※日本基督改革派教会30周年記念宣言「教会と国家にかんする信仰の宣言」より~(専制への反対)
神のみが、からだと良心との主であられる。神は、いかなる国家的権威であれ宗教的権威であれ、彼らが絶対的権能とりわけ良心と思想をほしいままに統制する権能を主張する場合はいつでも、われわれがその権威者にさからって御自身に服従することを要求される。
したがって、政治・経済・宗教などのあらゆる形の専制にたいし、とくにそれが全体主義的になる時、それに公に抗議することは、教会の義務である。・・・・
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毎年教会では8月に平和を考える時を持ちます。子どもの教会礼拝式説教でも、真の平和を作るために教会は何をすればよいかを日本基督改革派教会30周年記念宣言の子ども版スライドを作ってみんなで考えました。(M・YさんFBより)
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日本基督改革派教会創立三十周年記念宣言
序 文 私たち日本基督改革派教会は、創立三十周年にあたって 教会と国家にかんする信仰を内外に宣言し、教会のかしらなる主イエス・キリストのみ前に、悔い改めと新しい服従の道を歩むことを決意しました。 主は、三十年前、私たちの国に、みことばに忠実に従って生きる教会を形成しようと志す一群の人々を起こし、日本基督改革派教会を創立してくださいました。私たちは今、創立までにあった神の恵みと導きとを思い、さまざまの罪と弱さにもかかわらず、彼らを用いてみ栄えを表わされた神の恵みの選びを賛美し、あらゆる良い賜物の源である主イエス・キリストの父なる神に、言いつくせない賛美と感謝をささげるものであります。 創立にあたって指導的な役割を果たした教師たちが、戦時中、教会合同にさいし、旧日本基督教会内にあって「聖書の規範性、救いの恩恵性、教会の自律性」という三原則を掲げて反対し、また国家神道体制下における神社参拝の強要にも屈しなかった信仰の戦いは、日本基督改革派教会の創立およびその後の歩みと深いかかわりをもつものでありました。しかし、私たちは、宗教団体法下の教会合同に連なったものとして、同時代の教会が犯した罪とあやまちについて共同の責任を負うものであることをも告白いたします。戦時下に私たち日本の教会は、天皇を現人神とする国家神道儀礼を拒絶しきれなかった偶像崇拝、国家権力の干渉のもとに行なわれた教会合同、聖戦の名のもとに遂行された戦争の不当性とりわけ隣人諸国とその兄弟教会への不当な侵害に警告する見張りの務めを果たし得ず、かえって戦争に協力する罪を犯しました。 こうした私たちの罪にもかかわらず、歴史を支配される神の摂理により、敗戦とともに宗教の自由が与えられ、日本基督改革派教会が創立されました。私たちの教会は、この神の恵みに感謝し、「キリスト教有神的人生観ないし世界観こそ新日本建設の唯一の確かなる基礎なり」との創立宣言の主張に立って、教会と国家の関係を明確にし信教の自由と教会の自律性を確立することに努めてきました。しかし今、過去三十年の歩みを謙虚にかえりみるとき、私たちの教会はなお、与えられた神の恵みにこたえるには、国家にたいする使命と責任を果たす祈りと努力において足りなかったことを、率直に告白せざるを得ません。 七十年代の祖国は、靖国神社国家護持法案の強力な推進に一例を見るように、いちじるしく旧日本への回帰の傾向を示しております。この時にあたり、私たちは、かつてあの暗い日々に私たちが陥った罪と誤りを主のみ前に深く恥じ、再びくり返すことのないように主の恵みを求めるとともに、広く日本の諸教会にも、同じ罪に陥ることのないよう呼びかけるものであります。 日本基督改革派教会は、聖書にもとづいて、ここに「教会と国家にかんする宣言を言い表わし、私たちが主キリストの教会として固く立つ原理を確認し、これに従って新しく戦うことを決意いたします。 私たちは、今なお小さい群れであります。しかし、「恐れるな、小さい群よ」と呼びかけてくださる主は、歴史においていつも、小さい群れを用いて大きなわざを行なわれました。私たちも、教会と国家の主であるイエス・キリストの教会にふさわしく国家にたいして責任を果たすことができ、それによって主の栄光が教会を通しても国家を通しても表わされるように、と祈ります。 願わくは、すべてのものを生かしてくださる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをされたキリスト・イエスのみまえで、私たちが大胆に、この信仰を国家にたいして言い表わすことができますように。アーメン。 教会と国家にかんする信仰の宣言 一、教会と国家の主キリスト (一) (主キリストの主権) 主権的な創造者である聖なる三位一体の神は、あがない主イエス・キリストに、天においても地においてもいっさいの権威を授けて、御自身の支配を宣言し、神の国を樹立された。神は、イエス・キリストの死と復活と高挙とにより、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。このかしらによって、神は万物を支配しておられる。(1) われわれはイエス・キリストを、もろもろの王の王・主の主・国々の統治者また審判者として礼拝し、彼に服従する。(2) (二) (教会と国家の関係) 主イエス・キリストは、父なる神のみこころを行なうにあたって、御自身のよしとする天地のあらゆる権能を用いられる。(3) 彼は教会と国家を、それぞれに固有の働きを委託して、御自身に仕えさせられる。彼は教会のかしらであると同時に、国家のかしらでもあられる。(4) したがって、教会と国家は、ともにかしらなるキリストに従属し共同の責任を負うので、相互に密接な関係がある。(5) 教会と国家は、自己に託された権能と働きにしたがって相互に助け合う義務があるが、それぞれの権限は別個のものであり、キリストにたいする関係も異っているので、いずれも他方の領域を侵害することは許さ また、教会と国家の関係は、一国内に留まるものではなく、国際的な広がりをもつ。