江戸城は、上空から見ると心臓の形をしている。これは何を意味しているのか? 順位 1750 1775 1800 1825 1850 人口 都市名 人口 都市名 人口 都市名 人口 都市名 人口 都市名 1位 900,000 北京 1,000,000 北京 1,100,000 北京 1,350,000 北京 2,320,000 ロンドン 2位 694,000 江戸 710,000 ロンドン 861,000 ロンドン 外務省に「何故、日本はヒノモトではなくニホンと読むのか?いつからそうなったのか?」と問うても明確な答えはない。 かえって「変わり者」と笑われてしまう・・・ 自分の国の呼び方の根拠を知らず、それでも疑問をもたない役人が差配する「外交」に希望はもてない。 日ユ同祖論者の小矢部全一郎氏の説では、日本語で天皇のことを帝(ミカド)と言うが、ミカドとはヘブライ語でミ・カドであり、イスラエルの失われた10支族の1つカド族の出身という意味になる。カドの息子は、「エッポン」「ニッポン」と呼ばれるそうである。 同氏に、外務省を教育して欲しいと願ってやまない。 因みに、薩摩藩は、1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させ、旧来の支配体制を残したまま、農民を数戸ごとに「門」(かど)というグループに分け、門ごとに土地を所有させる「門割(かどわり)」などの独特の制度を持った。土佐にも、門脇・門田性は多い。 野菜が畑ではなく、スーパーの倉庫で出来ると思っている日本人。 魚に骨があることを知らない日本人。水と安全にコストがかかる事を知らない日本人・・・ アメリカが石油利権のために中東諸国の紛争に関与していることを知らない日本人。アメリカが、過去にはイラクに味方し、フセインを英雄にしてしまったこと、その後、ブッシュ大統領の父の時代には、逆に、ミサイルを撃ち込んだことを知らない・・・ 故に、「平和ボケ」と揶揄される日本人・・・ どの日本人も、私の周りに沢山いる。 我々日本人の首相は、従軍慰安婦問題で、アジアの被害国ではなく、ブッシュに頭を下げ「ブラック・ユーモアだ」と嘲笑された。彼は、原爆について「戦争を早期に終わらせ、被害を最小限にとどめた」と評価しているアメリカ政府を追従し、「原爆を使ったのはしょうがない」と発言した防衛大臣を「アメリカの考えに沿って発言したものだと思う」と擁護した。アメリカに厳しいことの言えない日本人の代表だから、しょうがないのか・・ 土佐藩の正称は高知藩(こうちはん)。板垣退助などは「高智藩」と称した。この「コーチ」と言う音読みに、常々関心があった。「河内」「ユダヤ人」「日ユ同祖論」との関係を探していたところ、ようやく日本人の真実の姿、土佐人の根源に行き着いたか・・・ 最古であるコーチン・ユダヤ人は、紀元70年のエルサレム神殿崩壊後、マラバル海岸のクランガノール(ranganore)から来たといわれている。
突き詰めれば、日本人が早くから「人間や動物の体は、心臓がポンプの役割を果たし、血液が循環して保たれていること」を知っていたことが解る。
世界で最も早く血液循環説を唱えたウィリアム・ハーヴィー(1578年-1657年)が『動物における血液と心臓の運動について』を発表したのは1628年である。 これに対し、徳川家康は、1590年8月30日江戸城に入城し当初質素であった砦の改良工事に着手した。設計を担当したのは藤堂高虎で、工事が完成を見たのは1636年、孫・徳川家光の代である。つまり、徳川家は世界の最新科学を取り入れて江戸城を改装し、お堀を心臓の形に張り巡らしたことになる。
江戸城は、周囲16kmにおよぶ郭(くるわ)に守られている。城郭内部の総面積は、名だたるカルソンヌなどをしのぐ・・・世界最大の大城郭である。また、今の皇居がある場所は、昔の大奥であり、心臓ではちょうど左心房にあたる。大奥の女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われており、その規模は世界中のどの宮廷をも凌ぐ世界最大のハーレムであった。
1868年4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、東京城に改名され皇城となる。1888年には明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称された後、1948年に皇居と改称された。明治天皇にも40人の側室がいて多くの子女をもうけたが、その全てはつまびらかにされていないという。
このように、 日本の統治者(徳川家康~昭和天皇)は、天空にあると信じる神霊に対して「心臓の形」を捧げてきた。これはメキシコ・マヤ文明のチチェン=イッツア遺跡(戦士の神殿)などにあるチャクモール(雷のようにすばやい獣の足の意味)が、心臓そのものを神に捧げた置物であることと関係があるのだろうか?
