吉田茂は、サンフランシスコ講和条約締結と同時に日米安保条約を締結する。その後、昭和27(1952)年2月28日に「行政協定(日米地位協定)」、昭和29(1954)年2月19日に「日本国における国連連合の軍隊の地位に関する協定(国連軍地位協定)」により、日本の主権(自衛隊指揮権、航空管制権、電波権)をアメリカに売渡してきた。アメリカは、日本を冷戦という世界戦略の極東部分として保持し続けるため、CIAが資金を提供して昭和30(1955)年11月15日に保守合同を行い新に結党した自由民主党に政権を維持させることにした。この二つの協定は、自由民主党が政権を維持するための最高機密であった。このことは「小日向白朗学会 HP準備室BLOG」 下記スレッドとして、その詳細を書いてきた。
ところで、自由民主党が最高機密としてきたCIA資金のことを暴露するジャーナリストが現れた。それは伊藤貫氏である。特に同氏の「伊藤貫の真剣な雑談 第四回」[i]では自由民主党がCIAから資金援助を受けていたことを報告している。伊藤氏の「自由民主党は売国政党」であるということは絶対に正しい。ただし事実認識に誤りがある。
第一が、CIAが自由民主党に資金提供をした核心的な理由は自由民主党が「自衛隊指揮権」をアメリカに譲渡したことである。この部分は、「行政協定」締結当時から、この事実が明らかになった場合には政権が持たないということで、秘密にされてきたことなのである。これにより、日本は独自の安全保障政策を考えることも、実施することもできない国になってしまった。伊藤氏も独自な安全保障がないことを憤慨しているが、そもそも、日本政府は安全保障を考えることを放棄したアメリカの属国なのだ。伊藤氏が云うところの属国日本に自主性を求めること自体が間違いなのである。
ところで、アメリカが自衛隊指揮権を握ることにこだわりを見せたのは、アメリカの戦略の下で自衛隊を朝鮮半島や台湾に派兵するためであった。その際に障害になったのが日本国憲法の存在であった。そのため自由民主党は、アメリカの意向を受けて、憲法改正を行ったうえで自衛隊を海外派兵させることを結党主意書にうたったのである。したがって、自由民主党を結党させた理由は、あくまでも自衛隊指揮権を握るアメリカの意向によるものなのである。
そもそも、日本国憲法はGHQの強い意向を受けて施行されたものであった。ところが、冷戦構造及び朝鮮戦争でアメリカの世界戦略が大幅に変更となったことから、今度は、自主憲法制定という、それまでとは180度異なる理由を持ち出さざるをえなかったのである。しかし、自由民主党が主張する「GHQによる押し付け憲法」であることから「自主制定憲法へと改正する」という論理は間違いがある。日本がサンフランシスコで連合国と講和を結んだ中に次の文言がある。
『……
第十九条
(d) 日本国は、占領期間中に占領当局の指令に基づいて若しくはその結果として行われ、又は当時の日本国の法律によつて許可されたすべての作為又は不作為の効力を承認し、連合国民をこの作為又は不作為から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。
……」
日本は講和に際して、GHQが行った対日政策をすべて受け入れることを約束している。従って「GHQによる押し付け憲法」であっても、受け入れることを拒否することはできないのだ。さもなければ講和条約違反となり、国連憲章中にある敵国条項(53条、第107条)に抵触して懲罰を受ける可能性すらあるのだ。
第二が、保守合同の原因は、昭和30(1955)年10月13日に社会党左右両派が社会党(鈴木茂三郎委員長、浅沼稲次郎書記長)を再統一したことであった。
