の悲劇です。大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』の中で紹介されている実話で、監督は蔵原惟繕さん。8月の広島で毎日厳しいリハーサルとロケが続いて、音を上げそうになりましたけど、演じているうちにどんどんヒロインにひきつけられて、ヒロインの心情と一体となって、思い切り演じられたという充足感を持つことができました。

 ところが、完成した作品からは、原爆ドームやケロイドの顔が出ている場面がほとんど削られてしまいました。当時はまた今とは違うさまざまな思惑があったのでしょうが、原爆をテーマにした映画なのに、なぜという強い思いの中で、撮影所の食堂前の芝生で座り込みをしてしまいました。

 そして、それから2年後、映画「あゝひめゆりの塔」に出演しました。臨時看護婦部隊として従軍し、死に追いやられた沖縄師範の女子学生たちの悲劇を描いた作品でした。

 当時、本当の意味でまだ戦争をわかっていなかった私は、映画に描かれたあまりの悲惨さに、ただただ泣き叫ぶだけでした。

 ところが、完成試写を見た私は、愕然としました。スクリーンの中の私たちがあまりにも泣いているので、本当の厳しさが観客に伝わらないのではないか、こんな演技でよかったのだろうかと考え、いたたまれなくなってしまいました。

 自分自身、頑張ったことは事実ですけれど、演技者の気持ちと観客は必ずしも一致しないのではないかと痛感したのです。それから何年もして、実際のひめゆり部隊にいて生き残った方が、「涙も出ない状況でした」と話されるのをテレビで拝見して、戦争の本当の過酷さを突きつけられた思いがしました。

 どちらも、いろいろな意味で私には思い出に残る、青春時代の作品です。

●原爆詩を朗読して一字一句を大切に

 その後、「夢千代日記」に出演します。81年の2月から放映されたNHKの連続ドラマで、出演したテレビドラマの中でも最も好きな作品です。私の演じた主人公の夢千代は、母親の胎内にいたときに広島で被爆した胎内被爆者。原爆症を発症しており、余命2年と宣告されていました。

 この出演がきっかけとなって、原爆の詩の朗読が始まりました。86年に東京で開かれた平和の集いで、被爆者の団体から依頼されて、原爆詩人といわれる峠三吉さんや栗原貞子さんの詩を朗読したことが最初です。

 それからは、映画の撮影に入っていないときに、演劇や音楽などの舞台にふれる機会の少ない、地方の中学校などを中心に出かけては朗読していました。全校生徒三十数人といった山村の分校を訪ね、生徒たちと交流しながら、原爆詩を読んだこともあります。

 そして、「第二楽章」と題して、私の「編」という形で本になり、CDも出すことができました。

「第二楽章」とは恐ろしい出来事そのものが起きた瞬間から時間が流れて、次の世代へ移っていく時代になって、語り継ぐべきことを、どう語っていけばいいだろうと考えて生まれたタイトルです。音楽でいえば、激しいアレグロではなくて静かで穏やかなアダージョ。経験そのものを持たない世代の人にも共感を持ってもらえるように、やさしさと想像力をもって聴いてもらえるように、語りかけたいと思いました。

 ですから、朗読は自分の感情を入れないで、一字一句丁寧に読んでいくことを心がけています。悲惨さや哀しさに読み手の私の感情が高ぶっていると、聴く人はそこで終わってしまいますから。自分をコントロールすることの大切さを、自分に言い聞かせています。

 井伏鱒二さんの『黒い雨』の朗読をしている奈良岡朋子さんが、やはり「一字一句伝えることを大切にしている」と言われたのを新聞で拝見して、大先輩がそう言われるのだから、私もこれでいいんだ、と納得しています。

 朗読の会はその後、海外でも持たれました。アメリカ・シアトルの郊外での朗読が、最初の海外です。95年のことですが、この2カ月前に米スミソニアン博物館で予定されていた原爆展が中止になっていましたから、日が迫ってくるにつれて、アメリカ人に原爆を伝えることができるだろうかととても不安になって、眠れなくなったほどです。でも、朗読が終わったとき、みなさんが立ち上がって拍手をしてくださったので、ほんとにほっとしたものです。

 イギリスのオックスフォード大学での朗読は、2011年の秋です。坂本龍一さんのピアノの演奏に支えられての朗読でしたが、このときも幸いに多くの共感をもって受け入れられました。坂本さんが「朗読は音楽」だと言われましたが、日本語で朗読しても、音楽と同じで言葉の壁を越えて伝わるのですね。

(聞き手・文/由井りょう子、構成/長沢 明)

週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