リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

どんなに苦しくても世の中が真実で満ちていればそれでいい  
どんなに辛くとも信じるに足る社会であれば人々は生きて行ける

エタ(穢多)は外来語だ。。。被差別部落問題の解決には歴史的原因究明=真実が必要だと考えている。

2012年08月04日 | 差別問題

             次の選挙の争点は「脱原発!」だ。

  Photo_4

            当ブログの情報は、ご自由にお使いください。。。拡散希望です。

人気ブログランキングへ ⇒街カフェTVでは、脱原発や冤罪事件の解決に取り組んでいます。ブログランキングが上がると発信力がUPします。1日1ポチ応援よろしく。

 

             ↓ 街カフェTV 生中継&録画 ↓<script src="http://twitcasting.tv/kochi53/embed/live-480-0" type="text/javascript"></script>

 

*生中継画面が見えないときは、右クリックで「最新の情報に更新」を ・・・

街カフェTVの録画一覧はこちら  ⇒  http://twitcasting.tv/kochi53/show/ 

コメント入力で街カフェTVにライブ参加 ⇒ http://twitcasting.tv/kochi53 

 

*** 本文 ***

アイフォンを無くして街カフェTV生中継が出来ない状況が続いているが、まもなく復旧する見通しが立った。。。今日は、人と話していて被差別問題に触れた。以前から解決に取り組みたいと公言している大きな課題の一つだ。

時代が変わろうとしている今、政治的課題を挙げる必要があるのは、増税・原発・TPP・米軍問題などだけではない。。。日本が解決しなければならない大きな課題のひとつが「被差別」の問題だ。

勉強を重ねてスムーズな解決に導きたいと常々考えている。

今日は、以前のブログ記事を書き直して再UPしてみた。

被差別問題の解決には歴史的考察(真実追求)が大切だ。。。なぜ?差別されるのか?それを知らずして解決策は見つからない。

。。。 。。。 

1.エタの起源は 「その他諸々の職業」を指す外来語 「エーテル」である

エタは外来語だと考えている。

は、穢れが多いと書いてエタと読ませるが中世には別の漢字が使われていた(下段に詳述する)。起源を正確に探さなければ真実は見えてこない。

エタはエーテルだ。。。

古代ギリシアの学者アリストテレス(前384年 - 前322年)が提唱した「天上の空気」を表す言葉「エーテル」が、ヨーロッパで弾圧されて東洋に逃れた景教(ネストリウス派キリスト教)と共に日本に伝わった。。。渡来人らによって『その他諸々の職業』を指す言葉として使われ、外来語化していたのだが、時間が経って由来が解らなくなった。

。。。と私は考えている。

『そんなはずはない』と笑う人たちが結構いる。しかし、明確な反論を持っている人はいない。みんな真実を知らずに『理由無き差別』などと表現する。。。そうした姿勢を、私は非常に無責任だと感じる。

そもそも「」というのは仏教の概念だ。仏教は外来の宗教である。。。ならば、「エタ()」の概念や音が海外から伝わったと考えない方が私には奇異に思えるのだ。

違うだろうか?

差別の根源はいつの世も貧富の差と民族意識だ。

我々は真実を知らなければならない。。。

。。。 。。。

古代より世界人類の交流範囲は驚くほど広い。世界の中の日本を常に念頭に置かなくては社会問題は解けない。初期仏教がインドからギリシャ方面に広がって偶像礼拝を受け容れ大きく発展し、その頃ポピュラーだったゾロアスター教や景教(ネストリウス派キリスト教)と共にソグド人などの隊商によって広くユーラシア大陸に拡散されたことを知らなければならない。

日本は各時代毎に中国に使者を送って文化・知識の吸収に努めた。中国に伝わった宗教は日本にも伝わっていると考える方が自然である。日本に景教(ネストリウス派キリスト教)が伝わっていないと言う方が暴論であろう。チンギス・カンの家系など多くの騎馬民族が景教を信仰したことからしても、アジアの隅々まで広がった古代キリスト教思想が日本に伝わっていたと考えなければならない。

そもそも、昭和の同和教育で「士・農・工・商・・」と上下身分関係を教えたことは全面的に間違いであった。江戸時代の身分制度は未解明な部分が多く、農工商という概念は極一部の学者らが理解していたに過ぎず、一般には百姓・町人という職業区分しかなかった。これは身分ではない。

は主として「手下(てか)」という刑罰に処された者達のことであり、エタは古来から「」(官吏の長)と呼ばれていた。これらも身分ではなく職業区分であったが、江戸時代初期に幕府による牽強付会で「」の文字が当てられた。しかしながら、関東では八州を支配した頭弾左衛門が「」の呼び名を嫌ったことから定着せず、「」の呼称で通された。関西においては「」という呼び名が流布されたが、エッタ・エッタボシや「かわた*」など様々な呼称があり、整理が必要である。

*「かわた」の初見は永享2年(1430年)11月11日付けの土佐国香美郡の「下人売券」とされる。同文章では端裏書に「かわた四郎」と記されている。

そもそも「」や「」という概念は、古来中国から伝わった。また、空海が中国でペルシャ人司祭阿羅本が伝えた景教に接していること、ギリシャ方面で栄えた偶像仏教が日本に伝わった史実などを総合すれば、世界中で人口に膾炙されたアリストテレスの「エーテル」にまつわる学問が、渡来僧などによって日本にもたらされていたことを疑う余地は無い。みんな早晩気付くだろうが・・・

======

日葡辞書と運歩色葉集の調査から解ったこと

日葡辞書(にっぽじしょ)は1603-1604年に長崎で発行されたキリシタン版の一種

Nippo_3

(写真は以前にウィキペディアから引用)

