もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

悲しき少年兵と、国境の東

2020年12月03日 20時53分37秒 | タイ歌謡
 つい先日の事のようで、でも落ち着いて思い返すと幾多の歳月が流れているという事は案外とあるもので、たとえば高校を卒業したのは、つい昨日の事のように思っていたのだが、改めて勘定してみるとあれから43年も経っていて、膨大に無為な時間を過ごしたことに呆然とする。
 それでも、その43年間の塊を眺めていると、冷凍が溶けるように、じたじたと過去の場面が幾つも順不同に解凍され、思い出となって標準語の補正で蘇ってくる。

 あれは湾岸戦争のあった年で、たしか1991年のことだから、もう29年もまえのことだ。
 Yという男がいて、ちいさな編集プロダクションをやっていた。事務所に行くと痩身の二十代半ばで髪の長い女のひとがいて、掛け値なしの美人で兎の目みたいな無邪気なまなざしの視線は、骨惜しみなくまっすぐだった。こういう人は困る。何か頼まれたら、ぜんぶ言うことをきいてしまいそうで、おれならぜったいに雇わない。ところがYは、その女性と愛人関係であるようには見えず、正面切って普通に会話しているのだった。感心した。たいした男だ。尊敬しちゃうな。
 Yには軽薄なところがなくて、言葉を選んでゆっくり喋る稀少なタイプだった。好ましく思っていたのだが、ある日「あなた、私の弟と合うような気がするんですが、いち度会っていただけませんか」と言った。「兄の私が言うのもヘンなんですが、ちょっと変わった奴でして。日本に友達がいないんです」
「友達が」へんな話だ。「日本に、いない……?」
「ええ。そうなんです。さいきん日本に戻って来ましてね」
「?」流刑地にでも居たとか? いや、まさか。「ええと……。会えばいいんですか、弟さんと」
「はい。私が言うのも何ですが、いいやつなんです」
「ああ……」いいやつか。「好きですよ。いいやつは」
「んふふふ」Yはにっこり笑った。
 話は、こうだ。
 もともと、ちょっと変わった奴だったんですがね、入った大学にも殆ど行かずに、あちこちの国を放浪していたんだけど、そのうちぜんぜん連絡がつかなくなって十年近く音信不通だったんですよ。それが最近ひょっこり戻ってきて、聞けば傭兵で外人部隊に入隊して、それで5~6年もフランスの軍隊に居たと。で、どういうアレなんだかフランスの国籍も貰ったみたいなんです。あんまり詳しく話さないんで細かいことはアレなんですが。で、フラッと帰ってきたのは良いけど、ちょっと人が変わったみたいな感じで。昔からの知り合いに会おうともしないし、話し相手は私だけなんですよ。親とも話さない。話が合わない、って言うんです。
「はあ……」それ、ぜったいなん人も、殺してるよね。「おれと、話が合うと?」
「ええ。私も、ちょっと弟と似てる部分がありまして。その似てる所で、あなたとも気が合うもので」
「あー、つまり、人として」言葉を、探した。「ヒトとして、何ていうか壊れてるっていうか、ええと、壊れているという形容で良いのかどうか、でもそれを壊れていると呼ぶのなら、その壊れようが似てるとか、そういう意味ですか」
「さすが」Yは目を細めた。「話が、早い」
「あー」さすが、じゃないだろ。ぶっ壊れと会えってことか。「なるほど」
「では」Yは嬉しそうだった。「弟に話してみます。ただ、あなたと弟が会うってのは、私の思いつきで言ってることでして。弟があなたに会いたがってるってことではないので、話してみて興味がない、と言われたら、それで終わってしまう話なんです。興味があるから会ってみたい、ってことなら連絡しますんで。あ。いや。会いたくないと言うことなら、それでも連絡します。いずれにしても近いうちに連絡します。お忙しいところ、申し訳ないことで」
「いいえ」厄介だな、と思った。「いつでも、どうぞ」

 その翌々日だった。事務所に男が訪ねてきた。まっすぐに俺の方へ歩いてきて、おれの名を呼んだ。
「ええ。私です」誰だ、こいつ……。「ああ」そうか。「Yさんですね」
「はい。Yです」Yというのは、苗字だから兄も弟も一緒だった。「弟です」
 ぜんぜん似てなかった。兄は小太りで手足が細く色白で、眼鏡で、クスクス笑うひとで、穏やかな人柄で、世の中の大部分の人はYの兄が好きになると思う。
 ところが、どうだ。弟は、まるで違う。痩せてはいるが、みっちりと密度の高い筋肉が指の一本一本までも隈なく付いている。たぶん全身の筋肉が、そうだろう。無駄な贅肉など、どこにもない感じ。兄弟だからか声の質は似ているものの、兄が喉を開いて力まずに穏やかに話すのとは対象的に、弟の発声は、声帯の筋肉に力を入れなくても全身の筋肉がいつでも戦闘態勢に入れるようにアイドリング状態になっているからなのか、兄と同じ声量でも遠くまで届くような声の伸びだった。にもかかわらず二人で話すときは、小声でも相手の耳にピンポイントで届くような話し方もできた。どんな距離でも、その相手にだけ聞こえるような発声。従って近くに第三者が居ても、その者は明確に聞き取ることができない。なるほど、軍人なのだな、と思った。そんな話し方ができるのは、軍人と囚人の経験がある者だけだと聞いたことがあって、その道理には甚だ感心したものだ。
 ただ、軍人を想起させたのは、そのくらいで、残忍さも血腥さも読み取れず、ただ清潔な雰囲気の男だった。兄は穏やかな印象だが、弟はとろん、とした目つきなのに隙がなく、何事につけテキパキとした感じの男だった。
 他愛もない、いろんな話をした。