(7) ニ、国家の権能とその限界 主キリストがその一般恩恵のうちに国家を立てておられるのは、国民の福祉を増進し不正を抑制するような立法・行政・司法において御自身に仕えさせるためであり、この目的のために彼は国家為政者を任命された。 このように、国家為政者は、悪を行なう者を罰し善を行なう者を賞するための神のしもべであって、いたずらに剣をおびているのではない。(8) (二) (宗教への義務) 国家は、あらゆる国民の諸権利を公平に守り、公共の平和を確立する義務がある。(9) 国家は宗教団体に、あらゆる宗派にたいして公平に、宗教儀式・布教・教育などを行なう権利を認める義務がある。 したがって、われわれは、宗教団体を国家の宗教的機関と考えるいかなる思想をも拒否する。 また、われわれは、国家を宗教団体の政治的機関と考えるいかなる思想をも拒否する。(10) (三) (国家権能の限界) 国のあらゆる権能は、キリストの主権によって委託された権能であって、その権能を託された領域内で行使する場合にだけ、正しくキリストに仕えることができる。(11) したがって、あらゆる権能濫用は、信託違反にほかならず、濫用者に破滅をもたらし被造物のうちにある神の栄光を損なう。(12) また、キリストに属する権能の全体を、いかなる人・集団・組織にでも帰することは、主イエスにたいする反逆罪であり、教会にとっても国家にとっても致命的である。(13) 三、国家にたいする教会の関係 (一) (教会の権能) 主キリストがその特別恩恵のうちに教会を立てられたのは、みことばの宣教・礼典の執行・愛によって働く信仰の生活において御自身に仕えさせるためであり、この目的のために国家為政者とは別個の教会役員の手に教会政治を委託された。(14) したがって、われわれは、教会を国家の宗教的機関と考えるいかなる教えをも拒否する。また、国家を教会の政治的機関と考えるいかなる教えをも拒否する。教会はその福音を政治的・経済的・文化的・または民族主義的ないかなる信条とも混合混同してはならない。(15) 同時に教会は、国家為政者がキリスト教に好為的であっても敵対的であっても、国事に超然としていることは許されない。われわれは、宗教的理由にせよ政治的理由にせよ、教会を国家から完全に分離すべきだとするいかなる教えをも拒否する。なぜなら教会は、人のあがないのために人と一つになられた主から託された務めを、国家にたいして果たさなければならないからである。(16) (二) (国家への使命) 教会の国家にたいする奉仕と使命は、多様である。 教会は、すべての人のために願いと祈りと感謝をささげ、特に権威の座にある者のためにとりなしをして、聖霊の支配が国民生活と国際関係において、善をみのらせ悪を根絶されるように、神に祈る。(18) 教会は、伝道の使命を果たすことにおいて、人々の間に正義と平和と自由を増進する。(19) 教会は、キリストの律法を果たすことにおいて、キリスト教的愛のわざに従事する。(20) 教会は、国家を見守る者としての預言者的な務めを果たし、主が促される時には、公に主のみこころを宣言する。(21) (三) (専制への反対) 神のみが、からだと良心との主であられる。神は、いかなる国家的権威であれ宗教的権威であれ、彼らが絶対的権能とりわけ良心と思想をほしいままに統制する権能を主張する場合はいつでも、われわれがその権威者にさからって御自身に服従することを要求される。 したがって、政治・経済・宗教などのあらゆる形の専制にたいし、とくにそれが全体主義的になる時、それに公に抗議することは、教会の義務である。(22) しかし、教会の戦いの武具は、究極的にはこの世のものではない。すなわち教会は聖霊に導かれつつ、いかなる状況においても、イエス・キリストこそ主であることと、キリストの義にもとづく自由と、平和の福音とを公に証言する。(23) (四) (キリスト者の義務) あがない主イエス・キリストは、人間生活の全領域にわたってわれわれの主であられる。われわれがこの主のものでないような生活領域は、どこにもあり得ない。(24) したがって、キリスト者は、政治・経済・文化・その他の社会活動や社会奉仕に、キリストのしもべとして参加する。(25) キリスト者は、主のゆえに国の法律を尊び、財的にも、身をもって直接的にも、あらゆる法定義務を果たすため、常に最善をつくす。(26) また、立法・行政・司法における不正、良心の侵害などの弊害を矯正するために常に努力する責任がある。(27) さらにキリスト者は、国民として、イエス・キリストの主権を奪おうとする政府や権能機関にたいしては、義務を拒否することばかりか抵抗することをも神のみことばによって求められる。(28) 四、教会と国家の改革と希望 (一) (教会と国家の改革) 主キリストの支配がいまだ公には現わされず、完全には認められないこの世の続く限り、われわれは公私のあらゆる関係にわたって罪にとり固まれ、われわれの存在は、不安とどん欲と不正と腐敗の傾向に絶えずおびやかされている。そのために、教会と国家はいつも神のみことばによって改革される必要がある。(29) それゆえ、教会と国家の改革のために、絶えず目をさましてキリストの恵みを祈り求め、またそのために努力することは、すべてのキリスト者に課せられた義務である。(30) (二) (終末の希望) 主キリストの支配は、現世の悪と悲惨のただ中では、キリストにあるわれわれの望みのまったき確信をもって、信仰により見抜かれなければならない。(31) キリストは、諸国民のいやしと教会の完成のために再び来られる。(32) キリストが新しいエルサレムを啓示されるその日、彼は、すべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される。 アーメン。主イエスよ、来たりませ。(33) 一九七六年四月二八日
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