①エタについて「Yetta=chori ;他の人々が認める頭、または、長」と記されている。また、エタの読みについては「Yeta→Yetta の条を見よ」 とあることから、当時「エッタ」とつまる音であったことが理解できる。 

運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)(京都国会図書館蔵書)は、1547年頃記された国語辞書である。 「エッタ」と「エド」について調べた。

Unpo1

Unpo3

②高知県学芸員(古文書解読の専門家)に確認したところ、この「エッタ」は、偏が「示(しめす)」で、部首は「口」と「鉞(まさかり)である(以下「示+口+鉞」と記載する)。

その直後にある「穢土 エド」では、「のぎへん 禾」と「山」が明確に楷書で記されている。「鉞」部分には「同上」を示す「点々」が用いられている。

この比較から、運歩色葉集の編者が、これら2文字を「鉞」以外が異なる別の文字と認識していることが解る。

Hikaku

これらが同じ文字ならこうは書かない。つまり、1547年頃記された国語辞書・運歩色葉集には、1644年以降に江戸幕府の公文書に現れ今に伝わる「」とは異なる字体でエッタが記されていたのである。

④上記「示+口+鉞」を解字すれば、「示」は神への供物を置いた台(祭壇)のこと、「口」は神に捧げる祝詞を入れる器で、「鉞」(まさかり)は刃物で戈(か)る意味がある。

とすれば「示+口+鉞」(エッタ)は

「祝詞を唱えつつ神に捧げる供物を刃物で戈り取る者」

を表した会意文字と推察される。

⑤以上からして、この「示+口+鉞」(エッタ)は、江戸初期に失われた文字と考えられるから、水戸光圀の「圀」に代表される則天文字やベトナムのチュノムなどであるかも知れない(更に研究を進めたい)。運歩色葉集を作成した人物は全てを理解していたのであろうが・・・ 

⑥ともあれ、④の知識をもってすれば、中世において混同された「恵止利」と「餌取」を上手く説明できる。すなわち、「示+口+鉞」(エッタ)から、

「恵止利」は、

「恵みを止めて利用する者(祝詞を唱えつつ神に捧げる供物を刃物で戈り取る者)」

と理解でき、「恵止利」が、「餌取り」(古代の兵部省主鷹司に所属して鷹狩に使う鷹の餌を供給・調達した官職の者で、被差別民ではない。)をも包括する言葉(カテゴリー分類語)であったことが理解出来る。この発見は重要であった。

⑦整理すれば、恵止利(恵みを止めて利用するもの)には、武将が鷹狩で使用する猛禽類に餌の肉塊を捧げた官吏である「餌取」と、神に生贄として捧げる獲物を戈った「エッタ」という者ら(宗徒)がいたと解されるのである。つまり「恵止利=餌取(武力集団の官吏)+エッタ(寺社に隷属する宗徒)」である。

======

Unpo4

~ さて、一息つきたいところだが、「示+口+鉞」(エッタ)には、注釈に「屠隠」と「完」が書き添えられている。当時の人はこれで意味が解ったのだろうが、現在では懸命に解読しなければならない。 ~

⑧先ず「屠隠」から見てゆく

 本来の字義は「屠る(ほふる)-隠れる」で、「屠-隠」と赤線が入っていることから「トカクレ又はトガクレ」と続けて読んだことが解る。とすれば、江戸時代中期(1716年ごろ)「葉隠」「葉可久礼」(ハガクレ又はハカクレ)と書き直された「武士」のことであろう。

ここで、日葡辞書をめくれば、Saburai(サブライ)は「貴人、または尊敬すべき人」と、Buxi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ「武人」「軍人」を意味するポルトガル語の訳語が与えられている。そもそも武士とは「人殺し集団」以外の何者でもなく、時代を遡れば中世の公家から「屠児(とに)」と蔑まれ賤視の対象であった。

⑨「完」について

完には『此れをもって完結する(全体が完成する)』意味がある。つまりエッタの設定によって↓ 全ての職の概念が完結するのである。

全ての職業=よくある職業+完(その他諸々の職業)

Photo 左の図でオレンジ色に表した部分が「エッタ」である。

 

これは、古代ギリシャの学者アリストテレスの考えた「エーテル」の概念が神学に取り入れられてスコラ学に継承され、キリスト教宣教師らによって日本に伝わり、神学や社会学(ヒエラルキー形成)に導入されたものであろう。

左下の図で、アリストテレスの唱えた「エーテル」は点線部分を埋め尽くす物質(光の媒体)である。327pxaetherwindsvg1_2

詳しくは、エーテルの記事を参照されたい。エーテルとは「認識外のもの=人間界で理解できない神の領域のもの」という意味がある。

因みに エタノールの主成分であるジエチルエーテルが発見されたとき*1 その高い揮発性から「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている(天上の物質)と解釈され 「エーテル」と命名されたエタール*2

 

以上を総合すれば 

エッタとは、魑魅魍魎が悪さを働くと恐れられていた時代、供物(生贄)を捧げつつ武力的効力を発揮する祈りの仕事に従事した者らのこと。つまり、悪霊を退治する為に生贄を捧げる神官・僧侶を指す言葉と理解出来る。

すなわち、神に使える者(僧侶・神官)らのなかで、屠児(武人)の如く、武力的役を果たす「僧兵」「修験者」「陰陽師」を含み、その他諸々の職業を指す言葉がエッタであり、こうした者らは、江戸時代において幕府(将軍)の統治下になく、祈り(天皇)の統治下にあった。

結局、エッタは、税金を幕府に納めなかったから、徐々に賎視が強められたと解されるのである。

======

*1 歯科医師であるウィリアム・クラークは1842年1月、1540年に発見されていた硫酸エーテル(ジエチルエーテル)の抽出を行った(麻酔) 

