☆1月29日 ためしてガッテン(TT)
キウイの熟し方
エチレンガスを出すリンゴと一緒にポリ袋にキウイを入れると熟して美味しくなりますが、サンフジやフジはエチレンガスを出さないそうです。
またリンゴがなくてもキウイの表面をガツンと傷めつけるとそのストレスでエチレンガスを出して1週間ほどで熟すそうです。 表面を傷めたキウイを1個、他のキウイと一緒にポリ袋に入れておいても他のキウイまで熟させることができるそうです。 我が家の畑にはキウイの木があるので大変参考になる情報を得ることができました。
☆1月28日(火) 京都散策(TT)
御所の九条邸と厳島神社
四条から地下鉄に乗って2つ目の駅の丸太町で降りて御所に入ると広島の厳島神社と同じ名前の神社がありました。 九条邸の中にあり平清盛のお母様が祀られています。 写真は九条邸と庭の池です。
京都御所テニスコート
私が大学時代に青春を謳歌したテニスコートを久しぶりに訪れました。
ローラーで均した土のコートは人口芝生になっていました。 横にある休憩所の喫茶店でホットコーヒーを飲んで憩の時間を過ごしました。 ここでは時間がゆっくり流れていました。
新島旧邸
近くに同志社を創設した新島襄と八重が過ごした旧邸があります。 学生時代には何も知らずに通りすぎていたところです。 この歳になって歴史の重さを感じ新島襄や八重に感謝の気持ちを持つようになりました。 残念ながら毎週火曜日は休館だそうで外から写真撮影しました。
近くには京都歴史資料館もあり宇治、淀、伏見の歴史や貴重な資料が展示されていました。 この日が展示の最後の日で無料で貴重な歴史と資料を楽しむことができました。
京都御所
御所を通って母校の同志社大学(今出川)へ。 学生時代は御所を取って大学の構内からテニスコートまでほぼ毎日通ったものです。 勉強よりもテニスが主だった青春時代でした。
同志社大学ハリス理化学館
私が実験などで毎日学んだ同志社大学ハリス理化学館は観光客のために新島襄や八重の展示場になっています。 ここも残念ながら火曜日が休館で向いの大学の学生食堂(明徳館の地下)で昼食を食べました。
大盛りのカツカレーが440円。 ホットコーヒーが120円。 お安いですが美味しかったです。 一般の方も利用できますのでお近くにお寄りの際には是非お立ち寄りください。
楽美術館(上京区油小路通り一条下る)
近くにある一条通りの楽焼きの美術館(楽美術館)を訪問しました。 楽焼きは創始者の長次郎が利休のために彼の欲するお茶碗を造ったのだそうです。 今は15代目と16代目に引き継がれています。 入館代はひとり800円と高めに設定されていますので、お茶や焼き物に興味のある方にはおすすめです。
長次郎の代表作で利休が愛用した茶碗も展示されていました。 この茶碗は映画”利休にたずねよ”に貸し出されたそうです。
桜の生け花の器も素晴らしい楽焼きでした。
楽美術館の庭です。 苔と竹が絶妙のマッチングです。
この後、利休が自害し首を晒された一条戻り橋を訪れてから帰路につきました。
楽歴代
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元祖阿米也 (生没年不詳)
長次郎の父、中国渡来の陶工。楽焼技術が中国明時代「華南三彩」に繋がることから、阿米也は南中国福建省あたりの出身と考えられているが伝世する作品は無い。
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初代 長次郎 〈生年不詳〜天正17年(1589)〉
阿米也(飴也)の子と伝えられる。
茶の湯の大成者である千利休の指導により赤楽茶碗、黒楽茶碗を創始する。その独創的な造形は千利休の“わび”の思想が濃厚に反映されており、禅的な思想や老荘思想などの流れを汲む、極めて理念的なものといわれる。
長次郎茶碗の特色は、装飾性や造形的な動きや変化、あるいは個性的な表現を可能な限り抑えた重厚で深い存在感があることである。
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田中宗慶 〈天文4年(1535)〜没年不詳・文禄4年(1595)/60歳〉
長次郎の妻の祖父と伝わる。田中姓を名乗り、利休に常に従っていた人物とされ、大徳寺の春屋和尚、画家の長谷川等伯などとも交流があった。天正4年(1576)には京都洛中で現在の上京区南猪熊町辺りに住まいしていた記録が残っており(頂妙寺勧進文書)、天下一焼物師の名をゆるされ、長次郎と共に楽焼工房を営んでいたようである。
長次郎同様、利休形楽茶碗を製作、その他三彩獅子香炉などが伝世しており、それらの作品にはいわゆる“宗慶印”と呼ばれる楽の印が押されており長次郎作品と区別されているが確証があるわけではない。
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庄左衛門・宗味 〈生没年不詳〉
田中宗慶の子。常慶とは兄弟と伝わる。また、元禄元年の宗入文書には宗味の娘が長次郎の妻であったとも記されている。宗味作とされる作品も伝世していますが不確かなものが多い。
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二代 吉左衛門・常慶 〈生年不詳〜寛永12年(1635)〉