 アルジェリアなんかに行った後しばらくは、靴を履くまえに中を覗き込んじゃうよね。
「あー、靴の中にサソリがいるかどうか確かめるんですね。あれはクセになる」とか。
 デパートの会計のとき、日本でもキャッシャーの所で財布を出すまえに周囲の確認するのは?
「ありますね。誰にもサトられないように目ェだけ動かすやつ」とか。
 タクシーに乗る時、自分でドア開けようとして運転手さんに叱られちゃったり。
「ああ、日本は自動ドアだからね。でも、あんなに怒んなくてもいいのに」とか。
 日本に戻って来て電車に乗ってて、知らない人と目が合うことがあって、そんな時に、敵意はないですよ、って感じで、ふわっと微笑みかけると、慌てて目ェ逸らされちゃったりして。
「……いや。それはないですね」
 え。ないの?
「ないですね」とか。
 しかし、Y弟が初めて事務所を訪ねて来たとき、部屋の全体を一瞥し、他の者を顧みることなく、おれに当たりをつけて歩いてきた。その選択基準は何だったのだろう。訊いておけばよかった。

 予想と違って、Y弟とは、じっさいに「話が合った」。兄とはまったく違うタイプだし、おれとも違う性格だけれど、好ましい男だった。ただ、傭兵のことは訊かなかった。おれには、そんな経験も知識もなかったし、共通の話題になりっこないと思ったからだ。
 どうも軍人とは肌が合わないという思いが、おれには漠然とあり、朝早く起きたり、規律を律儀に守って融通がきかないとか、よくわからないポイントで、ぱちん、とスイッチが入るように、だしぬけに激怒しそうな先入観を持っていたのだが、まったくそんなことはなかった。この人、人なんか殺してないのではないか。傭兵といってもインテリジェンス(諜報)とか破壊工作とか、そっち方面の人ではないか、と勝手に思っていた。
 Y弟は、なん度も訪ねてきて、一緒に食事に行ったり、急速に接近した。なにしろ会ったことのないタイプで、面白かったのだ。

 Y兄も「やっぱり仲良くなったみたいですね。弟があなたを面白い人だって」と嬉しそうだった。
 Y弟はフィリピン在住で、マニラ近郊でフィリピン人の妻とフライドチキンの店を経営していると言った。経営は「まあ、なんとか食っていけるくらいには順調」だそうで、どうしても欲しい厨房器具があって日本に買いに来たら、ピナツボ火山が噴火したせいで航空機が欠航続きで帰れなくなり、それで実家に連絡してみた、と言っていた。
「噴火で飛行機が飛ばないって、そんなに酷いんですかね。うちの奥さんに電話しても、そこまで酷くないようだから、そのうち飛ぶでしょうって言うんだけど」
 ああ。あれね。なんでも吹き上がる火山灰がね、磁気を帯びてて計器が全部駄目になっちゃうんで飛べないって聞いたけど。
「へえ。そうなんですか」
 まあ、聞いた話だけどね。
 これは、後になってウソだとわかった。磁気という理由なんかじゃなくて、火山灰ってのがガラス質で、灰はガラスの細かい破片みたいなもので、硬く尖っているんだそうだ。それがジェットエンジンに吸い込まれると陶器の窯の自然釉みたいに溶けてエンジンの内部がコーティングされて固まってエンジンが止まったり、何かの理由で溶けなかった場合は硬い破片がエンジン内部を傷だらけにするせいで壊れるのだという。また計器のセンサーであるピトー管の吸込口に火山灰が付着して計器の数値異常が起こったりするって、そりゃ飛べないわ。
 ピナツボ火山噴火の数年まえに、英国航空の航空機がインドネシア上空で火山灰を吸い込んで、4基ぜんぶのエンジンが停止して、あわや墜落という事例もあったという。
「それにしても、そんなに長い間、噴火するものなんですかね」
 さあ……。よく知らないけど、何ヶ月も続くようなことはないと思うけどなあ。
「そうですよね……」
 根拠のない会話だったが、まさかこのときは、この噴火が二十世紀最大級と認定されるとは思いもしなかった。おれはそれまで人工衛星について思いを馳せることはあっても、火山について何かを考えたことなど殆どなかったと思う。1977年の有珠山噴火のとき、友人の母親が火山の近くにある洞爺湖の温泉宿に宿泊しており、「旅館の床が熱いなーと思ってたのさ。したっけ噴火だもね。たまげたべさ」と語っており、「うっそだぁー」と感想を述べたのは憶えている。この有珠山の噴火は一年以上続き、地殻変動が五年近く続いたというのだが、全く記憶になかった。
 ピナツボ火山の噴火も一年と少し続き、活動の規模が小さくなって収束するのは翌年の七月のことだ。
「早く帰りたいな。いいところですよ。フィリピン」
 ああ。行ったことありますよ。鬼門だけど。
「鬼門?」
 うん。タクシーの運転手さんにホールドアップさせられちゃって。目的地近くでクルマが停まって、おや? って思ったら運転手さんが振り向いて、手にはピストル持ってんの。そんで、カネ出せ、って言うんだもん。もうね。三人で乗ってたんだけど、カネ払って転がるみたいにクルマ降りてから南国の暑さが戻ってくるまで時間がかかったもんね。怖かったなー、あれは。
「ナイフで斬りつければよかったのに」
 いやいや。おれは旅行者だよ。丸腰に決まってるでしょ。ナイフなんて持ってないもん。でも、ああいう時って本性が出るっていうか。三人のうちの一人なんか、後部座席で運転手の目を盗んで靴下にカネ詰め込んで隠してんだもん。ひどいんだ。
「うわあ。危ないなあ……。ともかく旅行者だって丸腰はダメですよ。せめてナイフくらいは持ってないと」
 うーん。……でも、まあ、そういうことがなけりゃ、いいとこだよね。みんな陽気だし。ウソばっかついてる。明るいウソつきが大勢いるってのは、間違いなく良い国だよ。
「そうですよね!」我が意を得たり、という形容しかない笑顔だった。「ほんと良い国なんですよ。早く帰りたいな」
 いつまで経っても航空機が飛ばないので、Y弟とは、よく会うことになる。だって楽しいんだもん。