*2 ラテン語で  「et al」 または「et alia」を エタールと発音する 意味は「およびその他の物」である

以上、資料解析から興味深い進展を見た。更に詳しく調べ、各方面と意見交換してみたい。高知にも多く伝わる「太刀踊り」などの神事を彷彿させるイメージにも繋がる(殺生の代わりに歌舞音曲として形象化したと考えることが正答か?) いずれも今後の課題としたい。

(参照)

(神学)エーテル - ギリシア語で「上層の空気」を意味する。アリストテレスの「第五元素」アイテールが。 スコラ学に受け継がれ、中世のキリスト教的宇宙観においても、天界を構成する物質とされた。語源はギリシア語αιθήρがラテン語Aetherを経由して英語Etherになった。物理学におけるエーテル、化学におけるエーテルの語源となった。

(物理)エーテル - 天空を満たす物質を表した。原義は「燃やす」または「輝く」である。主に19世紀以前の物理学で、光が伝播するための媒質を表す術語であった。地球は光を伝える「媒質」であるエーテルの中を運動していると考えられていた。イーサー(Ether、Aether)ともいう。

(化学) エーテル - R-O-R'で表される有機化合物。溶媒のジエチルエーテルも、単に「エーテル」と呼ばれる。 ジエチルエーテルが発見された際に、その高い揮発性を「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている」と解釈されたことからその名が付けられた。

*「部落史研究会」代表 和田 勉

弘安年間(1278) 「塵袋」の記載 「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バゾ」とあり、「根本ハ餌取ト云フベキ歟、餌ト云フハ、シヽムラ(肉叢)鷹等ノ餌ヲ云フナルベシ、其ヲトル物ト云フ也」 

餌取とは、古代の兵部省主鷹司に所属していた官職の者で、鷹の餌を供給・調達しているが、被差別身分の人ではない。

餌取は、被差別身分を著す賤称語でなく 江戸時代にも「餌取」は存在していた。桑名藩の職員録といえる「分限帳」に武士身分として鷹匠の組の中に記されている。また、紀州藩松坂でも、寛文12年(1672)御鳥見4人、御餌指6人の武士があった。

これらの誤りを糺したのは、昭和24年に「部落史論考」を発表した塩谷孝太郎であった。「エトリ」は、「餌取」でなく、「穢取」で「ケガレ」を取り祓った官人の「キヨメ」であったと誤りを縷々糺した。

Unpo2

*** 以上 ***

 

 

    CNM/市民メディアネットワークのロゴ (作者:濱月氏)

Cnm_3

 

【陸山会事件解決に向けて水谷建設内部の犯罪を告発】

<script src="http://twitcasting.tv/kochi53/embed/5416226-480" type="text/javascript"></script>

 

 

人気ブログランキングへ ⇒街カフェTVでは、脱原発や冤罪事件の解決に取り組んでいます。ブログランキングが上がると発信力がUPします。1日1ポチ応援よろしく。

街カフェTVの活動は国民の皆様からの寄付と善意で賄われております。ご提供頂いた資金は、脱原発・小沢陸山会事件・高知白バイ事件(冤罪事件)解決など、街カフェTVの取材・制作費に使用致します。ご支援ヨロシクお願い致します。

 

【取材等、ご協力者連絡先】 藤島利久のメール kochi53@triton.ocn.ne.jp 

≪カンパ受付≫

【郵便局】 当座 一六九店 75499  「真実の基金」

  *郵便局ATMからは⇒ 記号番号:016605-75499 「真実の基金」

【四国銀行】 県庁支店 普通口座 0441092 シンジツノキキン

 

ブログ先頭へ⇒ http://kochi53.blog.ocn.ne.jp/blog/

 


針の上で天使は何人踊れるか

2010年08月14日 | 差別問題

関連記事

差別と弾圧 歴史を知ることの重要性

(ちょうり) 学び直すべき差別の根源

エタは ではなく 神に供物を捧げて祈る者たちのこと

******

ルネッサンス期の知識人が議論していたという、ウィキペディアにある「針の上で天使は何人踊れるか」という問いは面白い。これをもって単純に『昔の人は蒙昧だ。』とすれば現代人の底が知れる。昔の人は賢い。

読めば、中世の天使論、特にスコラ学全般の考え方が良く解る。ウィルスも原子も判明していない世の中で、神の存在を大前提として考えを発展させれば、必然としてこうなるのだ。

この問いの解答は、「ピンの先には無限の天使がのることができる。なぜなら、天使はいかなる空間も占有しないから」というものになる。つまり、中世の賢人は、神学・数学・形而上学・自然科学・物理などの複数の学問を一緒に議論しているのだ。

現代の学問区分からすれば無茶苦茶だが・・・

私たちの住む現代社会は、紛れもなく、こうした混沌とした議論の延長戦上に創られている。否応なしに・・・少なからず・・・いや、多大な影響が残っている。今の社会で解らないことは、この中世ヨーロッパの議論の中に答えを見つけられるだろう。

例えば、被差別問題(起源説=外来語が社会学(階級社会の維持)に応用されたのだが、忘れられ差別用語になっている)がそうだろう・・・

人気ブログランキングへ ←お忘れなく・・1日1ポチよろしく !   カフェ管理者にメール

(備忘録)ソラマメ中毒の要因遺伝子を保有する人の分布を調べると、いろいろなことが解りそうだ。

ソラマメ中毒(ソラマメちゅうどく)とは、ソラマメに含まれる毒性物質によって起こる食中毒である。ソラマメの種実には配糖体の形をとったバイシン (vicine) およびコンバイシンが含まれ、これが腸内細菌のβ-グルコシダーゼの作用で加水分解して生じたダンバイシン、およびイソウラシルが原因物質となる。ラテン語でソラマメを意味する "faba" (故に学名はVicia fabaと命名されている)を語源としたイタリア語 "fava" にちなみ、ファビズム (favism) あるいは英語読みでフェービズムと呼ばれる。

