長宗我部元親は、秦の始皇帝の子孫であると主張していた。つまり、祖先が中国から来たと系譜を明らかにしていた。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した元親は、現地の職人らを大勢連れて帰って来た。築土構木(土木技術)を求めたものであったが、豆腐製造技術が一緒に伝わった。高知市の唐人町は、彼らが住み着いたと伝わる街で、昭和の時代まで豆腐屋が沢山あったと言う。
特筆すべきは、土佐に住みついた朝鮮の人々は、その後帰還を許されたものの、自らの意思でこの地に残ったと言うことである。長宗我部家の善政が伺えるこの話は、長宗我部ファンクラブの私としては誇らしい逸話なのである。
土佐・高知に限らず、その頃連れてこられた朝鮮半島の人々は、日本中に散らばって同化し、様々な技術・文化を日本で開花させた。これは太古の昔から繰り返されてきた歴史の一幕でもある。今の日本文化は、オールアジアの良い処を取り混ぜて紡ぎあげられたと言っても過言ではない。
日本は決してガラパゴスではなかった。。。と言うことだ。
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― 3/3高知白バイ事件・鎮魂ウォーク ―
3月3日/12:30 高知県庁・市役所前