 あのころはズブロッカ(ポーランドのウォッカ。バイソングラスという細長い薬草が一本、瓶の中に漬け込まれている安酒)のソーダ割りなんていう、素性の良くない酒を飲むのが好きで、あれは歳時記に載せるんだったら、是非夏の季語にしてもらいたいくらい夏によく似合うと、おれは思っている。軽くステアした後、最後にライムを絞って飲むのです。バブル経済はもう終わりを迎えていたけれど、酒場にはまだ、あの軽薄な名残りが張り付いていて、いろんな酒が揃っていた。
 なん年の間か夏といえばこれを飲んでいたので、この酒についてはちょっと詳しい。ズブロッカって酒は、ある日、突然よそよそしい味になることがあって、これが夏の終わりの合図だった。夏が終わったら、ジンのソーダ割りを飲む。そして翌年、また暑い季節が来たらズブロッカのソーダ割りだ。若くて、難しいことを考えなければ人生なんて単純だ。そしてまた、ズブロッカの味が他人行儀になったら、それが秋だ。ものすごくわかりやすい人生。
 Y弟が訪ねて来て、ある提案をしたのは、そんな頃だった。ジンのソーダ割りを頼んだら、ビーフイーターが切れていて、じゃあゴードンで、と言ったのを憶えている。
「一緒に行きませんか。カンボジアに」倒置法で言うことが多い男だった。
 え。カンボジアって……、あの、あのカンボジア?
「んふふふふ」声だけで笑った。「そう。カンボジアといえば、あのカンボジアしかないですよ」
 いやいやいや。カンボジアって、そうとう危ないでしょ。
「だいじょうぶ」きっぱりと断言した。「死んだりは、しないから。おれと一緒なら」
 怪我くらいなら、するってこと?
「だいじょうぶですよ。転んだりしなきゃ」
 うーん。ちょっと、考える。
「返事は、いつ?」
 えっと、明日。
「オーケー。連絡します」

 ちょうど国連PKOの先遣隊が入ろうとするころで、カンボジア内戦は終結を迎えようとしていたが、カンボジア国内の四派が実権を巡ってしのぎを削っている最中で、物騒なのは間違いなかった。内戦が終結したって、その日から平和になる訳ないじゃないか。ポルポトが治めていた頃ですら虐殺が横行して剣呑だったのに、他に三派が加わって権力を奪い合うという激動の情勢で、カンボジアのことを少しでも知っているなら、そんな所に物見遊山に行くのは狂気の沙汰だ。聞いた話では、カンボジア国境に接する街アランヤプラテートからは「花火みたいな閃光が見えて、とっても綺麗なの。爆撃が」ということだった。それは普通に考えて危険である。高校のときに習ったIt~that~の強調構文で言うなら「It is because very danger that to go such a dangerous area」と平気で同義語重複してしまうが、要は「イットイズとても危ない。ザット危険だから」ということですね。ええと、つまり、とても危ない。すこぶる。はなはだ。至極。めっぽう危険。命あっての物種です。まだ死にたくない。
 おれと一緒なら、死ぬことはない。Y弟は、凄みのある冷酷な笑顔で、そう言い切った。やっぱり、彼はなん人も殺してるな。間違いないだろう。
「ごめん、行かない。おっかないもん。足手まといになりそうだし」
 翌日、そう返事すると、Y弟は少しの沈黙のあと、「わかった」と言った。

 それからしばらくY弟からの連絡がなくなり、「呆れられたのかな」と思っていたら、ふた月ほどしてニコニコして訪ねてきて「いやあ。面白かったですよ、カンボジア。ぜーんぜん危ないことなんてなかったですよ。一緒に行けば良かったのに。あそこはぜったい好きなはずです。気に入りますよ。行く気になったら言ってください。また行ってもいいから、一緒に行きましょう」と言った。もちろんお土産なんて、ない。
 そうか……。面白かったのか。一緒に行けば良かったかな。
 ちょっと、後悔した。
 やがて、いつまで経っても飛行機が飛ばないので、船の手配も考えようかな、とY弟は言い、おれはおれで地方新聞社に転職が決まって、引っ越した後で、もらったY兄弟の連絡先もどこかに失くしてしまい、それっきりだ。元気でいるだろうか。

 ピナツボ火山の噴火が終結した1992年の翌年、あの火山灰の拡散は広範囲に異常気象をもたらし、日本でも夏の平均気温が数度下がって、1993年は日本でコメが記録的な不作となり、「平成の米騒動」が起こる。コメが足りなかったが、折しもアメリカ(米国って言うくらいで)がコメの開放を迫っていたし、ウルグアイ・ラウンドでもコメのミニマム・アクセスを迫られていた。しかし当時の日本政府はコメの開放に消極的で、頭を抱えていた。ところがアタマの良い人というのはいるもので、「そうだ。タイのコメを輸入しましょう」という話になる。
 不評この上ない、あのタイ米です。マズい、臭いという評判で、ネズミの死骸や錆釘が混じっているという報道もあったが、これが日本政府の思う壺で、あのコメはタイの五等米だ。バングラディシュなんかの近隣諸国で飢饉があったときにタダでくれてやったりして、ふつうは家畜の飼料になってるコメです。それをカネ出して買おうってんだから、タイは「マジで? なら、ちゃんとしたコメ送りますよ」と言うんだが、いや、それはダメです。五等米でなきゃダメです、と言って撥ねつけた。これは当たりまえで、輸入米が旨いってことになったら日本政府は困るわけで、臭くてマズくないといけない。国民が「安くて旨いんなら、コメ開放しろ」って騒ぐのは五等米よりマズい。ウルグアイ・ラウンドではなくて、買う具合ラウンドになってしまう。うはは、くだらねぇ。
 だから日本では、あれ以来「タイ米=マズい」という図式が出来上がってしまっているが、じつはそんなことないです。タイに行ったことのある人は知ってるだろうが、タイ米、旨いよね。タイ人は、もっと旨いコメ食ってます。五等米は例えじゃなくて、実際にブタのエサなんです。そんなもん、食わすなよなぁ。