マヤ人たちは「神の怒りを静めるためには、人間の生贄が必要」と考えた。まだ動いている心臓をチャクモールに置いて神に祈りを捧げたという・・・鯛の活造り」などとの関連性もありそうだが・・・マヤ人は日本の弥生人と同質の人種であったことが判っている(我々モンゴロイドからネイティブアメリカンが生まれたことは「世界貢献の道③」で述べる)。
こうして考えれば、自然と、奈良・明日香の「鬼の俎板」が人間を生贄としていた証に見えてくる。「どうやら「殷墟」を追われた民族が日本を経由してアメリカ大陸に逃れた軌跡が見えてきた。時代が下がって、戦国時代・伊達藩の支倉常長が、スペイン・イタリア・メキシコを訪問し、世界を巡っていたことなどとと対比して更に調べたい。
いずれにせよ、日本の統治者たる将軍・天皇は、過去400年以上、心臓の形をした江戸城(皇居)の左心房に住み続け、膨大な数の子孫を配し続けている。絶えず、この心臓左心室から、将軍・天皇の血・DNAが世に送り出されてきたのだ。明治天皇には40人の側室がおり、残された子女の全ては明らかにされていない。
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歴史人口学(Tertius Chandler)によって推定された江戸(1650~1861年)の人口は、50~78万人程度で推移しており、イスタンブル・北京・ロンドンなどと共に世界最大級の大都会「City」であった。
コーチ(Kochi)(コーチンともいう)は、インド南部のケーララ州の都市である。人口160万人。南インドの重要な貿易港を有する。コーチン・ユダヤ人は、古代ユダヤ人の子孫である。ケーララ州に住んでいる人々は伝統的にマラヤーラム語を話す。"Malayalam"は、英語での言語名では、もっとも長い回文(左右から読んで同じ文)である。この辺も興味深い。
1524年、胡椒貿易にかんしゃくをおこしているという口実でクランガノールのユダヤ人を攻撃したカリカット(現在のコジコーデ)の支配者がムーア人を連れ戻した。その結果、大半のユダヤ人はコーチンへ逃れた。そこでヒンドゥー王の庇護下に入る。王は後に『ユダヤ人の街』となる場所を与える。
オランダやスペインなどの西洋諸国からインドに移ってきた「白いユダヤ人」と呼ばれるユダヤ人はその後定住した。15世紀から移住してきたスペイン系・ポルトガル系ユダヤ人(セファルディム)が定住したのはゴアであったが、結果的にこのコミュニティーは消滅している。
コーチンには、17世紀から18世紀にかけて、中東や北アフリカ(ミズラヒム)やスペインからのユダヤ人開拓者が殺到した。現在のコーチン・ユダヤ人が多様性に富んでいるのは、ケララからの数度にわたる移住のおかげである。またソロモンがいた時代のイスラエル王国が二つに分裂した後にマラバル海岸に定住していた人たちではないかという説がある。しばしば「黒いユダヤ人」といわれる。
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私は、ここコーチンから、幾世代にもわたって段階的にインドネシア・中国・韓国を経て日本に渡り、住み着いたのが「イスラエルの失われた10支族」の一つ「カド族」だと思っている(別の項で述べたように、カド族の息子はニッポンと呼ばれる)。
その一部が、16世紀末の土佐に入り、日本に来たユダヤ系同志を集めるために「高智藩(土佐藩の正式名)」と名づけたのだ。因みに、ユダヤとは「ユダヤ教を信じる者と母がユダヤ教である者」
今後、古来、高知に根付いたコーチの人たちが、天智天皇につながる家系を紡ぎ出したこと。天智天皇に偽者がいて、本物は土佐の朝倉に行幸していた(潜んでいた)ことなどを探ってゆく。
朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ(新古1689)と・・・