リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

どんなに苦しくても世の中が真実で満ちていればそれでいい  
どんなに辛くとも信じるに足る社会であれば人々は生きて行ける

(転載記事)素晴らしい記事を見つけた。コピーしておいて後で勉強させてもらおう。

2011年12月02日 | 歴史

はやく、余計なことを片づけて、こうした問題に取り組まないとね・・・

それにしても、良い記事だ。

(以下、転載)

http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/394.html

W選挙の結果、橋下徹氏が大阪市長に当選し、その手腕に全国の注目が集まっている。選挙中の出来事として驚かされたのは、週刊誌報道によって『』問題がクローズアップされたことだ。あたかも「あのホテルは幽霊が出るそうだ」などと噂するのと同様に、判断力が未発達で心が純真な人々に対する影響力は、十分にあるのであろう。

しかし、その手法は、他者を自己利益の為に操作する連中が、1000年以上に渡って伝えてきた、いわば「伝統芸」である。社会の進歩を願う者であるならば、その邪悪な意図を見抜き、対処法を研究・吟味することが、絶対に必要だ。その際に最も効果的な手段が、「真の歴史」の探究である。独裁的権力者の自己正当化チラシを知恵の力で裏返し、かすかな鉛筆書きの文字を読み取らねばならない。
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東ローマ帝国から中国南朝に至る絹の国際交易ルート構築のため、ユーラシア東部のトルコ系騎馬民族・突厥は、ロシア沿海地方から渡海して、東北・北陸に上陸、東北・関東・甲信・駿河の大平原に「牧」を設け、馬を繁殖させて運搬・戦闘に用いた。将軍一族の「蘇我氏」は、騎馬軍団により列島を支配し、突厥語は、やがて日本語の中核となった。

次に、北魏での弾圧を逃れた仏教軍団が、朝鮮半島に侵入し、高句麗・百済を勢力下に置き、新羅に迫った。景教徒の新羅王族・騎士団は、北九州に亡命し、「秦氏」と呼ばれた。

秦氏は、ヒッタイト→古代エジプト→ヘブライ→イスラエル→アッシリア→バクトリア→秦→新羅と移り住んだ氏族であり、古代エジプト式土木建築などの技術力に秀でていた。また、「正々堂々と戦った勇者は、戦死しても再生する」と約束する軍神「ミトラ」を信仰し、ローマ騎士道を信奉していた。

蘇我氏と秦氏は、蘇我王朝を建てて明日香を都とし、蘇我氏の製鉄技術と秦氏の高度土木建築技術により、巨大古墳築造・河内湖干拓・大運河掘削などを行い、水銀製造工場・金メッキ工場・ガラス器工場を建設し、さらに東北から近畿に至る道幅12mの直線式高速道路を敷設して、馬車輸送による国際交易を発展させた。

北のシルクロードがもたらしたもの
騎馬民族がもたらした日本のことば
極東のローマ
新羅の腰?(ようはい)は突厥の金帯飾りに似ている
秦氏とユダヤの関係
飛鳥の工房
古代日本の計画道路
東山道武蔵路 その1

645年、唐進駐軍は、藤原氏と共謀の上、蘇我王朝を急襲して崩壊させた。そして、列島東国の絹、水銀、銀、金、琥珀、翡翠などの資源略奪のため、亡命百済人を属国官僚とする政府を樹立し、唐の律令を施行させた。さらに、騎馬民族を蔑む漢訳仏教を思想武器として持ち込み、民衆奴隷化を目的とする列島統治を開始した。

これに対し、蘇我軍団と秦氏騎士団合同軍は、672年、近江の亡命百済王朝の本陣を攻撃して壊滅し、明日香の地に再び砦を築き、騎馬民族の王号であるテングリを「天皇」号とし、国号を「日本」とし、日本初の天皇、天武天皇を誕生させた。

藤原氏は、唐進駐軍を後ろ盾として権勢を揮い、天武王朝の皇子を次々と謀殺した。また、道鏡への譲位を願った称徳天皇の計画を謀略によって阻み、天皇を毒殺した。後を継いだ井上天皇と他戸皇太子も呪詛の嫌疑を掛けて暗殺した。これにより、天武王朝は滅亡し、唐進駐軍と藤原氏が、亡命百済貴族を傀儡として支配する桓武王朝が誕生した。