 さて、その1993年なんだけれども、いろいろあって、おれはアランヤプラテートからカンボジア国境を超えて、プノンペンへ向かったわけだ。あとで考えたら、これ密入国じゃん、て事なんだが、一般の日本人が当時のカンボジアに入るには他に方法がなかったのだ。ただ、それまでにも陸路でビルマに入ろうとしたら断られたんで、検問から離れた場所から渡し船に乗って行ってみたり、メキシコに行ったときなど入国スタンプを押し忘れられて結果として旅券上では密入国の遵法出国ということになったりしている。すんなりメキシコを出られたのは入国カードがステープラーで留められていたからだろう。たぶん、よくある事なんだと思う。べつに密入国が好きというわけではないのだが、当時のカンボジアに行くのなら、これしかなかった。
 この辺の事情は以前、他の所に詳しく書いたので、昔からおれの書くものを読んでいた人はご存知だろうし、それにここは、おれもいつも忘れているがタイ歌謡のブログなので、まあざっくりで良いや。
 アランヤプラテートでは松葉杖ついてる人がいっぱいいて、あれはどういうことなのかと訊くと、「あの人たちは、地雷で足を飛ばされた人たちです」と言う。どうなってんだ。この前年1992年にはゴラン高原に行ったことがあり、同行の人に「そっちに行っちゃダメ」って言われて、その訳を訊くと「地雷が埋まってるから」ということだったが、あそこには松葉杖の人なんていなかった。イスラエルのは強力で、必ず死ぬから松葉杖なんか要らないってことなのかな。いや、あの辺は近くに民家がなく、あそこを訪れる人は遠方から来る人ばかりで、事故後に各自の家へ帰るからか。たぶんそうだ。あのときは、湾岸戦争から時間も経って落ち着いたから、いらっしゃいと言われて行ってみたのだった。買い物に行ったスーパーマーケットが4日後に爆破されたり、「そっちのストリートの向こうには行けません。アラブ人の区域で、彼らが投石してくるから」と言われたりした。レンタカーといえども国籍によってナンバープレートの末尾の数字が決まっていて、それを見て乗車している者がアラブ人でないと判断されると、多種多様な固い物、あるいは汚物などを投げつけられると言うのだった。聖地だというのに憎悪が渦巻いていた。神様は、おサボりになっておられるのだろうか。
 カンボジア国境の話だった。
 ここいらの人たちには常識なんだが、対人地雷には圧力解除式地雷というのがあって、地雷を踏むと「かちり」という音と感触が足に伝わり、そうなったら動いてはいけない。重心を移動して、足を持ち上げたら起爆装置の圧力が解除されて爆発するからです。近くに重い石でもあって、それに手が届くなら、石を足の側面につけて、上手いこと石を足とともに地雷の上に滑らせながら移動して起爆させないということもできるかもしれないが、そんな幸運は滅多にない。うまいこと石があっても、手元が狂ったら、ドカン! です。
 では、どうするかというと、覚悟を決めて横っ飛びにジャンプする。ただ足を持ち上げると命が危ないが、横っ飛びだと、足を失うだけで済むというのだ。飛んだ先の地面で、また、かちり、といったら運の尽きだけど。
 他にも、踏んだら即時に爆発するやつとか、赤外線のセンサーに引っかかったら爆発するやつとかいろいろあるんだが、そんなのがそこら中に埋まってるなんて、戦争はカネがかかるな、と思ったら、地雷は一個500円もしないんだそうで、金属探知機で検知できないようにプラスティックで成形するようになってからというもの、さらに安くなったそうで、そういえば屋台みたいな売店で地雷を売っている人も見たが、あれは本物だったんだろうか。まあ本物だろうな。偽物作ってもしょうがないし、本物は掘り出してくるだけだから、仕入れはタダだ。だけど、そんな物を買ってどうするんだ。何に使うのだ。
 まあ、とにかく1993年といえば、内戦は終結してるし、もう危ないことはないかというと、ぜーんぜんそんなことはなく、国連のPKOが入ってカンボジア初の総選挙を控えていたので、それを阻止しようと企む者、なんとか票を獲得しようとする者が入り乱れて物騒なことこの上なかった。だってそうでしょ。票が欲しくて買収するにはカネがかかる。だから対抗の勢力に投票しそうな奴は買収するんじゃなくて殺したほうがカネがかからないよな、いや、ついでに略奪したら儲かるぞとか、もう発想が無法すぎる。自衛隊の隊員ですら、なん人も殺されてるくらいだ。2年まえにY弟が行った頃とは段違いに危険だった。地方の街を歩いている人たちは殺気立っているふうでもなく普通なのに、半壊した建造物の明らかに新しい瓦礫が放置されていたりして、何かもう、とんでもない所に来ちゃったなと、いくぶん後悔した。