昭和26(1951)年当時の社会党は、サンフランシスコ講和条約を巡って、講和条約賛成派の社会党右派と講和条約反対派の社会党左派に分裂していた。その後、保守政権による再軍備や改憲に対抗するために反対運動を推進した社会党左派が選挙毎に議席をのばしていたが、社会党右派は党内の対立があって明確な主張を出せなかったため選挙で議席が伸び悩んでいた。ところが昭和30年に社会党が再統一を成し遂げたことで、いよいよ、社会党を中心とする野党が政権を奪取する可能性が生まれた。そして社会党が政権を取った場合に社会党は、日米安全保障は期限が到来するまで継続するものの、国内法である行政協定は政権移譲とほぼ同時に破棄、若しくは段階的解消して日本の国権を取り戻す政策に転じることは明白であった。その結果、アメリカはせっかく手に入れた「自衛隊指揮権」を手放さざるを得ないという事態を避けるために、日本の国内政治に干渉し、分裂している保守二党を合同させてアメリカの制御が可能な政権与党を作ることとした。そのため自由民主党が長期政権となったのである。その様子は『CIA秘録』[ii]に記載がある。中でも「第12章「別のやり方でやった」自民党への秘密資金」で、特に詳しく述べている。
『……
一九五八年から六〇年代初頭までの間、「アメリカ政府は、日本の政治の方向性に彫響を与えようとする四件の秘密計画を承記した。左翼政治勢力による選挙を通じての成功が、日本の中立主義を強化し最終的には日本に左翼政罹が誕生することを懸念したのである。アイゼンハワー政権は一九五八年五月の衆院議員選挙の前に。少数の重要な親米保守政冶家に対しCIAが一定限度の秘密資金援助と選挙に関するアドバイスを提供することを承認した。援肋を受けた日本側の候補者は、これらの援助がアメリカの実業家からの援助だと伝えられた」。
「重要政治家に対する控え目な資金援助計画は、その後一九六〇年代の選挙でも継続された」と国務省声明は述べている。
「もう一つのアメリカによる秘密工作は、極端に左翼的な政治家が選挙で選ばれる可能性を減らすことを狙ったものだった。一九五九年にアイゼンハワー政権は、より親米的な『責任ある』野党が出現することを希望して、穏健派の左翼勢力を野党勢力から切り離すことを目指した秘密工作の実施をCIAに認証した。この計画での資金援助はかぎられていて一九六〇年には‐七万五千ドル-、一九六〇年代初期を通じて基本的に同じ水準で続けられた。一九六四年までには、リンドン・ジョンソン政権の要人も、日本の政治か落ら付きを増し日本の政治家に対する秘密の資金援助の必要がなくなったと確信するようになっていた。さらに、資金援助計画は、それか暴露された時のリスクか人きいというのか多数意見になっていた。日本の政党に対する資金援助計画は一九六四年の初期に段階的に廃止された」
……』
自由民主党は、保守合同を行う前からCIAから資金援助を受けていた。そして「日米安保条約」を締結する下準備として、支持基盤を安定させるために昭和33年(1958)年5月22日に行われて第28回衆議院議員総選挙を勝利する必要があった。そのため「CIAが一定限度の秘密資金を援助することと選挙に関するアドバイス」をおこなったのである。その結果、総選挙では467議席中287議席を獲得したことで政権は安定することになった。残る課題は、革新勢力を分断して再び政権を奪い取ることを断念させることであった。そこでCIAは「穏健派の左翼勢力を野党勢力から切り離すことを目指した秘密工作の実施」を行うことにした。分断工作に使用した資金は1960年に7万5千ドルで、その後、「一九六〇年代初期を通じて基本的に同じ水準で続けられた」というのである。したがって、1960年から数年はCIA資金が投入されていたことになる。これが1960年1月に西尾末広、片山哲、水谷長三郎によって結党した民主社会党なのである。つまり伊藤氏が云うところの「社会党に注入されたCIAの資金」とは、野党分断工作費用だったのである。そして、民社党の流れをくむのが労働組織連合(日本労働組合総連合会)である。そのため連合は、今でも野党分断工作をおこなって自由民主党を補完する工作を精力的に行っているのだ。
以上を踏まえたうえで、伊藤氏の今後の矛先について考えてみる。伊藤氏は自由民主党を「売国政党」と厳しく糾弾していたが、その甲斐あってか、最近の同党中枢は長期政権を維持してきたことの限界を感じて外交防衛利権を移転させることを準備している。つまり、伊藤氏は、今後、外交防衛利権を持ち逃げしようとしている自由民主党とその相手国に論点が移っていくことは確実である。しかし、いまだ伊藤氏からは公表されていない。僭越ではあるが、このスレッドで、今後の展開を纏めてみる。
