ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

東京フィルの『イリス(あやめ)』(演奏会形式)

2016-10-26 00:02:27 | 東京フィル
先日(20日)サントリーホールで開かれた東京フィルハーモニー交響楽団第887回定期演奏会を聴いてきた。指揮・演出はアンドレア・バッティストーニ。チケットは完売。

【演目】
マスカーニ/歌劇『イリス(あやめ)』(演奏会形式・字幕付)
  チェーコ(バス):妻屋秀和
  イリス(ソプラノ):ラケーレ・スターニシ
  大阪(テノール):フランチェスコ・アニーレ
  京都(バリトン):町 英和
  ディーア/芸者(ソプラノ):鷲尾麻衣
  くず拾い/行商人(テノール):伊達英二
  合唱:新国立劇場合唱団
《19時00分開演 21時30分終演》(休憩1回)

プッチーニの『蝶々夫人』は日本でも頻繁に上演されるが、『イリス(あやめ)』は日本を舞台にしたオペラにもかかわらずほとんど上演されない。一方で、ヨーロッパではそれなりに上演されているようで、指揮のアンドレア・バッティストーニも、タイトルロールのラケーレ・スターニシもすでに経験済みのようである。

舞台は江戸。盲目の父と住む娘・イリスが、大阪と京都の策略にのせられて吉原に売られてしまう。それなのに、吉原を訪れた盲目の父に罵られて、イリスは窓から身を投げる。そして、イリスが堕ちた場所は富士山の麓で、そこでイリスは「太陽讃歌」が響くなか様々な思いを抱きながら、亡くなるという、なんとも荒唐無稽な話である。

観劇後の率直な感想は「ああ、日本を誤解というか曲解した人たちが、短絡的に書いた作品なんだなあ」だった。まあお芝居なのだから、どのような世界を描こうが、それは作者の勝手ではあるが、江戸時代の遊郭がどのようなものであるかを知っている日本人からすると、とても納得のいくお話ではない。加えて、最初と最後に場違いのような仰々しい太陽讃歌が歌われては、日本の宗教への理解が皆無と言わざるをえない。このような太陽讃歌を歌わせたかったら、せめて舞台をギリシャかエジプトあたりにしたら良かったのにと思ってしまう。結論から言えば、ヨーロッパの人はどう思うか知らないが、『蝶々夫人』の足元にも及ばない低レベルな作品である。

さて、歌手で素晴らしかったのは女性2人。イリスを演じたラケーレ・スターニシのソプラノは伸びがあり、タイトルロールにふさわしかった。ディーアと芸者を演じた鷲尾麻衣は透き通る美声。一方で男性陣は少し精彩を感じられなかった。妻屋秀和は役も役ということでどことなくひ弱感が否めなかった。テノールのフランチェスコ・アニーレは前半は声の通りが良くなかったが後半は盛り返していた。バリトンの町英和は演技は上手いのだが歌声が今ひとつ。

演奏会形式といえ、出演者はみんな暗譜でお芝居をする。加えて、照明もそれなりに凝っていて、スライドを投射したりもする。ただ、残念なことにサントリーホールでは照明機材やスクリーンなどが不完全燃焼で、効果をほとんど出すことはできなかった。ホールを熟知していない演出も手がけたバッティストーニの空回りと言わざるをえない。オーソドックスな演奏会形式にした方が良かったのではないだろうか。