中央を追われた蘇我氏・秦氏末裔は、東北に逃れ、『蝦夷(えみし)』と呼ばれた。彼らは桓武王朝に激しく反抗したため、朝廷は、唐の軍事顧問を司令官として派遣し、鎮圧を図った。蝦夷の棟梁、アテルイは坂上田村麻呂の言葉を信じ、平安京に向かったが、朝廷により斬首された。

蝦夷の捕虜は、西国に送られて「別所、湯浅、、海渡」などの捕虜収容所に集められ、『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれた。この収容所が、「落ち武者の武民が集う処」という意味で、後に「武落」から『』と呼ばれるようになった。この俘囚の中から、武士道に則って戦う武士が誕生した。そして、蝦夷が用いた馬上戦用の蕨手刀から日本刀が誕生した。

また、近畿の山奥に逃れた蘇我氏・秦氏末裔は、山の民となり、藤原氏が支配する平安京にゲリラ戦を仕掛け、『鬼』と呼ばれた。後には、情報・技術力を駆使して戦国大名に仕え、『忍者』として活躍した。

この列島は李氏・唐王朝に征服され、傀儡国家が誕生していた
「武器の材料の牛角を、日本から送ってほしい・・・」
壬申の乱は日唐戦争(5)
道鏡の真実
闇に葬られた皇族(1) ー 井上内親王
井上内親王 他戸親王王
アテルイの時代
武士の起源は「俘囚」=蝦夷か?
武士形成における俘囚の役割/蕨手刀から日本刀への発展
三神たけるのお伽秦氏「忍者」 

藤原氏は、蘇我氏・秦氏が支配者であった歴史を隠蔽する為に、蘇我王朝の歴史書を焚書し、隠し持つ者を厳しく処罰した。また、漢字二文字の地名・人名を強制したのみならず、蘇我氏・秦氏の宗教施設を破壊した跡に寺院・神社を建設して、それ以前の列島歴史を抹殺した。

藤原氏支配の正当性を主張する為、720年、創作歴史本「日本書記」を刊行し、蘇我氏に「稲目、馬子、蝦夷、入鹿」などの蔑称を名付けて、貶めた。また、「馬子、崇峻天皇を暗殺」などの記述で、徹底的に蘇我氏の暴虐非道性を捏造した。

また、藤原氏は、「仏教伝来」「聖徳太子即位」「遣隋使派遣」「大化の改新」などの架空事件をでっち上げ、騎馬民族支配と蘇我王朝の歴史の完全削除を目論んだ。その目的は、渡来異民族の闘争劇であった日本列島史を隠蔽し、天皇に統治された単一大和民族が、今日まで存続していたと信じ込ませるためであった。

さらに、藤原氏は、騎馬民族蔑視の漢訳仏教を利用し、騎馬民族末裔の蘇我氏・秦氏に『旃陀羅(せんだら)』や『(えた)』などの差別語を与えて、排除した。それに加えて、らい病者の世話を彼らが住む『』に押し付けた。『旃陀羅』の語源となったカースト制は、釈迦が激しく非難していたものであり、本来の仏教とは真逆の存在と言うべきである。
古事記より古い書物がどうして残っていないの?
天武天皇の謎を解く
大法廷:日本書紀捏造事件の大岡裁き
「聖徳太子はいなかった?」 / 書き換わる聖徳太子像(東京新聞)
日本書紀の神話は藤原不比等が創作捏造したもの・・・
『日本書紀』が捏造だと分かると歴史も変わるのだな
秦氏と藤原氏