ソラマメを食べた後にグルコース-6-リン酸デヒドロゲナーゼ活性、および血球グルタチオン濃度が低下し、また血液の溶血性が高くなる。これにより発熱、血尿、黄疸が起こり、急性溶血性貧血によって死に至る場合もある。文献によってはソラマメの花粉を吸っても危険だとするものもある。

地中海沿岸各地、北アフリカ、中央アジア各地などではよくみられる疾患であるが日本などではあまり報告がない。これは以下の理由によるとされる。

ひとつは発症が多く見られる地域でソラマメは準主食的な地位で、日常生活で多食されている。

さらにこの発症には遺伝的素因がかかわっており、イタリアなど地中海地域周辺に出自する男性に固有な遺伝子に起因する遺伝病の要素があるともされる。すなわちX染色体上にある酵素のグルコース-6-リン酸デヒドロゲナーゼ遺伝子に発症にかかわる変異が存在するために起こるというのである。

第三に、地域により、栽培されている品種に含まれるバイシンなど原因物質の量が違うのではという指摘もある。

古代ギリシアのピュタゴラスが、自ら主宰する教団の掟としてソラマメの食用を禁じ、また政敵にソラマメ畑に追い詰められて中に逃げ込めずに殺害されたとする伝承が残っていることに関して、ソラマメを不吉なものとして忌避する呪術的思想に由来するとする解釈のほかに、このソラマメ中毒が背景にあるのではとする説も提唱されている。

また、中世ヨーロッパのテンプル騎士団では「有害な食品として禁じる」との食事規定があった。

人気ブログランキングへ ←お忘れなく・・1日1ポチよろしく !   カフェ管理者にメール

(の起源)

(備忘録・転載)

パルティア(古典ギリシア語:Παρθ?α, 古典ラテン語:Parthia, 紀元前247年頃 - 228年)とは、カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国である。ダーハ氏族の支流であるパルニ氏族を中心とした遊牧民の長、アルシャク(古典ギリシア語形:アルサケス)が建国した。

アルサケス朝(古典ギリシア語)、アルシャク朝(中世ペルシア語:????????, Ashkanian)とも呼ばれ、中国では張騫によって安息と音訳された。

サトラップは州の最高行政長官であり、王宮の者だけで周りを固め、徴税を担わせることで地方役人・従属部族・都市を支配した。加えて司法権をもち民事及び刑事の問題を裁いた(旧約聖書ネヘミヤ記3:7)。また治安維持の責任者であり交通網の確保と山賊及び反乱の鎮圧する義務を負っていた。

サトラップはペルシア人からなる議会によって支えられた。この議会には州民の参加も認められていた。しかし議会は王直属の書記官・王の密偵が強い影響力を持っていた。特に年一回の調査をし、恒久的な支配をもたらす王の目と呼ばれる監察官は重要な役割を果たしていた。

メディア王国(メディアおうこく、Μηδ?α, Media、紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、現在のイラン北西部を中心に広がっていたメディア人の王国である。首都はエクバタナで、アッシリアが紀元前612年頃崩壊し、その後影響力を拡大したエジプト、リュディア、新バビロニア(カルデア)とともに当時の大国となった。また、イラン高原北西部の地方名としても「メディア」という語が使われた。

アッシリアを滅ぼした後しばらくの間強勢を誇ったが、前550年頃属国だったアケメネス朝のキュロス2世によって滅ぼされた。

マゴイ族(マギ族) (Magi)
この部族は祭司階級であったと考えられ、血統によって地位を継承していた。当時はまだゾロアスター教は一般化していなかったが、彼らはインド・イラン系の神々を祀っていたと考えられる。この部族の名は、後のアケメネス朝ペルシア時代に祭司を意味する語(マグ)として残存しており、メディア人の宗教観が長くイラン高原に残ったことを示唆する。

******

人気ブログランキングへ ←お忘れなく・・1日1ポチよろしく !   カフェ管理者にメール

高知白バイ事件の記事集はこちら

高知白バイ事件支援ブログ「高知に未来はあるのか?」

UST配信の動画ブログで参院選の報告を行っています。http://www.ustream.tv/recorded/8235020

高知新聞が白バイ事件・県警1億円詐欺を報道しないことは、県民に対する裏切りだ!

街カフェTV番組の人気ベスト10はこちら!

人気記事

高知新聞社の犯した愚  自民新人・高野氏惜敗!

コーヒーブレイク ~ ゴッホから届いたメッセージ

高知新聞の報道姿勢に抗議する 裁判しかないだろう

追手前小廃校裁判 高知市長による虚偽公文書行使 高知新聞の異常報道

高知新聞による泡沫候補報道に見せかけた「白バイ事件隠し」 ~ 県民よ騙されるな!高知新聞は愚民政策で先頭を走っている。


差別と弾圧 歴史を知ることの重要性

2010年03月02日 | 差別問題

国は間違った歴史を教えて差別を助長させた

昭和の同和教育は間違っていた。意味不明の差別意識を国民に徹底させた。

今後の課題として 『真実の教育が必要』

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

======

江戸時代以前は、国民支配(課税徴収のしくみ)につき大小2つのピラミッドがあった。

将軍がトップの幕府=武力統治組織(左)天皇がトップの朝廷=祈りの統治組織(右)

Photo_2

古くは、悲田院など難病治療にあたった機関は朝廷の庇護の下に置かれた。国民の穢れを清める力を持つ人=「天皇」で、朝廷は祈りの機関(神社仏閣)などに課税徴収していた。

