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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ⑦

2006年02月07日 21時01分03秒 | 本・陳舜臣
6日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【竜と鳳】
[人間の力をもってすればすべてが可能](218ページ)

 話をこの前に途切れたところから導入することにしよう。
 自殺のことである。
 高官が処刑されずに自殺するのは、伝統的な形式であったが、漢の武帝はこれにいささかの訂正を加えた。

 ――大臣罪有らば皆自殺し、刑を受けず。武帝の時に至りて、稍(や)や獄に入らしむるは、寧成(ねいせい)より始まる。   『漢書 賈誼伝(かぎでん)』
 とあるように、寧成は九卿の身で、頭を剃られ首枷(くびかせ)をはめられる刑を受けた。
 漢の武帝はこのほか公孫賀など三人の丞相(じょうしょう)を処刑または獄死させている。
 大臣を処刑しないという『形式』を、武帝はうち破ったことになる。
 人間の力をもってすれば、どんなことでもできる。怒り狂った黄河の水もしずめることもできる。――この人間の力に対する過信が、中国の人間至上主義を生む。

 だが、すべての人間に無限の力があるわけではない。聖人または皇帝(古代においては、この両者は一致していた)にして、はじめてその力が与えられる。漢の武帝は、このようなウルトラ人間主義――皇帝的人間主義の権化だったといえよう。

 人間主義の生んだ『形式』さえ、人間の力によって粉砕できるのだ。
 人間の力をこれほど大きくみたが、それにたいする怖れもあった。絶大な力を集めた皇帝の暴走などはとくにおそろしい。

 聖人が帝王であるあいだはよかったが、かならずしもそうではなくなった。覇王続出の時代に、それをチェックする思想があらわれたのはとうぜんであろう。
 孟子(もうし)である。
 彼は人民が最も貴く、社稷(国家)がそのつぎで、君主はまたそのあとだ、と説いた。これは革命容認の思想であり、皇帝的人間主義に歯止めしたのにほかならない。
『孟子』を積んで日本へ来る船はかならず沈没するという言い伝えがある。日本は権力の二重構造で、ちゃんと歯止めがうまく行っているのに、そこへ革命思想という別の歯止めなど不要であろう。

 日本が安泰なのは、二重構造の一方が絶対であるからだ。その絶対性をゆるがすかもしれないので、革命容認の思想はとくに危険とみなされる。

 武帝以後は、儒教の影響によって、人間至上の色合いがさらに濃くなる。と同時に、それがウルトラ人間主義となって、皇帝の権力も強化された。
 武帝は儒教を採用することで、皇帝の独裁体制をつくりあげたつもりであろう。
 だが、その下におなじ儒教のもつ革命思想という爆弾を埋めたことにもなる。

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 続く

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