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帆人85 差別されていた武士が血族身分差別体制を作った

f7150e55.jpg 初期の天皇家や兵士達は、人の霊(ひ)を絶つ仕事に従事しながらも、「ケガレ・ハライ」の宗教儀式によって霊(ひ)絶ち=殺生の汚れを流すことができた。
 しかしながら、この古代天皇制の下での公地公民制度が崩れ、荘園を支配する武士階級(私兵集団:私的暴力団)が生まれ、皇族・貴族の支配体制を脅かすようになると、彼らは皇族・貴族階級から忌避されるだけでなく、差別される存在となっていく。
 代々、人の霊(ひ)を絶つ武装私兵であった武士達は、皇族・貴族の内部抗争に利用されながらも、古代からの「霊(ひ)信仰」と仏教の「殺生戒」の2重の宗教思想により差別され、支配中枢部の外に置かれていた。
 本来なら、彼らもまた「ケガレ・ハライ」の儀式によって霊(ひ)絶ち=殺生の汚れを流すことができたはずなのであるが、皇族・貴族の血族支配体制の外に武士階級を置くために、武士達は忌避され、差別された。新興武士階級を崩壊しつつある天皇制血族支配体制に入れないために、血族差別が生まれた、と私は考えている。
現代に続く差別の特徴は、単なる職業差別や社会集団差別などではなく、血族差別であるところにその特徴があり、民族差別と似ている。今も、結婚差別の解消が重要な課題なのである。
 そのルーツは、武士の登場に対して、没落する天皇支配体制が反動的に新たな血族支配原理を持ち出したところにあると私は考えている。
 この血族支配思想は、次の武士階級に受け継がれていった。
 「霊留(ひと)殺し」を職業する血族集団である武士達は、天皇支配体制の下で差別されながらも、新たな支配階級に躍り出ると、人々の武士に対する忌避・差別意識をそらせるために、「霊(ひ)」に関わる他の社会集団を対象に、新たな身分差別体制=血族差別体制を作りあげた。身代わりの差別体制である。
武士達は自らが差別に苦しんできたがゆえに、巧妙に、新たな差別支配体制の構築ができた。それは、人々の間にある「霊(ひ)信仰」と仏教の「殺生戒」を利用し、自らが受けてきた血族差別と結び付けたものであり、インドのカースト制度を参考にしたものと思われる。
 そこで、思想的に大きな役割を果たしたのは、武士階級出身の仏教僧であったと考えられる。自らは出家して殺生世界から離れたものの、出自は差別されてきた武士階級出身者であった彼らは、差別―被差別の人々の心理構造を見抜き、インドのカースト制度に習い、「霊(ひ)」に関わる特定の職業従事者を身分として固定し、人々の差別感情を彼らに転嫁した、と私は考えている。
 皇族・貴族階級や他の人民から差別され、恐れられていた武士が力を付け、支配階級に成り上がっていく過程で、霊(ひ)信仰に関わる犬神人や猿回し、能役者や歌舞伎役者、皮革業従事者などを差別の身代わり対象としていく、という巧妙な転嫁が行われた、と私は考えている。
 これは、士農工商という身分制度の確立とワンセットになった、中国などには見られない血族身分制度であった。支配階級となった武士は、天皇制にならって、他の被支配者との結婚を禁止したのである。この血族身分で差別された農工商の人たちは、さらに「」「」を差別していく。天皇を頂点とした血族身分制度の確立である。
 しかしながら、天皇家が皇族外から妻を迎えたように、この血族身分差別は崩れてきている。
 ところが、格差社会の拡大に伴い、認められ、尊敬されることの少ない人々の中には、誰かを差別しすることによってしか存在感と自己満足をえられない多くの「アイデンティティ難民」(半沢英一著『雲の先の修羅 「坂の上の雲」批判』)が生まれてきている。弱い少数者が、そのターゲットにされる。差別や朝鮮人差別が無くならないのは、この差別する側の拡大要因があるからである。
 それを変えるためには、天皇制と武家支配による血族身分差別体制についてのきちんとした歴史認識が必要と考える。

 以上、論証が不十分な点も多いが、播磨国風土記で「恵多」に出会ったことをきっかけに、「恵多」「霊人()」差別論を展開してきた。必要な視点は、イデオロギーを離れて「古事記」「播磨国風土記」をきちんと読み、太陽教の空想から離れて、古代人の宗教をきちんと分析することである.
 差別されていた武士が、血族身分制度を作り上げ、とりわけ底辺の「恵多」「霊人()」を差別するように仕向けた、という差別転嫁構造は、現代にも続く差別の根源であると私は考えている。

 ザ・ブルーハーツは『TRAIN TRAIN』で「弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く」と歌っている。「弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く」構造を変え、「栄光に向かって走る あの列車に乗って行こう」ではないか。

参考資料 日向勤著『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院)
参考ブログ 霊の国:スサノオ・大国主命の研究(http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/)
霊(ひ)の国の古事記論(http://hinakoku.blog100.fc2.com/)
神話探偵団(http://blog.goo.ne.jp/konanhina)
邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
 

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どんなに苦しくても、世の中が真実で満ちていれば、それでいい。

どんなに辛くとも、信じるに足る社会であれば、人々は生きていける。

しかし、今の日本は何だ・・・

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【関連記事】
12.9 国会前/世川行介氏が小沢支援呼びかけ!! ~ 街カフェTV・藤島利久
http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/259.html