明治維新でリーダーである天皇を取り上げられ残された集団が被差別。

そもそも、江戸時代には、一般民衆はエタという言葉の意味を知らなかった。現在被差別と呼ばれる地域は、天皇(朝廷)の庇護下で皮革業や機織り器具の製造などの職業を独占して富み栄えていた。その上納金で朝廷が潤っていたのである。江戸初期、幕府が、それまで「」と呼ばれていた者を「エタ」と呼称し、「」と書くようにした原因は、多分に朝廷との軋轢問題がある。幕府は、徴税できない地域に住む者らを穢れ多いとし、その地域に移り住むこと及び通婚を禁止したのである。

明治維新の公武合体によって「幕府+朝廷」=政府が創られ、社会制度の大改革が行われた。中世より永らく継承された職能民の職業独占権が剥奪され(職業世襲制の終わり)、同時に、武士始め全ての国民に徴税義務が課せられた結果、多くの者が没落した。

政府は、没落士族の反発を押さえるため警察業務に当て、職を奪われた没落職能民の一部(武力グループ)を部下に付けて、その他の没落民や皇国天皇論反対者らを取り締まった。こうした流れのなかで、現代の被差別が形成されたのであり、多くは世襲制職能民の居住地であった。

明治維新で天皇が全ての国民の支配者となった時に、トップを失った小さいピラミッドに属していた民衆が、それまで天皇の庇護下で享受していた職業独占・非課税の特権双方を同時に失って没落した。当然、政府に反発するのであるが、その一部が没落士族と共に警察業務に使われ、自由民権運動の弾圧などに使役された結果、一般民衆との間に憎悪が積り、居住区別敵対関係が維持され、法外の通婚禁止など民間レベルでの差別意識が醸成されたと考えられる。

つまり、現代の被差別民は、古来よりの天皇の隷属民であったところ、社会構造の近代化に取り残されたと整理することが可能である。

参照:エタは ではなく 神に供物を捧げて祈る者たちのこと

被差別に対する深刻な差別は、明治以降強まったと言える。更に、間違った昭和の同和教育で迷走するようになったのである。

昭和の同和教育は間違っていた。江戸時代には士農工商・・という上下の身分制度はなかった。百姓・町人は武力統治下で武士に直接隷属した。はというリーダーの監視下におかれた職能民グループで、天皇と習合下の寺社を頂点とする祈りの統治下で税務(租庸調)を納めた。は刑務・集落堺の番人などに当てられた。

つまり、税制度上、武家政権に納税した百姓・町人と、公家政権に金品を上納したに分ければ理解し易い(地域差があることに注意されたい)。は「手下(ひににんてか)」という刑罰である。また、歌舞伎などの芸能民が身分(というよりの支配下)に置かれた。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

・⇔百姓・町人の違いは、納税義務があるかないかである。双方の交流は断絶されていた。百姓・町人はエタ村の内実を知ることは少なかったが、に統治されたは職業独占権によって富み栄えていた。真実の差別(現在も残るもの)は明治以降に発生したと言ってよい。

その一因として、自由民権運動や廃仏毀釈運動に増長した暴徒の鎮圧・弾圧に、新政府(警察組織の前進として道府県に置かれた第4課が、旧来の職業独占権を失った旧身分の者たちを傭兵として使役したことが考えられる。民衆の団結を恐れた政府が、意図的に民VS民での抗争を画策した。この軋轢が今日に色濃く残っている。

*指を4本立てて被差別民を卑下するしぐさは、第4課(警察の犬)の意味

警察に追われる者たちが、指を4本立てるしぐさで『サツの犬が来た。注意しろ。』と言う意味を伝えたものであったが、時を経て差別的に使われた。

現在の都道府県警察の前身である府県警察部は、府県庁の部局で1947年(昭和22年)まで存在した。1948年(昭和23年)に廃止となり、警察は国家地方警察と自治体警察に再編されることになった。

沿革

1875年(明治8年) 各府県庁に第四課(警察担当)を設置。

1880年(明治13年) 第四課を警察本署に改称。

1886年(明治19年) 警察本署を警察本部に改称。

1890年(明治23年) 警察本部を警察部に改称。

1893年(明治26年) 各府県警察部に衛生課を設置。

1905年(明治38年) 警察部を第四部に改称。

1907年(明治40年) 第四部を警察部に改称。

1912年(明治45年) 大阪府警察部に特別高等課(特別高等警察)を設置。(昭和3年までに全ての府県に設置)

1929年(昭和4年) 各府県警察部に健康保険課を設置。

③江戸時代の不定住民の多くは、明治以降整備された市街地に移り住んだ(土地や職業を持たないからである)。よって現在の被差別問題(居住区域的差別)では、早くにを出た者の子孫が其れを知らされずに差別する側に回っている状況がある。国の誤教育によって現代人は何故差別され或いは差別されているか、その本質さえ知らないのである。

④その他、明治以降も長らく淫し邪教扱いされたキリスト教など宗教弾圧と差別との関係が、昭和の誤教育には盛り込まれておらず、被差別民=江戸時代以前の・で、昔から貧しい・汚い・穢れているという画一的イメージを国民に定着させてしまった。多くの国民が差別を誤認している現状は、政府の教育失政の責任に負うところが大きい、正しく認識しなければ差別解消も無い。今後は新たな教育の確立が必要であろう。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

======

関連記事をいっぺんに見る

======


長吏(ちょうり) 学び直すべき差別の根源

2010年02月15日 | 差別問題

今日は、からへの呼称の変遷を整理しておく。冒頭、結論を前置すれば、とは似て非なる概念である。は地方長官職にあたる(現在の公務員の長に相当する)身分の呼称であるが、は「その他諸々の職業」を指す職業的分類語に過ぎない。日葡辞書などを引用した考察はこちら → エタは ではなく 神に供物を捧げて祈る者たちのこと