 で、道中おれは少年兵にライフルの銃口向けられて、失禁してしまうわけです。
 情けない話だが、小便が漏れた。だだ漏れに漏れた。スメタナのモルダウがフルオーケストラで聞こえたもん。ウソだけど。漏るだう。いや、ふざけてる場合じゃないな。とにかく漏れた。そしたら、その少年兵は嘲るように笑って、銃口を収めたのね。最初から殺す気はなかったのかもしれないけど、そんなことはわからない。少年兵って、コドモだからね。何するかわからない。
 マニラでのホールドアップのときは一人じゃないし、それに何と言っても運転手さんに殺気が感じられなかった。銃口をおれに狙い定めてるわけでもないし。だけど、少年兵はプロなんだ。パートタイムのにわか軍人なんかじゃない。銃口を下に向けたあと、これは殺されないのかな、と思ったら途端に足がガクガク震えたんだよ。歩くのに支障が出るくらいのガクガク。なんだろうね。ああいう時って、視界が狭くなるよね。レースやったことある人なら知ってると思うけど、サーキットで時速200メートル超えた辺りから、速度が上がるに連れて視界がどんどん狭くなるんだけど、ああいう狭さじゃないんだ。なんか、こうズームアップするような感じ。とてもイヤなかんじ。
 ほんの一時間足らずで、小便は乾いてしまったんだが、意外とあれは臭わない。恐怖で失禁した場合は臭い成分が分泌されないのかな。そんなことは知らないが、撃たれなくて生きてるってことは、銃口を向けられて恐怖した事実もなくなるかといえば、もちろんそんなことはない。ああいう恐怖はボディブローみたいにじわじわと、なん年にも亘って効いてくる。夜中に、ストッパーの外れたバネみたいに、バイ~ンって、とつぜん身を起こしながら目覚めたり。恐怖の思い出って、やっぱり恐怖なんだよ。
 恐怖は、預金の利子みたいに知らない間に増えていき、時々ちゃりん、と口座に計上される。それが悪夢だ。銃口がおれを狙っていて、がば、と飛び起きて目覚める過程で、自分が大声を出していることに気づいて口を閉じる。
 そんな時、おれの声で目覚めただろう、うちの奥さんがおれの手を握ってくれるので、ああ。だいじょうぶなんだ、もうだいじょうぶなんだ、と目をつぶる。結婚てのは、いいものだよね。
 弾丸なしで、おれは脆くも壊れたのかもしれない。
 死にたくない人を殺すのは、良くないことだ。でも、戦場では、そんなユルいこと言ってられない。そもそも兵士ってのは殺すために戦地に来ているわけで、殺されても仕方がないという覚悟もある。そういう者同士が殺し合うのが戦争ってことでしょ。内戦だって同じことだ。そんな場所へ、殺されるのはヤだなー、なんて野次馬が呼ばれもしてないのにノコノコ来て紛れ込んでるわけで、そんなの邪魔者でしかない。そんな奴、撃っちゃって良いに決まってるじゃないの。覚悟も何もないんだぜ。甘えてんじゃねえぞ。そんなの噛んで含めるように言って聞かせるほど暇じゃないからね。一発、どん、と撃ったほうが話が早い。
 な? そういうもんだよな。
 少年兵が、おれを撃たなかったのは、可哀想とかいうことじゃないと思うんだ。こんな奴、撃つ価値もないってことでしょ。弾丸がもったいないもの。

 それ以来、そうしてまで書いて知らせたいことなんて、おれにあるのか? と思うに至ったわけです。ないな。ないぞ。そこまでして言いたいことなんて、おれには、ない。
 つうか、そもそも言いたいことなんて、あったんだろうかね。
 と、まあ、またいろいろあって、記者なんて辞めてしまう。ジャーナリストなんて御大層なものでもなかったし。
 心身共にくたくたになり、やっとの思いで国境の街アランヤプラテートに辿り着いたら、カンボジアのクメール人の難民キャンプがあって、酷い暮らしを強いられていたが、その人達はカンボジアの軍が攻めてきたときの盾というか緩衝材になっているのだということを思い出しても、特別な感情はそれほど湧かなかった。あのときは感情が死にかかっていたのだと思う。簡単に言えば廃人に近く、社会復帰に少し時間がかかったような気がする。どこか静かな所で猫でも育てて暮らそうかな、そうぼんやりと考えた。

 さて、その滞在で買ったカセットテープのひとつが、当時タイで大人気のカラバオというロック・グループの物だった。
 このカラバオのテープをソニーのウォークマンで聴いていた。胸ポケットにウォークマンを忍ばせて、流れ弾がそこで止まって心臓は無事だったので、今でも生きている。というのも、もちろんウソで、流れ弾なんて飛んできたことはないんだが、カラバオを聴いていたのは本当だ。まだ生きているのも本当。
 まずはカラバオのヒット曲「ウェルカム トゥ タイランド」を聴いてみよう。リリースは1987年で、この頃には押しも押されもせぬ大人気バンドになってますね。ここではデビュー35周年のとき(2016年)のライブだ。ファンも一緒に年取ってる。凄い盛り上がりだ。
คาราบาว - เวลคัม ทู ไทยแลนด์ (คอนเสิร์ต 35 ปี คาราบาว) [Official Video]
 カラバオというグループは、1981年、フィリピンのマニラで結成されている。リーダーのエーッさんが1954年生まれだから、27歳の時。ロックバンドとしては遅咲きな気もするが、もう40年も続けてて、しかも第一線なんだから恐れ入る。マニラで結成されたのは、オリジナルメンバーの3人がマニラの大学に留学して農業を学んでいたからで、カラバオって名前もタイ語だと「菱の実」だけど、フィリピンのタガログ語だと「水牛」です。だからカラバオのトレードマークが水牛で、のちに「グラティンデーン(กระทิงแดง-英語でレッドブル)」というエナジードリンクがタイで発売(さらにその後オーストリアの会社が国際的販売権を獲得し、日本も含む各国で売られるようになるが、タイ製の物とは成分は全く別物)されるようになり、そのイメージキャラクターになったのがカラバオのリーダーでリードボーカルのエーッさんで、CMでは「คนไทยหรือเปล่า!(コンタイループラオ)」と呼びかけていたんだが、この「コンタイループラオ」ってのは「タイ人ですかー!(直訳すると、タイ人か否か)」という意味ですね。商品名の「グラティンデーン(กระทิงแดง)」は赤い野牛で、牛つながりってことか。レッドブルは20世紀まではリポビタンDに押されてシェアもせいぜい10%だったんだが、21世紀に入った頃からカラバオやルクトゥン歌手とコラボレートすることによってシェアを伸ばし続けた。それまでエナジードリンクは「下品な飲み物」として、一般人は飲んだことがあっても知らないフリを装っていたし、買うところを見られることすら嫌っていたのが、徐々に市民権を得て、今ではコンビニで普通に買えて、人前で飲んでも恥ずかしくないことになって、エナジードリンクの総販売量は桁違いに増加した。中でもレッドブルのシェアはダントツです。凄いね。牛のパワー。そういやカラバオのトレードマークも牛の頭部だ。タイ語では菱の実だけど。
 まあ菱の実って、殻の形が水牛っぽいんで、何か関係でもあるのかとも思うんだが、タイ語がタイ・カダイ語族で中国語系で、タガログ語とは系統がまるで違うんで、偶然かもしれない。
 ついでに思い出した。ズブロッカの酒瓶に貼ってあるラベルに描かれているのも野牛だったな。