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原発問題が無かったら、大ニュースだけどね・・・ 日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、

2011年05月06日 | 歴史

<script src="http://jss.afpbb.com/sdata/newsdelivery/blogzine/js/utf8/7175000/237e32f8b4ba7a5c3eab41df6a38184d.js" type="text/javascript"></script>

久しぶりに歴史の話題をブログUPする。私は長宗我部ファンクラブ会員なので・・・ 

紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、土佐の在地豪族・長宗我部氏(蘇我氏の子孫、秦河勝の後裔とする説がある。)が中国秦王朝の始皇帝の子孫と称したことを裏付ける資料だ。

始皇帝は秦朝の皇帝で姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。秦王として紀元前246年に即位し、前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した。

原発問題が無かったら、大ニュースだけどね・・・

******

【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来することが、進化遺伝学の観点から明らかになったとする論文が、4日の学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に発表された。

 日本語は、世界の主要言語の中では唯一、起源をめぐって現在も激しい議論が戦わされている。

 主要な説は2つある。1つ目は、定住が始まった3万年~1万2000年前の石器時代文化に直接由来しているというもの。この時代は原始的な農業も一部で行われていたが、主に狩猟採集生活が営まれていた。アジア大陸からは紀元前200年ごろに人の流入があり、金属製の道具やコメ、農業技術がもたらされたが、言語発達にはほとんど影響を及ぼさなかったというのがこの説の主張だ。

 もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。

■方言の共通祖先の年代は?

 さらなる証拠を求めて、東京大学(University of Tokyo)の長谷川寿一(Toshikazu Hasegawa)教授とリー・ショーン(Sean Lee)氏は、数十の方言の年代をさかのぼり、共通祖先を見つけようと試みた。

 この手法はもともと進化生物学において、化石から採取したDNA断片から系統樹を作成し、数百万年前の祖先までさかのぼる目的で開発されたもの。リー氏によると、言語に適用することには異論もあるが、これまでの実験結果などから、言語には遺伝子のような特性があり、代々の継承を通じて進化することが推定されるという。

 2人は、体の部位、基本動詞、数字、代名詞などの主な210単語について、59方言でリストを作成。数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出すのと同じ要領で、他の方言に影響されていない「変化耐性」を持つと思われる単語を選び出し、コンピューターでモデル化した。

 すると、これらの単語はすべて約2182年前の共通祖先に行き当たった。この年代は、朝鮮半島から大量の渡来人が来た時代に当たる。

 リー氏は、農民の流入が始まった時期はこの時期より少し前の可能性があると指摘しつつ、「日本に流入した最初の農民たちが、日本人と日本語の起源に深い影響を及ぼした」と結論付けている。(c)AFP/Marlowe Hood

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ほほう・・・ ピラミッドに副室ねぇ

2011年01月29日 | 歴史

クフ王のピラミッドに2つの副室か、仏建築家

<script src="http://jss.afpbb.com/sdata/newsdelivery/blogzine/js/utf8/6741000/5c15a2d156f829264d78e48d9f31d673.js" type="text/javascript"></script>

【1月28日 AFP】フランスの建築家ジャン・ピエール・ウーダン(Jean-Pierre Houdin)氏は27日、エジプト・ギザ(Giza)にあるクフ王(Khufu)の大ピラミッドには、死後に使う調度品を納めた2つの隠し部屋がある可能性があると述べた。

 ウーダン氏は同日の記者会見で、3Dシミュレーションと米国のエジプト学者ボブ・ブライヤー(Bob Brier)氏が集めたデータから、ピラミッド中心部に2つの隠し部屋があると指摘。部屋にはクフ王が死後使うための調度品が納められていたという。同氏は「(クフ王の)ピラミッドに副室があると確信している。ぜひそれらを見つけたい」と述べた。

 同氏はクフ王の父スネフル(Snefru)王のピラミッドに副室があることも根拠としてあげ、同じデザインがクフ王のプラミッドにも引き継がれた可能性を指摘している。また、クフ王のひつぎが納められた部屋の北側の壁のブロックは、副室につながる通路が隠されていることを示しているとしている。

 ウーダン氏は2007年3月、クフ王のピラミッドが外部に設置された坂道を使って建造されたとするそれまでの定説を覆し、内部の坂道を使ってつくられたとする説を提唱した。同氏は3年前、エジプト政府にピラミッドの建造方法についての調査実施を申し入れたが却下されている。(c)AFP

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― 3/3高知白バイ事件・鎮魂ウォーク ― 

3月3日/12:30 高知県庁・市役所前

http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/638.html


上岡八幡宮の鳩、金星、信仰 - 2011/01/12(Wed)

2011年01月16日 | 歴史

http://www.himawarimilk.co.jp/clip/clip.cgi

ひまわり太郎さんの気になる記事(転載)

2011年1月12日(水)快晴!