そもそも日本の安全保障は、朝鮮戦争を継続することを前提にして法体系が組み立てられてきた。そのため、万が一に朝鮮戦争が終戦となると、自由民主党の存続も外交防衛利権もすべて消滅する可能性があった。このことを一番熟知しているのが二つの協定を締結した自由民主党なのである。そこで自由民主党は、ひそかに外交防衛利権の移転を開始している。それが2023年1月11日に署名し同年10月15日に効力が生じた「日英円滑化協定」である。同協定については「「
日英円滑化協定」は「国連軍地位協定」のスペア -自由民主党は イギリスにも国家主権を売ると決めた-」でその詳細を記載済みである。問題は、自由民主党が防衛利権を持ち逃げする先が、選りに選って、イギリスなのである。
当のイギリスであるが、実は、驚くなかれ、日本は幕末に日英修好通商条約(1858年8月26日)を締結したときからイギリスの属国となっていたのである。
その実態については、一九九八年刊行のオクスフォード『イギリス帝国史』講座に詳細が記載されている。それによればイギリスは、自由貿易帝国主義論を枠組みとして「公式帝国」と「非公式帝国」という概念を用いてイギリス帝国の盛衰を説明している。
まず自由貿易帝国主義論の定義であるが、イギリス本国にあるマンチェスター綿業資本を中心とする工業及び製造業の利害からイギリスの海外膨張、自由貿易政策との関連性を中心に議論したものである。その結論としては、一九世紀イギリスの海外膨張を巡る基本的な戦略は「可能であれば、非公式支配による貿易を、必要ならば、軍事力による公式の領土併合によって」自由放任主義(レッセフェール)のもとで自由貿易を世界各地で強要することにあった。それと同時に「イギリスの通商業者、製造業者のために新たな市場を確保するのは政府の仕事である」という確信のもと、自由貿易帝国主義政策を世界各地で積極的に推進していた。これが当時のイギリス外交であった。
そのうえで、イギリスの植民地を二種類に分類していたことを説明している。イギリスの植民地であったインド、オーストラリア、シンガポールなど国際法で認められた植民地を「公式帝国」(Formal empire)と規定している。ラテンアメリカ諸国、中国、オスマン帝国、日本などの諸国は政治的には主権を持つ独立国であっても経済的にイギリスの圧倒的な影響下にある国々を「非公式帝国」(Informal empire)としていた。ここで重要なことは、イギリスは、公式か非公式を問わず植民地を統治する手法が上手く機能したことからこそ覇権を維持することができた。その手法とは、単に経済的利益獲得ばかりではなく本国から現地に派遣した植民地担当者が現地に駐在して十分に機能したこと、現地植民地社会のエリート層が政治的に積極的に協力したことであった。そして、世界の低開発地域を、原料や食糧の第一次産品供給国にすると共に、さらには資本やサーヴィスの輸出先に仕立てイギリスを中心とする世界経済体制に組み込むという世界戦略であった。日本の場合は、明治元年に薩長が設立した明治政府であり、その閣僚のことである。
日本がイギリスの「非公式帝国」つまり「属国」であったことの証拠となる資料がある、それは1859年4月28日付『ガジェット紙』である。同紙には「……昨年の八月二五日に、女王陛下と日本の大君(注:「the Tycoon of Japan」江戸幕府をこのように呼んでいた)は、それぞれの全権公使によって修好通商講和条約を合意し署名した。前記の条約の批准書が交付されたならば女王陛下は、直ちに日本の大君の領土で権能と管轄権を有するであろう……」としている。つまり、イギリスは、治外法権を取得することで日本を配下に置いてきた。近年、自由民主党政権がしばしば用いる「国際社会の法と秩序を尊重する」ということは、実は、イギリスが日本を支配下に置く方便なのである。
