きのうの続きです。陳舜臣「唐詩新選」牡丹(中公文庫)
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(70ページ)
一般の人が行くことのできた花どころは、境内の広い寺院がおもで、前記の慈恩寺のほか、空海など日本の留学僧が宿舎とした西明寺が名高い。西明寺の牡丹は多くの詩人が詠み、白居易も貞元二十年(804、空海の入唐の年)に、「西明寺牡丹花時、元九を憶(おも)う」と題する五律を作っている。元九とは白居易の親友元稹(げんしん)のことである。
前年題名處 前年 名を題する処
今日看花來 今日 花を看に来たる
一作芸香吏 一たび芸香(うんこう)の吏と作(な)り
三見牡丹開 三たび牡丹の開くを見る
豈獨花堪惜 豈(あ)に独り花の惜しむに堪うるのみならんや
方知老暗催 方(まさ)に知る老いの暗(ひそ)かに催(もよおす)すを
何況尋花伴 何ぞ況(いわ)んや花を尋ねし伴(とも)
東都去未廻 東都に去りて未(いま)だ廻(かえ)らざるをや
詎知紅芳側 詎(なん)ぞ知らん紅芳の側(かたわら)
春盡思悠哉 春尽きて思い悠なる哉(かな)
前年、白居易は友人元稹と西明寺に遊び、そこで名をしるした。「芸(うん)」(藝の略字ではない)は香草で、これを書巻に挿(はさ)みこむと、紙魚(しみ)がつかないといわれる。そんなことから、宮室図書館である秘書省のことを「芸省」あるいは「芸台」と呼ぶ。
このころ白居易は秘書省著作局の校書郎であった。芸香の吏とはそれを指す。この年、元稹は東都(洛陽)へ行き、牡丹の花どきにはまだ戻っていなかったようだ。
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続く
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一般の人が行くことのできた花どころは、境内の広い寺院がおもで、前記の慈恩寺のほか、空海など日本の留学僧が宿舎とした西明寺が名高い。西明寺の牡丹は多くの詩人が詠み、白居易も貞元二十年(804、空海の入唐の年)に、「西明寺牡丹花時、元九を憶(おも)う」と題する五律を作っている。元九とは白居易の親友元稹(げんしん)のことである。
前年題名處 前年 名を題する処
今日看花來 今日 花を看に来たる
一作芸香吏 一たび芸香(うんこう)の吏と作(な)り
三見牡丹開 三たび牡丹の開くを見る
豈獨花堪惜 豈(あ)に独り花の惜しむに堪うるのみならんや
方知老暗催 方(まさ)に知る老いの暗(ひそ)かに催(もよおす)すを
何況尋花伴 何ぞ況(いわ)んや花を尋ねし伴(とも)
東都去未廻 東都に去りて未(いま)だ廻(かえ)らざるをや
詎知紅芳側 詎(なん)ぞ知らん紅芳の側(かたわら)
春盡思悠哉 春尽きて思い悠なる哉(かな)
前年、白居易は友人元稹と西明寺に遊び、そこで名をしるした。「芸(うん)」(藝の略字ではない)は香草で、これを書巻に挿(はさ)みこむと、紙魚(しみ)がつかないといわれる。そんなことから、宮室図書館である秘書省のことを「芸省」あるいは「芸台」と呼ぶ。
このころ白居易は秘書省著作局の校書郎であった。芸香の吏とはそれを指す。この年、元稹は東都(洛陽)へ行き、牡丹の花どきにはまだ戻っていなかったようだ。
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