現在、被差別問題に解決の糸口が見えない原因は、明治以降の教育、特に昭和期の同和教育において正しい資料が提示されなかったことが大きい。今で言うところの『公務員制度』『税制』『移住制度』など、歴史上の国の仕組みの変遷が、国民全体に正確に理解されていない。正しい歴史認識を国民が共有できる教育が必須である。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

我国の中世においては、各地で形成された集落で、朝廷が認可する官吏(公務員)が『(ちょうり)』として自治の中心をなした。そこに税の賦課を逃れたい民が寄り集り、江戸時代になってあらゆる隙間産業の民が集められ定住化させられた。こうした集落が現在の被差別の原型と言える。

近世以前には公務体制が異なっていた。すなわち、幕府の権威下で米(給与)を受けとる武士と、朝廷の権威下で金品を受け取る公家と、双方から職業的独占権を認められたがいた。それぞれ現在の公務員であり、は裁判権を有していたことからして、治外法権地区の独立長官と言える。この仕組みは徐々に変化しながら継続されていたが明治維新で崩壊した。こうした地方自治体制の変遷が理解されていないことが、差別の根本的原因と考えて良いだろう。要するに、差別の原因=無知である。

======

そもそも(ちょうり)とは、中国の漢代において高い位の官吏(公務員)を指す言葉。日本に伝わり、中世には地方自治の役割を担っていた神仏習合下の寺社において、神主や僧侶に代わって政権との事務連絡を行う者らの中心人物をこう呼ぶようになった。大きな寺社を現代の省庁に例えるならばは「政務次官」であろう。

古くは加賀国の白山権現の、近江国の三井寺の長吏が有名である。は、寺の別当・座主(あるいは同格の地位に置かれた者)が務めたが、園城寺・勧修寺では別当より上位に置かれた。

古代に遡れば、俘囚の曲輪の中心人物がと呼ばれた。812年(弘仁3年)の勅に「衆の推服する所のもの一人を択び、置いて之が長となし、捉搦を加へしむべし」とある。捉搦(そくにゃく)=給与と解すれば良いだろう。これは要するに、現代で言うところの国家公務員の地域的管理職(地方長官)のことである。

鎌倉時代初期頃からの畿内の宿村の中心人物もまたと呼ばれた。白山権現や三井寺の長吏と同様、職能による命名である。天皇統治下の御陵番人・守戸夙=宿=四苦=志久などとする説がある。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

時代が下がって江戸時代になると、はやのリーダーを指す語となったが、後にはや全体を指すようになった。関東では、関西ではが一般的。これは関東八州を納め、絶大な権力を誇った頭・弾左衛門が『頭』という呼称を嫌ったからである。

1712年頃出版された辞典「和漢三才図絵」に「エタの為に郭(くるわ)あり。其の首魁をと為す。」とある。必ずしも全てがの支配下という訳ではなかったが、次のような職業の者が郭に住まわされた(以前のような諸国放浪は許されなくなった)。

座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目睡、、猿曳、弦差、石切、土師師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、獅子舞、傀儡師、傾城屋、釟扣、鏡内。
夙、、陰陽師、梓巫女、神事舞、田楽法師、猿楽、放下師、遊女、白拍子、傾城夜発、傀儡女、飯盛女、越後獅子、願人僧、俳優、浄瑠璃芝居、踊、観物師、舌耕、術者、弦売僧、高野聖、事触、偽造師、狙公、堂免、俑具師、刑殺人、青楼、肝煎、勧進比丘尼、犬神、男色、神結、伯楽、盲目、放免、浄瑠理語、妖曲歌、浮浪、行乞、乞食、伎丐、丐頭、難渋町、番太、熅房、、皮細工。

このように、江戸時代以前から、多くの民が税の賦課を逃れて集落を作らず、定住せず、時には家族さえ為さずに放浪の生活をしていた。全国を支配する国家体制がなかった中世には、こうした支配の隙間にあって統制されない民の存在は問題にならなかったが、天下統一のはじまる安土桃山時代には一部が権力に把握され、「かわた」身分として統制が始まった。江戸時代には幕藩体制の確立に伴い、全地域・全人民の納税義務を峻別するため、人別把握が不可欠となり固定身分化したのである。

=======

俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。このうち隷属の度合いが低いものを夷俘(いふ)という。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。

移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたものである。移住先は九州までの全国におよぶ。朝廷は国司に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。

俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。9世紀、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていた(→国衙軍制)。俘囚が有していた狩猟技術・武芸技術は、乗馬と騎射を中心とするものであり、俘囚の戦闘技術は当時登場しつつあった武士たちへ大きな影響を与えた。例えば俘囚が使用していた蕨手刀は、武士が使用することとなる毛抜形太刀へと発展している。このように、俘囚の戦闘技術は揺籃期の武士へと継承されていったのである。

しかし、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、883年の「上総俘囚の乱」などのように、俘囚による騒乱が次第に発生するようになった。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられているが、こうした事態に頭を悩ませた朝廷は、897年(寛平9)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出した。これにより全国へ移配されていた俘囚のほとんどは奥羽へ還住することとなった。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ


エタは 穢多ではなく 神に供物を捧げて祈る者たちのこと

2010年01月12日 | 差別問題

1.エタの起源は 「その他諸々の職業」を指す外来語 「エーテル」である

エタは外来語だと考えている。

古代ギリシアの学者アリストテレス(前384年 - 前322年)が提唱した「天上の空気」を表す言葉「エーテル」が、ヨーロッパで弾圧されて東洋に逃れた景教(ネストリウス派キリスト教)と共に日本に伝わった。。。渡来人らによって『その他諸々の職業』を指す言葉として使われ、外来語化していたのだが、時間が経って由来が解らなくなった。

