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リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

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第一回長宗我部家臣七十三士慰霊祭は3月6日(日) ~ 小浜亭馬楽の歴史資料(備忘録) ~ 長宗我部フ

2011年02月10日 | 鳥無き島の蝙蝠

長宗我部フアンクラブからのお知らせです。

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「長宗我部家臣磔刑七十三士慰霊祭」の準備委員会があり出席しました。

第一回長宗我部家臣七十三士慰霊祭は3月6日(日)
◆慰霊祭:午後4時30分~6時  参加費:無料
◆直 会:慰霊祭終了後、国民宿舎「桂浜荘」 参加費:5000円

「浦戸湾むかしものがたり語り部の会」主催によるものです。

相撲大会に呼ばれ処刑された家臣の慰霊を処刑場所と思われる浦戸大橋の
種崎側(千松公園側の橋脚のたもとで行います。

73本の竹を切った中にろうそくを灯し、それを砂浜に建てて慰霊。

初めての試みです。ぜひご参加ください。
参加申し込みは下記までお願いします。
直会の申し込みは、2月22日までにお願いします。

*** 小浜亭馬楽の歴史資料(備忘録) ***

若宮八幡宮(長浜6600番地)
源頼朝創建。
元親が戸の本合戦で戦勝祈願してより、戦勝祈願の社。
社殿は、出陣にちなんで出蜻蛉式。
戸次川合戦への出陣の際、軍旗の笠標が鳥居の冠木に当たってちぎれ落ちたというエピソードがある。不吉とする家臣を、元親は吉兆と解釈して出陣したが、戸次川では大敗したので、その恨みで鳥居は海中に投げ捨てられたという。

雪蹊寺(長浜857-3)
臨済宗妙心寺派 四国霊場33番
元親によって、真言宗から禅宗に改宗させられる。
長宗我部信親の墓所もある。
戸次川より持ち帰ってきた豊後梅は、今も毎年花を咲かせている。

秦神社(雪蹊寺の東隣)
明治時代、元親の弟親益の子孫島義親らによって創建された。
元親を祭神としている。
元親木像、元親画像(重要文化財)、戸次川戦死者の大位牌を奉祀している。

土佐神社(一宮しなね2丁目16-1)
本山氏の家臣らの焼き討ちによって、本殿以外は消失したが、1567年、元親が四国統一の願いを込めて、再建した。
元親が巡検した時、御営の垂木に長宗我部家を褒める和歌がいつのまにか書かれていたという伝説がある。
中富川合戦出陣に際し、家臣とともに祈願に訪れた元親は、出現した御神体より戦勝を告げられたというエピソードもある。

吸江庵(五台山吸江北吸江地区 吸江寺)
夢窓疎石の開基。
東津野村(現津野町)出身の義堂周信・絶海中津が住職を勤める。
長宗我部氏が、細川氏の被官として長く寺奉行を勤める。
長宗我部元親の時代、忍性が岡豊城などに赴き、朱子学(後に南学として発展)を講じる。
山内一豊の妻千代に拾われ、養子となり、後に出家した湘南和尚が住職となり、吸江寺と改名。
野中兼山と共に、南学を学んだ山崎闇斎も僧として、湘南和尚に連れてこられ、一時住んでいた。
坂本龍馬最後の帰郷の際、土佐藩重役達と密談した場所でもある。

吉良神社(山ノ端町70 若一王子宮に合祀)
「七人みさき」で犠牲になった吉良親実を祀る。

吉良神社(春野西分 増井地区)
吉良親実の怨霊騒ぎによって、山ノ端町の吉良神社より、遺骨が春野木塚に移され、木塚明神として祭られていたが、その後、現在の地に移る。
祭神は、吉良親実。その墓もあり、七人みさきの慰霊碑もある。

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小浜亭馬楽の備忘録 ~ 土佐の戦国武将と城

2011年02月04日 | 鳥無き島の蝙蝠
  • 大津城(大津甲 関地区)
    細川氏の一族である天竺氏の居城、長宗我部国親が最初に攻めた城
  • 介良城(介良乙)
    横山城ともいう。武蔵七党の最強横山党の流れをくむ横山氏の居城。横山九郎兵衛は、国親と戦い、一旦は勝つが、後に降伏。その後、安芸氏攻撃で活躍し、浦戸城番となり、若宮八幡宮を造営した。
  • 金山城(布師田、七ツ城)
    大津天竺氏の家臣であった石谷氏の居城。天竺氏が滅び、戦う前に国親に降伏。石谷重信は、一宮神社の神主となる。元親の嫁選びに一役かったという説あり。
  • 田辺島城(大津乙 田辺島地区)
    長宗我部家臣 福留親政・福留隼人の居城。国分川の水運を守り、吸江庵への道を守り、本山氏へにらみをきかせていた。更に大津天竺氏と布師田石谷氏の連携を牽制していたと思われる。
  • 大高坂城(現高知城、1588-1591)
    三の丸に大高坂城時代の石垣が展示されている。世継ぎ評定をきっかけとして「七人みさき」の怪事件が起こったと言われている。1590年の小田原の陣に水軍を率いて出陣した元親は、もっと港に近い城が便利となり、浦戸城へ移った。
  • 浦戸城(1591-1600)
    元親・盛親が城主となる。浦戸一揆で、一領具足たちがたて籠もった。
  • 朝倉城(朝倉丁)
    本山氏の主城。本山梅慶が没した城。土佐一の巨城であり、日本でも有数の規模を誇る城である。娘を本山茂辰に嫁がせていた国親が、密かに訪れ、本山氏の内情を探ったという伝説がある。
  • 吉良城(春野弘岡上 大谷地区)
    吉良・本山・長宗我部と主の替わった城。一条氏の配下となり油断していた吉良宣直を本山氏が襲撃して城を奪う。本山氏は、長浜城主であった大窪美作守に城を預けたが、本山氏が朝倉から本山へ立ち退く時、大窪は、城を捨てて逃げ、長宗我部の城となる。元親の弟親貞が入り、吉良親貞となる。盛親も一時居住していた。

