小日向白朗学会 HP準備室BLOG

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満州、見果てぬ故郷

2019-03-27 | その他
 昨晩テレビを見ていたら「我が国の生命線」などという言葉が聞こえてきました。そう満州のことです。戦後生まれの私にとって、生まれた時にはすでに満州国は存在しなかったにもかかわらず、満州という言葉を聞くと、なぜか「故郷の香り」がするのです。なぜなのでしょうか。私は3人兄弟の末っ子。長男は日本で生まれ、おそらくですが、昭和16年に両親と3人で満州に渡ったのです。その地で長女が生まれました。戦後、おそらくですが昭和21年5月ころ、白龍丸に乗って引き揚げてきたのです。死ぬような過酷な環境の中で、おそらくですが、ソ連兵だけでなく一部の中国の人たちからも逃れるようにして帰ってきたのでしょう。日本の港(舞鶴)についてからも、長女が海に落ちそうになったり、はぐれてしまいそうになったり・・・・等々いろいろあったようです。
 つまり、私の姉は満州国の生まれなのです。満州での生活は大変にゆったりとしていたというか、余裕があったというか、恵まれていたような話を耳にしています。すでにどこかへ行ってしまいましたが、兄が自宅の中でくつろぐ写真を見たことがありますが、裕福な雰囲気の部屋を連想させるものでした。しっかり聞いてはいないのですが、そのころの父は炭鉱会社(「満州炭抗」らしいです)の管理職の仕事をしていたようなのです。当時満州は「異国」ではなく、「我が国の生命線」などという言葉で象徴されるように、「準・日本」といった感じだったのでしょう。
 国の政策としては俗にいうところの「棄民」、つまり、できれば満州にとどまるように…というものだったようなのですが、死に物狂いで帰ってきました。その時は家族が増えて4人になっていたのです。帰国後、両親は生活の再建にものすごい苦労をしたのです。それははっきりと耳にしています。どうにか息がつけるか、といった頃なのでしょうか、私は生まれました。いわゆるベビーブーマーであります。私の両親と兄、姉は満州とははっきりとしたゆかりがあるのですが、私は全く実感はないはずであります。にもかかわらず、「満州」という言葉を耳にすると「ふるさと」に似た甘ったるい感情がわいてくるのを禁じえません。私の姉の戸籍にははっきりと書かれています。生誕地は「満州国錦州省吐黙特中旗北票街南山区〇〇〇〇」なのです。どなたかこの地をご存知の方がいらっしゃったらぜひ聞いてみたいものと思っております。「どんなところでしょうか?」と。なぜなら、私のファミリーの見果てぬふるさとだからです。私と家族とのつながりが私の満州という一個の『幻想体』に対して醸し出す感情、それが原因なのでしょうか。
 残念ながら、生前の父からは具体的な話を聞いたことはないのです。父は昭和13年の2月から8月までの従軍日記を残していましたので、満州を家族(妻と長男)と渡る前に「徐州会戦」に従軍していたことは十分に伺われています。退役し帰国してから結婚し、長男を得てから昭和16年に満州へ渡ったのです。父は、おそらくですが、満州の地で家族とともに幸せな生活を営むことが出来るのではないか、という気持ちで満州に行き、しばらくはそう思っていたのではないかと。それこそが大いなる誤解といいますか、仕組まれた幻想(国家幻想)であることにまで想いを馳せることなく。白朗が憲兵隊に請われて渡った上海・金家坊99を拠点として活躍していた頃のお話です。(文責吉田)

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