。。。と私は考えている。

『そんなはずはない』と笑う人たちが結構いる。しかし、明確な反論をする人はいない。みんな真実を知らずに『理由無き差別』などと表現する。。。そうした姿勢を、私は非常に無責任だと感じる。

差別の根源はいつの世も、貧富の差と民族意識だ。

我々は真実を知らなければならない。

古代より世界人類の交流範囲は驚くほど広い。世界の中の日本を常に念頭に置かなくては社会問題は解けない。初期仏教がインドからギリシャ方面に広がって偶像礼拝を受け容れ大きく発展し、その頃ポピュラーだったゾロアスター教や景教(ネストリウス派キリスト教)と共にソグド人などの隊商によって広くユーラシア大陸に拡散されたことを知らなければならない。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

日本は各時代毎に中国に使者を送って文化・知識の吸収に努めた。中国に伝わった宗教は日本にも伝わっていると考える方が自然である。日本に景教(ネストリウス派キリスト教)が伝わっていないと言う方が暴論であろう。チンギス・カンの家系など多くの騎馬民族が景教を信仰したことからしても、アジアの隅々まで広がった古代キリスト教思想が日本に伝わっていたと考えなければならない。

そもそも、昭和の同和教育で「士農工商穢多非人」と上下身分関係を教えたことは全面的に間違いであった。江戸時代の身分制度は未解明な部分が多く、農工商という概念は極一部の学者らが理解していたに過ぎず、一般には百姓・町人という職業区分しかなかった。これは身分ではない。

は主として「手下(てか)」という刑罰に処された者達のことであり、エタは古来から「」(官吏の長)と呼ばれていた。これらも身分ではなく職業区分であったが、江戸時代初期に幕府による牽強付会で「」の文字が当てられた。しかしながら、関東では八州を支配した頭弾左衛門が「」の呼び名を嫌ったことから定着せず、「」の呼称で通された。関西においては「」という呼び名が流布されたが、エッタ・エッタボシや「かわた*」など様々な呼称があり、整理が必要である。

*「かわた」の初見は永享2年(1430年)11月11日付けの土佐国香美郡の「下人売券」とされる。同文章では端裏書に「かわた四郎」と記されている。

そもそも「」や「」という概念は、古来中国から伝わった。また、空海が中国でペルシャ人司祭阿羅本が伝えた景教に接していること、ギリシャ方面で栄えた偶像仏教が日本に伝わった史実などを総合すれば、世界中で人口に膾炙されたアリストテレスの「エーテル」にまつわる学問が、渡来僧などによって日本にもたらされていたことを疑う余地は無い。みんな早晩気付くだろうが・・・

======

日葡辞書と運歩色葉集の調査から解ったこと

日葡辞書(にっぽじしょ)は1603-1604年に長崎で発行されたキリシタン版の一種

Nippo_3

(写真は以前にウィキペディアから引用)

①エタについて「Yetta=chori ;他の人々が認める頭、または、長」と記されている。また、エタの読みについては「Yeta→Yetta の条を見よ」 とあることから、当時「エッタ」とつまる音であったことが理解できる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)(京都国会図書館蔵書)は、1547年頃記された国語辞書である。 「エッタ」と「エド」について調べた。

Unpo1 

Unpo3 

②高知県学芸員(古文書解読の専門家)に確認したところ、この「エッタ」は、偏が「示(しめす)」で、部首は「口」と「鉞(まさかり)である(以下「示+口+鉞」と記載する)。

その直後にある「穢土 エド」では、「のぎへん 禾」と「山」が明確に楷書で記されている。「鉞」部分には「同上」を示す「点々」が用いられている。

この比較から、運歩色葉集の編者が、これら2文字を「鉞」以外が異なる別の文字と認識していることが解る。

Hikaku

これらが同じ文字ならこうは書かない。つまり、1547年頃記された国語辞書・運歩色葉集には、1644年以降に江戸幕府の公文書に現れ今に伝わる「」とは異なる字体でエッタが記されていたのである。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

④上記「示+口+鉞」を解字すれば、「示」は神への供物を置いた台(祭壇)のこと、「口」は神に捧げる祝詞を入れる器で、「鉞」(まさかり)は刃物で戈(か)る意味がある。

とすれば「示+口+鉞」(エッタ)は

「祝詞を唱えつつ神に捧げる供物を刃物で戈り取る者」

を表した会意文字と推察される。

⑤以上からして、この「示+口+鉞」(エッタ)は、江戸初期に失われた文字と考えられるから、水戸光圀の「圀」に代表される則天文字やベトナムのチュノムなどであるかも知れない(更に研究を進めたい)。運歩色葉集を作成した人物は全てを理解していたのであろうが・・・ 

⑥ともあれ、④の知識をもってすれば、中世において混同された「恵止利」と「餌取」を上手く説明できる。すなわち、「示+口+鉞」(エッタ)から、

「恵止利」は、

「恵みを止めて利用する者(祝詞を唱えつつ神に捧げる供物を刃物で戈り取る者)」

と理解でき、「恵止利」が、「餌取り」(古代の兵部省主鷹司に所属して鷹狩に使う鷹の餌を供給・調達した官職の者で、被差別民ではない。)をも包括する言葉(カテゴリー分類語)であったことが理解出来る。この発見は重要であった。