 ところで、現在カラバオはカラバオ・デーンというブランドのエナジードリンクを自前で作って売るようになったので、もうレッドブルのキャラクターはとっくに辞めてしまった。その経営だが意外と商売が上手くて、本業のバンド活動を始めとする音楽活動よりも遥かに収益をあげているのではないかと思う。協力者に恵まれているんだろう。アルミ缶の工場は昭和電工の子会社の昭和アルミニウムとの合弁で、売上は年々増加して最近では20億本も製造しているという。人口七千万人弱のタイで、そんなに売れるものかと思ったら、中国とビルマでの販売が好調なんだって。中国は人が多いから、そりゃ大きな市場だわ。今じゃすっかりカネモチで、タイのフォーブスの表紙を飾ったりしてる。


 ところでカラバオのギターは音が、ぴたっと吸い付くようなところがサンタナっぽいなと思っていたけど、インタビューでは結成当時に影響を受けたのはレッド・ツェッペリン、ジョン・デンバー、ジ・イーグルス、ピーター・フランプトンあたりだと言っている。そういえば、ツイン・リード・ギターになる演奏がしばしばあって、そこはイーグルスっぽいよね。
 とはいえ、聴いた印象としては「タイのロック」って感じで、タイの土着っぽい曲想が多い。アンクルン(อังกะลุง)という竹の楽器や、クルイ (ขลุ่ย)という縦笛やソー (ซอ)という中国の胡弓に似た擦弦楽器みたいなタイの楽器も使ってるし。最初から海外バンドのモノマネではなくタイっぽい。コール・アンド・レスポンスも「ウーイ」とか「オォーイ」みたいなタイ音楽の合いの手です。オリジナリティーが凄い。
 そのせいで後輩が大変で、タイを強調してもカラバオのニセモノみたいだし、タイ臭さを消すと、ただの他所の国のロックのニセモノだし、Losoあたりが出てくるまでタイのロックシーンはカラバオの独擅場だったと言っていい。

あ。そうだ。歌詞でも訳しておくか。
 最初にトムトムウェアユーゴラスナイトと言ってますが、これは英語をタイ文字で記しただけで、「Tom, Tom Where you go last night ?」のことです。「トムさん、トムさん、昨夜はどこに行きましたか」って意味だ。合いの手で答えてるパッポンてのは、バンコクの歓楽街の地名で、パッポン通りという、わずか1ブロックの小路のことだ。ゴーゴーバーがやたらと並んでて、そこでは大音量の音楽に合わせて裸もしくは水着姿のタイの娘さんが踊ってる。あと、ムアンタイってのは、タイ国って意味だ。

トムトムウェアユーゴラスナイト
(私はムアンタイが好き パッポンが大好き)
若い娘はトムを魅了したに違いない
(私はパッポンが大好き 私はタイが大好き)

タイ旅行 命の洗濯 生まれ変わったように
文化的な所 お金の価値 
ボッタクリだけど、まあ見てちょうだい
古代 陽気な経済 タイ観光年
タイの黄金岬には良いものもあるよ
自然がいっぱい 魅力的だけど、誰も見てない
修道院 素晴らしい文化 タイの伝統
興奮するほど魅惑的 
ソンクラン祭り ロイ・クラトン祭り (タイの)自慢だよな
白人は日本人をやっつけて上陸した
そして今年 今年 タイ観光年
旅行して満足しましょう
悪いことは忘れて 一年間休もう
政府は順調で 人々も上々だ

トム、昨夜はどこに行きましたか
(私はタイが好き パッポンが大好き)
若い娘はトムを魅了したに違いない
(私はパッポンが大好き 私はタイが大好き)

いい加減にしろ(いい加減にな)
いい加減にしろ(いい加減にな)
奴らは来るけど(俺たちは行かない)
誰かライムを(ライムを取り上げろ)
誰か娘を(娘を取り上げろ)
誰か少年を(少年を取り上げろ)
少年はエイズだけどな(そりゃ当然だ)ラララララ

誰かカネを(カネを取り上げろ)
良いことをしろ、良いことをしろ(呪いに注意だ)
一年中悪いことをしろ(誰も何も言わねぇのな)
そして証拠のテープが出てくる(呪われているな)サヨナラー!
ホーイ…ハッハー…ホーイ

タイへようこそ
悪い奴らは次々と現れる
観光客は タイで私たちに会うために そこに立っている
どこが好きか訊いてみよう
外国人は恥ずかしがらずに答えた
パタヤが好き バンコクの街なら
パッポンだろ 私はそう言う