BALLAD 名もなき家臣の詩 by 小浜亭馬楽

2011年01月29日 | 鳥無き島の蝙蝠

A073

無名ということではない
鎌倉初期からの名家
南北朝時代には大いに勢力を振るい
日下一円を完全支配していた
先祖は公家だったと伝えられている
長宗我部地検帳には三宮殿と記されている

日高村日下奥谷に葛掛城跡がある
三宮製材を回りこんで
谷沿いの道を登る
細い道はすぐ消えて
茨が行くてを阻む
詰の段まで何とか登る
そこには大きな石と崩れた土塁

この城は戦国以前のものだった
長宗我部の家臣だったころは
里に住んでいたのだろう
そして先祖の栄光の跡を仰ぎ見ていたのか

戸次川に一族多数出陣し死んでいる
その時の当主は
三宮左兵衛だったのか六兵衛だったのか

名もなき家臣であったけれど
元親を支えたことは確かであり
必要な人だった

ここを訪れ三宮氏に想いをはせてほしい

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― 3/3高知白バイ事件・鎮魂ウォーク ― 

3月3日/12:30 高知県庁・市役所前

http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/638.html


長宗我部元親は、秦の始皇帝の子孫

2011年01月29日 | 鳥無き島の蝙蝠

長宗我部元親は、秦の始皇帝の子孫であると主張していた。つまり、祖先が中国から来たと系譜を明らかにしていた。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した元親は、現地の職人らを大勢連れて帰って来た。築土構木(土木技術)を求めたものであったが、豆腐製造技術が一緒に伝わった。高知市の唐人町は、彼らが住み着いたと伝わる街で、昭和の時代まで豆腐屋が沢山あったと言う。

特筆すべきは、土佐に住みついた朝鮮の人々は、その後帰還を許されたものの、自らの意思でこの地に残ったと言うことである。長宗我部家の善政が伺えるこの話は、長宗我部ファンクラブの私としては誇らしい逸話なのである。

土佐・高知に限らず、その頃連れてこられた朝鮮半島の人々は、日本中に散らばって同化し、様々な技術・文化を日本で開花させた。これは太古の昔から繰り返されてきた歴史の一幕でもある。今の日本文化は、オールアジアの良い処を取り混ぜて紡ぎあげられたと言っても過言ではない。

日本は決してガラパゴスではなかった。。。と言うことだ。

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小浜亭馬楽の土佐・郷土詩 ~ 【吉良・本山・長宗我部三氏の歴史が息づく吉良城】

2011年01月19日 | 鳥無き島の蝙蝠

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A1_2 

【吉良・本山・長宗我部三氏の歴史が息づく吉良城】

 

高知市春野弘岡上 大谷地区

かつて吉良ヶ峰を背負うように吉良城があった

城は南嶺と北嶺にまたがっていた

 

竹のガードレールに沿って登り南嶺に着く

この陥没した穴は何だろう

南端から見る仁淀川と春野の平野

北嶺へは竹の橋がかかっている

少し怖いが何とか北嶺に着く

ここが詰の段

 

文武両道を重んじた吉良氏は

この城下で儒学を講じさせた

土佐の南学が始まった

本山茂辰が城を奪った

長宗我部に負けたとき

この城を守っていたのは

長浜で負けた大窪美作守だった

元親の弟親貞が入り吉良親貞となった

長宗我部盛親も一時在城していた

 

帰り道 竹林の中の険しい道にドラム缶がある

「チリ入れ 歴史公園建設期成同盟会 1977.2.13」

このドラム缶自体に34年の歴史がある

歴史公園にはならなかったが

歴史が息づいていることに変わりはない

 

吉良・本山・長宗我部三氏の歴史が息づく吉良城

土佐の戦国を偲ぶにはよい城だ

 

******

写真は、吉良城の南、上ノ村遺跡で発見された「石積み護岸遺構」・・・ もう現物は無くなってしまたが詳細な記録が残っている。私は長宗我部・本山勢力が関係していると考えている。

09年、県議会に陳情書を出して保存を願い出たが・・・ 一部の石が周辺護岸の工事に再利用されたのみ。。。追手前小廃校問題と共に、政治的力量不足を痛感した出来事だった。

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