今朝も冷え込む高知県地方。昨日の夜、汽車に乗って帰ってきました。
こじゃんと冷え込む中の、いつもの上岡八幡宮。夜明け前の八幡様は静かで、幽玄。まだ暗い参道を通り、石段を上りよりますと、拝殿の界隈からバタバタバタバタ、という大きな音がして、心臓止まるかと思いました。暗い森の中に浮かび上がる社殿から、突然の大きな音ですきに。
よく見てみますと、拝殿前に1羽の鳩が。飛び上がろうとして、拝殿の庇(ひさし)につかえて飛び上がれず、また拝殿の前にたたずむ、という作業を繰り返しゆうにかありません。拝殿前の鳥。これは何か、特別な意味がありそうな気がします。思い出すのは2009年5月25日。にっこりバックナンバーをご覧下さい。五台山の星神社で、拝殿前にてお参りをしょうとしゆうひまわり太郎の目の前に、1羽の立派な鶏が駆けてきて「コッケコッコー!」と鬨の声をあげた、というお話。今朝の鳩も、ひまわり太郎がお参りしゆう間はジッとしてたたずみよりました。不思議な朝。
その拝殿から石段を下ると、正面の木々の間に金星が煌めきよりました。参道をまっすぐ行った方向。
そう言えば、星神社はもともと妙見信仰の神仏習合のお社。北極星、北斗七星信仰ですね。で、一昨日書きましたが、大将軍神社は金星の精とも言われます。かつてニッポンでは、大自然に対する畏敬の念が強く、星にも特別の思い入れがありました。それが、仏教、道教などと一緒になり、いろんな考え方の混ざった混沌とした信仰が日本中に広まっちょったのでありました。
ひまわり太郎通勤路界隈に匂いのする熊野信仰も、そんな、色んな宗教が綯い交ぜになり、自然信仰アニミズムと結びついて修験道となり、広まったものですよね。明治になって、修験道が排除され、国家神道に集約していく政策が採られましたが、やっぱし日本人の心に染みついちゅうのは、そんな混沌の宗教観ながやないろうかと思います。

長岡台地の大将軍社さんから眺める - 2011/01/10(Mon)   

2011年1月10日(月)良いお天気

風は冷たいですけんど、良いお天気。今日もお昼過ぎに南国工場を出発して、ちくとたつくりました。と、申しましても、昨日のRUNが膝と足の裏にきまして、足裏の大きな水ぶくれが今にも破れそうなので、自転車です。
空港方面に南下した後、直線の道路を一気に北上。今日は強烈な北風ビュービューですきに、これがなかなかキツイ。踏んだち踏んだち進みませんな。そして、香長平野が一段高うなる長岡台地の裾で左折、舟入川沿いに進みますと、右手に大将軍神社が見えてきました。
長岡台地は、太古にできた物部川の河岸段丘でしょうか。かなりはっきりと段差になっちょりますよね。で、藩政期初期、野中兼山さんは、その段差の下の裾に舟入川を開削しちょります。
台地の裾の道から、舟入川を橋で渡り、石段を登ったところがここ。一の鳥居からは、広大な香長平野が見渡せるのであります。左手に、二階建ての家の屋根の部分が見えます。この段差は、そっれっぱああるということです。かなりはっきりくっきりした段差で、これは後免界隈で消滅しちょりますね。
大将軍社は、江戸時代にも全国的にどっしこできたそうで、それこそ一村に一社くらいあったそうですきに、お稲荷さんには及びませんがなかなかのもの。いつもの通勤途上、大そねの南にも鎮座ましましちょります。
大将軍信仰は、奈良時代に入って来た信仰で、方位を司る神様とのこと。なんでも、大将軍様の居られる方向を侵すと、大変な災厄に遭うとされちゅうそうで、現代でも公共工事の着工を巡って地元の大将軍神社氏子さんたちとの争議がおこったりしますきに、たいちゃなもんです。
今日はここから長岡農協方面を通り、北西からの逆風を心地よく受けながら帰って来ました。足裏の水ぶくれは大丈夫やったです。