そう 娘さんは こんな感じ
政府は順調 白人は何もわかってない
でもタイ全土に投資するんだ
新しい観光地を造成する 観光を促進する
ものごとの一面だけを見ちゃダメだ
パタヤ観光 外国人
そう 彼らは外国人
タイについて知っておくべきだよ
俺たちは 奴らが理解しているよりも 良いものを持っているのに
タイ文化 それはずっと素晴らしかったんだ
それを歪曲したり 卑猥にしないでくれ
タイでの需要が間違っているぞ

トム、昨夜はどこに行きましたか
(私はタイが好き パッポンが大好き)
若い娘はトムを魅了したに違いない
(私はパッポンが大好き 私はタイが大好き)

 なるほどね。ウェルカム・トゥ・タイランドって、カラバオが、そんな手放しで観光応援ソングを歌うわけないんで、このくらいは言うだろう。ロックだしタイ語で歌ってて外国人にはわかんないんだから、もっと過激でも良いのにね。インテリで、性格が良いから、あんまり酷いことは言わないですね。まあパッポンに行くような外国人を軽蔑してるのは、よくわかった。
 ところで歌詞の中に「ฝรั่ง บัง ยุ่น มายกพลขึ้นบก(白人はユンを強打して、上陸した)」という箇所があって、この「ยุ่น(ユン)」てのが、わからなかった。辞書にも載ってないんで、うちの奥さんに訊いたら言い難そうに「日本人という意味です。あんまり良い意味ではない言葉ね」と言う。率直に言うと侮蔑語で、英語なら「Jap」にあたる。ついでに最初の単語「ฝรั่ง(ファラン)」は辞書を引くと「外国人」となっていますが、これに日本人は含まれない。白人と呼ばれる人たちのことです。「ฝรั่ง(ファラン)」の素になる単語が「ฝรั่งเศส(ファランセー)」で、フランスの事だからです。で、「ยุ่น(ユン)」て単語をググると、特にSNSなんかじゃ、すんげぇ日本人の悪口がいっぱい出てきて「すまん。悪かった」って気持ちになるんだが、画像検索すると、ユンて渾名のタイ人ばかりがゾロゾロ出てきて、これがまたニホンジンぽくて笑っちゃう。
 そんで、これ聴いた当時のタイ人にも「ほんと外国人観光客、気に入らねぇな」って思っていた人もいただろう。だって、このMVでも長いパーカッション・ソロの後に「いい加減にしろ(いい加減にな)」って歌詞の所で観客が思いっ切り盛り上がって合唱してる。そりゃそうだよな。じぶんの国の娘さんたちが肉や野菜みたいに買えて、良い国だなんて言われたら、そりゃ怒って当然だわ。

 そういえば、1984年に流行ったアバ(ABBA)の、ワン・ナイト・イン・バンコック (One Night in Bangkok)って曲は、歌詞がタイをバカにしてるって理由で、往時タイでは放送禁止になったはずだ。今聴くと、そうでもないような気もするが、歌詞にユル・ブリンナーの名が出てきたりして、「王様と私」を禁止しちゃってる手前、ついでに怒るしかないか、これは。しかも舞台では空手の胴着っぽいインチキくさい衣装で踊る男もいて、へえ、これもタイを思わせるアイテムとしてアリだったのかと思うと面白い。楽曲のメロディー自体は良い曲で、アレンジも当時の「ナウ」ですね。カラバオはこういう歌詞を書くような外国人、大嫌いなんだろうな。わかるよ。わかる。おれはABBAが嫌いだと、まえから書いてるけど、ホント嫌いです。ところでMJQ(モダン ジャズ カルテット)というバンドが昔あって、ヴァイブ奏者のミルト・ジャクソンがABBAの収入を聞いた途端に「やってらんねー」ってバンドを解散しちゃったというんだけどね。おれ、この話が好きなのね。ミルト・ジャクソンの演奏が好きな人だったら、この話の趣がわかると思います。
ABBA-Chess - One Night In Bangkok
 カラバオの話に戻ろう。カラバオのサウンドって、打楽器セクションが充実してて、4ビート、8ビートは当たりまえで、16ビートや、どうかすると32ビートのオカズが入ることすらある。もうビートと言うよりパルスだ。で、もちろんタイ人だから独特のシンコペートもあってファンキーなんだが、少し引いて客観的に聴くと、大本の歌の旋律のノリは縦ノリで基本が2ビートだ。
 ここらが、本当にタイ人だなーって感心しちゃうんだが、デビューしてもうすぐ40周年というのにタイ人の心を捕らえ続けてるのは、こういう所で、親子二代でファンですというのは珍しくないが、そろそろ三代に亘るファンてのも出てきてるようだ。