⑦整理すれば、恵止利(恵みを止めて利用するもの)には、武将が鷹狩で使用する猛禽類に餌の肉塊を捧げた官吏である「餌取」と、神に生贄として捧げる獲物を戈った「エッタ」という者ら(宗徒)がいたと解されるのである。つまり「恵止利=餌取(武力集団の官吏)+エッタ(寺社に隷属する宗徒)」である。

======

Unpo4

~ さて、一息つきたいところだが、「示+口+鉞」(エッタ)には、注釈に「屠隠」と「完」が書き添えられている。当時の人はこれで意味が解ったのだろうが、現在では懸命に解読しなければならない。 ~

⑧先ず「屠隠」から見てゆく

 本来の字義は「屠る(ほふる)-隠れる」で、「屠-隠」と赤線が入っていることから「トカクレ又はトガクレ」と続けて読んだことが解る。とすれば、江戸時代中期(1716年ごろ)「葉隠」「葉可久礼」(ハガクレ又はハカクレ)と書き直された「武士」のことであろう。

ここで、日葡辞書をめくれば、Saburai(サブライ)は「貴人、または尊敬すべき人」と、Buxi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ「武人」「軍人」を意味するポルトガル語の訳語が与えられている。そもそも武士とは「人殺し集団」以外の何者でもなく、時代を遡れば中世の公家から「屠児(とに)」と蔑まれ賤視の対象であった。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ

⑨「完」について

完には『此れをもって完結する(全体が完成する)』意味がある。つまりエッタの設定によって↓ 全ての職の概念が完結するのである。

全ての職業=よくある職業+完(その他諸々の職業)

Photo 左の図でオレンジ色に表した部分が「エッタ」である。

 

これは、古代ギリシャの学者アリストテレスの考えた「エーテル」の概念が神学に取り入れられてスコラ学に継承され、キリスト教宣教師らによって日本に伝わり、神学や社会学(ヒエラルキー形成)に導入されたものであろう。

左下の図で、アリストテレスの唱えた「エーテル」は点線部分を埋め尽くす物質(光の媒体)である。327pxaetherwindsvg1_2 

詳しくは、エーテルの記事を参照されたい。エーテルとは「認識外のもの=人間界で理解できない神の領域のもの」という意味がある。

因みに エタノールの主成分であるジエチルエーテルが発見されたとき*1 その高い揮発性から「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている(天上の物質)と解釈され 「エーテル」と命名されたエタール*2

 

以上を総合すれば 

エッタとは、魑魅魍魎が悪さを働くと恐れられていた時代、供物(生贄)を捧げつつ武力的効力を発揮する祈りの仕事に従事した者らのこと。つまり、悪霊を退治する為に生贄を捧げる神官・僧侶を指す言葉と理解出来る。

すなわち、神に使える者(僧侶・神官)らのなかで、屠児(武人)の如く、武力的役を果たす「僧兵」「修験者」「陰陽師」を含み、その他諸々の職業を指す言葉がエッタであり、こうした者らは、江戸時代において幕府(将軍)の統治下になく、祈り(天皇)の統治下にあった。

結局、エッタは、税金を幕府に納めなかったから、徐々に賎視が強められたと解されるのである。

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ 

======

*1 歯科医師であるウィリアム・クラークは1842年1月、1540年に発見されていた硫酸エーテル(ジエチルエーテル)の抽出を行った(麻酔)

*2 ラテン語で  「et al」 または「et alia」を エタールと発音する 意味は「およびその他の物」である

以上、資料解析から興味深い進展を見た。更に詳しく調べ、各方面と意見交換してみたい。高知にも多く伝わる「太刀踊り」などの神事を彷彿させるイメージにも繋がる(殺生の代わりに歌舞音曲として形象化したと考えることが正答か?) いずれも今後の課題としたい。

(参照)

(神学)エーテル - ギリシア語で「上層の空気」を意味する。アリストテレスの「第五元素」アイテールが。 スコラ学に受け継がれ、中世のキリスト教的宇宙観においても、天界を構成する物質とされた。語源はギリシア語αιθήρがラテン語Aetherを経由して英語Etherになった。物理学におけるエーテル、化学におけるエーテルの語源となった。

(物理)エーテル - 天空を満たす物質を表した。原義は「燃やす」または「輝く」である。主に19世紀以前の物理学で、光が伝播するための媒質を表す術語であった。地球は光を伝える「媒質」であるエーテルの中を運動していると考えられていた。イーサー(Ether、Aether)ともいう。

(化学) エーテル - R-O-R'で表される有機化合物。溶媒のジエチルエーテルも、単に「エーテル」と呼ばれる。 ジエチルエーテルが発見された際に、その高い揮発性を「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている」と解釈されたことからその名が付けられた。

*「部落史研究会」代表 和田 勉

弘安年間(1278) 「塵袋」の記載 「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バゾ」とあり、「根本ハ餌取ト云フベキ歟、餌ト云フハ、シヽムラ(肉叢)鷹等ノ餌ヲ云フナルベシ、其ヲトル物ト云フ也」 

餌取とは、古代の兵部省主鷹司に所属していた官職の者で、鷹の餌を供給・調達しているが、被差別身分の人ではない。

餌取は、被差別身分を著す賤称語でなく 江戸時代にも「餌取」は存在していた。桑名藩の職員録といえる「分限帳」に武士身分として鷹匠の組の中に記されている。また、紀州藩松坂でも、寛文12年(1672)御鳥見4人、御餌指6人の武士があった。

これらの誤りを糺したのは、昭和24年に「部落史論考」を発表した塩谷孝太郎であった。「エトリ」は、「餌取」でなく、「穢取」で「ケガレ」を取り祓った官人の「キヨメ」であったと誤りを縷々糺した。

Unpo2

人気ブログランキングへ ← 頑張ろう高知県 ポチっとよろしく          総合トップページへ