その実態を如実に表している組織がある。それは、イギリスが1865年に、中国と日本で発生したイギリス国民に対する訴訟及び上告を処理する目的でイギリス高等領事裁判所(The British Supreme Court for China and Japan)を設立している([iii])。この英語表記からわかる通り、同裁判所が受け持つ地域は、中国と日本であった。つまり、日本と中国はイギリスの非公式帝国であったことは明らかである。そして、この裁判所の英語表記から日本(Japan)の文字が外され「The British Supreme Court for China and Corea」となるのは、1894(明治27)年日英通商航海条約を締結後、国内法の整備などの経過処置が必要であることから1900(明治33)年になってからであった。これはイギリスがインド防衛のために日本の陸海軍を利用するため、日本の主権国家として扱って日英同盟を締結するための下準備であった。それは、主権国家同士が締結した条約は、たとえ片方に不利な条件であっても尊守することを求めるという過酷なものであった。これで日本は日露戦争を回避することができなくなり、莫大な戦費の借り入れと、多くの戦死者を出すことになった悪魔のレトリックなのである。
ところでこの裁判所の名称の変遷からイギリスと朝鮮との関係も見えてくる。1883(明治16)年に、イギリスは朝鮮と朝英修好通商条約を締結するが、同年、同裁判所の所轄に朝鮮の名称が追加されている。また朝鮮の英語表記から朝鮮が削除されるのは1910(明治43)年で、日本が朝鮮を併合した年なのである。イギリス帝国史から見た場合に、日本も朝鮮もイギリスの非公式帝国であるが、便宜上、朝鮮の支配を日本に移し替えたということである。
そして、極東で最後まで治外法権が維持されていたのは中国であった。中国が同権利を回復するのは1943年1月11日に「中国における治外法権の返還に関する中英条約」(Treaty for the Relinquishment of Extra-Territorial Rights in China)を締結するまで待つことになる。イギリスが、中国の主権を回復することに同意したのは、蒋介石が率いる重慶政府を対日戦に参加させるためであったことは明らかである。ここで述べた『非公式帝国』は、もはや、イギリス帝国史では常識である。知らないのは、日本国民だけなのである。
戦前の日本とイギリスの関係であるが、イギリスは自国の権益である中国及び満州に、日本が独自の論理で介入したことに対してアメリカと組んで懲罰を加えることにした。その結果が広島長崎に対する原爆投下であり、8月15日の敗戦なのである。日本は、昭和21年11月3日公布し、昭和22年5月3日施行した日本国憲法とは、イギリスの利権であった満州に日本が介入した結果、厳しい懲罰を受けたことに対する厳粛な反省に立脚したものであったことから、戦後の日本のあるべき国際関係とは、国際紛争という利権争いに、いかなる国とも「与しない」ことを誓ったものなのだ。軽々しく憲法改正を口にする輩は、イギリスの苛酷な懲罰の歴史を無視しているか、忘れている。憲法前文を改正せずに、条文を変更するという姑息な手段で憲法を改正することは愚かの極みである。イギリスの属国であった日本は、イギリスによる苛酷な使役と懲罰の歴史を見つめなおす必要がある。
それを、自由民主党は、よりによって、またもやイギリスに安全保障を委ねようとするということは狂気の沙汰なのである。また、別の見方をすれば、アメリカと自由民主党の関係が明らかになってきたことで、ご本尊のイギリスが乗り出してきたということでもある。
いずれにしろ、これで、また、日本は、イギリスに「骨の髄までしゃぶられる」ことになるのだ。
優秀なジャーナリストである伊藤貫氏は、現代の日本は、治外法権の国であって国家主権のないアメリカの属国であることから、日本が独自の安全保障を試みるというのは単なる絵空事にしか過ぎないことを暴露されており、これは称賛に値する。
同氏は、売国政党である自由民主党が外交防衛利権をイギリスに売り渡そうとしていることを察知しているはずであるから、今後は、イギリスの世界的な悪巧みを暴露していただけることになるはずである。期待して待ちたい。
以上(寄稿:近藤雄三)
[ii] ティム・ワイナー『CIA秘録 上巻』文芸春秋(2008年11月20日)182頁。