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金神(こんじん)とは方位神の1つである。

金神の在する方位に対してはあらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。この方位を犯すと家族7人に死が及び、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される(これを七殺(ななさつ)という)と言われて恐れられた。

金神の中でも、「うしとらの金神」は「久遠国」という夜叉国の王である巨旦大王の精魂とされる。巨旦大王の眷属の精魂も(普通の)金神と呼ばれる凶神となっている。

またその精魂の抜けた屍は牛頭天王によって5つに引き裂かれ、五節句に合わせて祭った(巨旦調伏の祭礼)。

すなわち、

1月1日----紅白の鏡餅(巨旦の骨肉)
3月3日----蓬の草餅(巨旦の皮膚)
5月5日----菖蒲のちまき(巨旦の髭と髪)
7月7日----小麦の素麺(巨旦の筋)
9月9日----黄菊の酒(巨旦の血)
である。

金神と宗教
金神は人々に大変恐れられており、江戸時代の末には岡山県地方では、「金神封じ」と称して祈祷を行う修験者もいたり、「出雲屋敷」と称して出雲の神々に家を供え、金神から守ってもらおうとした家も多数あったが、信仰した者も多い。

確実に記録に残っているのは、現在の倉敷市船穂町の「堅磐谷の元金神」(通称「堅磐谷の婆さん」)と呼ばれた小野うたである。彼女は8人の子供の内7人まで亡くし、最後に残った娘・小野はるも盲目になり、今の倉敷市連島町の文十郎が金神を拝んでいると聞き、参詣し、金神信仰に入った。金神を祈祷して金神に抗議したところ、逆に金神が降臨し、その口を通じて金神が話をしたことから、信仰が始まったとされる。その後、祭典日には100人以上の参拝があり、門前に菓子屋などが建った。このように、「何々金神」と呼ばれる信仰者が多数生まれた。

その中でも、金神の祟りで幾度も転居を余儀なくされた香取繁右衛門(亀山の金神)と、その実兄であり金神七殺の祟りで家族を何人も失い自らも瀕死の大病になった川手文治郎(後に赤沢文治そして金光大神、大谷の金神)は、金神の啓示と自らの体験、例えば土地の主人である金神の留守を狙うような事をする人間に金神が祟るのは当たり前で、金神が巡って塞がりの土地は逆に金神に許しを得て使わせていただければよく、金神は昔から有る神であり、神として立て仰ぐ人間を待っていたと説き、それぞれ信仰すれば逆にすばらしい加護があったなどという信仰体験から金神信仰を一般化、体系化し、宗教化することにより、繁右衛門は香取金光教を、そして文治は金光教を啓いた。

また明治初頭、京都の出口なおは神懸かりの時、最も恐ろしいと言われる艮の金神の突然の降臨とその自動書記等の啓示により、金神こそがこの世の根本の神であり、信仰すれば大きな恩恵が与えられると伝え、最初は金光教の傘下で活動したが、後に出口王仁三郎と共に大本教を興した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%A5%9E」より作成

頗梨采女(はりさいじょ、はりさいにょ)とは牛頭天王の后とされる神。

概要

波利采女、波利賽女とも表記。名前の由来は梵語のハリ(水晶の意)に求める説がある。牛頭天王は祇園精舎の守護神ともされる仏教由来の神で、日本では行疫神(疫病を流行らせる神)として畏怖されるとともに神道の素戔嗚尊と習合し、明治期の神仏分離令まで祇園社(八坂神社)の祭神として祀られ、篤い尊崇を受けた神であるが、頗梨采女はその牛頭天王の后であることから、素戔嗚尊の后である奇稲田姫とも同一視された。

八大竜王の1柱で、娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の娘であり、また八王子神(八将神)の母であるともされている。『簠簋内伝』(ほきないでん)では「歳徳頗梨采女也、八将神母也、容顔美麗忍辱慈之躰也」として方位神の歳徳神と同一視される(ただし異論もある)。『祇園牛頭天王縁起』では南海の沙竭羅竜宮城に住み、金毘羅女、婦命女の2人の姉がおり、竜王の第3女とされている。

もともと頗梨采女は、祇園社の本殿西御座に祀られていたが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られている。

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