 さて、次の曲は「ราชาเงินผ่อน(ラチャー・ンガンポン)」という曲で、意味は「分割払い王」ですね。いろいろ何でも欲しいのに、給料が足りない。なら分割払いだ。それなら何でも買うことができるぞ。と、ローンを組む人をDisっています。
 あ。そういえばDisるって言葉を最初に見た時、なんかヤだなと思ったのに、最近は便利だから使っちゃってる。そんなことではダメではないかという気もするんだけどね。
 まあ「目線」とか「生きざま」なんて言葉はぜったいに使わないが、最初ヤだなと思ったのに段々慣れてくる言葉もある。「ほぼほぼ」なんてのもそうで、これはおれはぜったいに使うことはないんだが、稀勢の里がこれを言ったのを聞いて、「これはもう認知されてる言葉になってしまったな」と思い、それからは聞いても腹を立てないようになった。
 でも「ネグる」ってのは慣れなくて、これはおれよりも一回り上の爺様が使ってた。十数年まえだったかな。某ゼネコンの部長さんで東北大出という人が「それはネグっちゃって良いと思う」と言ったんだ。そんな言葉を聞くのは初めてだったんで、「あの、すみません。ネグる、ってのはネグレクトのことでしょうか?」と訊いたんだけどね。「あー。んー。気にしないとか、そんなふうに使うよね」と答えたので、ああ、ネグレクト(無視)なんだな、と。あと「ネゴる」ってのも聞いたことある。ネゴシエートすることだそうです。「交渉する」じゃダメなのかよ。まだあった。もう古いが「タピる」ってのを見たときは、これはてっきり「死ぬ」ってことを可愛く言ってみたんだと思ったのね。半濁点で可愛さ表現してんの。「イケメンすぎてタピりそう」とか使うんだとばかり思ってたら、まさかの「タピオカ飲料を飲む」ことだって。サボってんじゃねぇぞ! って思っちゃったが、おれが怒るのも筋違いなんだよな。なんか口うるさいジジイみたいになってしまった。ジジイなのは間違いないが、おれはカラバオのリーダーよりも5歳下だ。カラバオも老人バンドと呼んでもいい歳になっちゃったね。
 つうことで「ราชาเงินผ่อน(ラチャーンガンポン)」だ。これもいいぞ。
คาราบาว - ราชาเงินผ่อน [สังคายนา] (Official Music Video)  
 いつ頃のMVだろう。みんな今より若いけど、この曲をリリースした1988年頃ではない。ノートパソコンが出てくるけどスマートフォンではない携帯だし、薄型テレビが出てくるから15年くらいまえかな。それはそうと、イントロがサンタナっぽいんだよ。その後のオルガンがディープ・パープルのジョン・ロードっぽくもある。リズムセクションが泥臭いけど、ギターはカッコいいよね。このまえの「ウェルカム トゥ タイランド」と曲想が似てるのは、わざとで、キーも曲の速さも一緒です。ステージでは、なん曲もメドレーで切れ目なく演奏して、観客がずっと踊り狂うというスタイルなので、これで良いんです。タイでは、この手の音楽を「サムチャー(3ช่า - 3つのチャー)」と呼んでいます。語源は「チャチャチャ(ชะชะช่า)」のことですが、ほんらいのチャチャチャのリズムパターンではない。たんに「踊れる楽曲」のことをチャチャチャと呼んでいたことからです。日本で言う「ブルース(淡谷のり子さんのブルースなんかの楽曲)」が、ぜんぜんブルースの形式を踏まえてないのと同様ですね。

 ときに、あれ以来カンボジアには行きたくなかったので、行ってないかというと、そんなことはなくて、1995年の終わりだったか翌96年の初め頃にアンコールワットを見にシェムリアップまで行った。
 たった2年なのに、ほんの2年なのに、まったく別の国みたいになっていた。人々の顔は希望に満ちているというより、逞しかった。もう殺し合いもしなくていいし、びくびくと他人の顔色を伺わなくてもいい。年端の行かない子供が、缶入りの飲料を売りに来たり、よくわからない土産物を売りに来たり、何でも1ドルだった。子供たちはいろんな国の言葉の売り口上を暗記していて、その国籍を間違えない。
 いらない。きっぱりと断ると、半分以上の子供たちは離れる。だが、諦めない子供がわずかにいる。もちろん好きでやっている訳がない。これには元締めがいて子供が稼いだカネは元締めに搾取されるに決まっている。暮らし向きが中流以上なら学校に通っているのだ。親の代で負けなら、子供の代でも負けなのか、それとも親なんていないのか。ひょっとして、その元締が親なのか。どれもアリなんだろうな。
「こーらデス。1どるデス。買ッテクダサイヨォ」買うまで、どこまでも付いてくるのだろうなと思わせるしつこさだった。
 食堂に入る時など、食堂の従業員が追い払うのかと思ったら、そんなこともなく食卓の脇で「買ッテクダサイヨォ」と繰り返す。でも、だいじょうぶだ。子供たちはライフルなんか持ってない。おれは失禁しなくて良いのだ。カンボジアの平和、バンザイ。
 ホテルまで付いてくるようなら、さすがに従業員が追い払うだろうから、最後にホテルの出入り口で、ひと缶買ってもいいかな。そのまえに買うと、これはチョロい奴だと思われて、別な物売りに付き纏われるだけだから、ホテルまでずっと同行させるか。厄介だが放っておこう、と決心したら子供はおれから離れて他の人に付き纏った。なんだ、あとで買ってやろうと思ったのに。決心は、子供を遠ざける。
 今でも子供たちは「買ッテクダサイヨォ」と付いてくるのだろうか。
 子供に、そんなことを強要するクメール人が、嫌いだ。

 適当にYou Tubeを探すと、プノンペンはビルが林立し、豊かになっているようだ。もう25年も行ってないんだもんなあ。こないだ行ったときは外資系ホテルがポツポツと建てられた頃で、現地で従業員を雇って革靴を支給したら、仕事を終えてすぐに裏の川の水で洗って全員が靴をダメにしちゃったってフランス人のGMが困ってたな。
 下のMVはクメール語なんで、何言ってんだか全然わかんないですね。歌もイマイチだから、最後まで観なくて良いんじゃないかな。
 どう考えても貧富の差が凄そうだ。
 早く国中が豊かになって、子供たちがみな学校に行くようになってもらいたい。そうなったら、また行ってもいいかな、と考えた。
Suly Pheng - មិនច្បាស់ជាមួយអូន ft. Olica [Official MV]  
 あ。あと近況ね。久しぶりに病院に行って診てもらったら、レントゲンの結果を見せてくれて、これが素人目にもわかるくらい劇的に、肥大してた心臓がすっかり小さくなってた。先生が言うには、「ここ数年で一番の劇的回復例で、嬉しい」だそうで、お世辞だとしても、おれも嬉しい。まあ一番の原因は「腎臓のためだと心に言い聞かせて、それまで無理して飲んでいた大量の水を、無理するのをやめたら適量になりました」ってことなんだけどね。なぁーんも頑張ってない。つうか、まえは頑張って心臓にダメージ与え続けてたってことなんだね。
 みんな! 頑張っちゃ、ダメだぞ!



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