田中宗慶の子。長次郎没後、楽焼の工房を統率して今日ある楽家の基礎を築く。これより楽家では代々吉左衛門を名乗るようになる。在印と無印とがあり、楽印は東京・芝の増上寺、徳川秀忠墓陵より楽焼在印の白釉阿古陀香炉が発掘されたことから秀忠より拝領したものと推察されている。
常慶の作品は造形的な動きを表し、中には沓形に変化を加えたものもある。これは長次郎茶碗には見られなかった作行きで、慶長期に流行する織部好みをいち早く取り入れたことが伺える。
これまでの赤黒の釉以外に“香炉釉”と称される白釉を考案している。
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三代 道入 〈慶長4年(1599)〜明暦2年(1656)〉
常慶の長男として誕生。別名“のんこう”と称され、後に楽家歴代随一の名工と賞される。
本阿弥光悦と交流が深く、光悦の手造茶碗の製作にも釉の調合、陶土の提供等、深く関与している。道入の作風は光悦の影響もあってか長次郎の作品とは対照的にこれまでには見られなかった造形的で表現性豊かな斬新なものである。釉薬の改良、新たな技法、加えて楽焼焼成の窯構造の確立も道入によるものであった。
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四代 一入 〈寛永17年(1640)〜元禄9年(1696)〉
道入の長男。一入より代々、吉左衛門を名乗る。元禄4年(1691)剃髪隠居して一入と号す。
作風は若い時代に見られる道入の影響を受けた大らかなものから晩年に向けて長次郎茶碗のわび思想的な作風へと変化する。釉技として黒釉に朱色の釉が混ざりあう“朱釉”を確立。在印茶碗は大変少なく、一入より始まる共箱も現存数はごく僅かである。
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五代 宗入 〈寛文4年(1664)〜享保元年(1716)〉
雁金屋三右衛門の子として生まれる。尾形光琳、乾山とは従兄弟。一入の婿養子となり元禄4年(1691)五代吉左衛門を襲名。宝永5年(1708)剃髪隠居して宗入と号す。
利休没後100年を期に利休回帰の機運もあってか宗入は装飾性を排した長次郎茶碗の追求に向かう。そのなかで宗入独特の“かせ釉”と称される独自の作風を確立している。また、50歳の時に半白の祝いとして製作した200碗に夫々、覚々斎が銘を付したものが“癸巳二百之内”、“宗入二百”“癸巳茶碗”などと称されている。楽茶碗での数物の最初である。
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六代 左入 〈貞享2年(1685)〜元文4年(1739)〉
大和屋嘉兵衛の子として生まれる。宗入の婿養子となり宝永5年(1708)六代吉左衛門を襲名。享保13年(1728)剃髪隠居して左入と号す。
左入はこれまで一入、宗入と続いた作風とは変化して自由な作行きを示している。それは左入が生来持ち合わせていた巧みさからであろう。作品として特に名高いものに“左入二百”と称されるものがある。これは享保18年に製作されて、如心斎が夫々に銘を付している。さらに享保13年、隠居の年にはこれまた名高い覚々斎の手づくねの五十碗“流芳五十”を焼いている。
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七代 長入 (正徳4年(1714)〜明和7年(1770))
左入の長男。宝暦12年(1762)八代吉左衛門を襲名。明和7年(1770)剃髪隠居して長入と号す。
長入の作風はたっぷりとした大降りでやや厚めで豊かな手取り感のあるもので大らかな人柄を想像させる。黒楽は光沢の強い漆黒のものが多く、赤楽は白みの強い薄赤色から赤みの強い色まで多種である。また、長入の特徴として香合、置物といった脇の道具も多数制作していることが挙げられる。
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八代 得入 〈延享2年(1745)〜安永3年(1774)〉
長入の長男。宝暦12年(1762)八代吉左衛門を襲名。明和7年(1770)剃髪隠居して佐兵衛と号す。得入の名は没後25回忌の際におくられたもの。
得入は若くして病死したため伝世の作品は歴代の中で最も少ない。ほとんどは代を譲る25歳までの若作と思われ、長入の作行きの影響が伺えるが初々しい感じの愛らしさのある趣の作風である。
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九代 了入 〈宝暦6年(1756)〜天保5(1834)〉
長入の次男。兄の得入が病弱なために25歳で隠居したため明和7年(1770)14歳で九代吉左衛門を襲名する。文化8年(1811)剃髪隠居して了入と号す。
了入の65年にわたる長い作陶生活は極めて旺盛で、年齢を追って様々な作行きを展開している。特に隠居後は自由闊達な作風を表す。また、これまでの手づくね技法における篦削りを装飾的な造形に用い始めたのは了入に始まる。後の代に大きな影響を与えたといえよう。
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十代 旦入 〈寛政7年(1795)〜安政元年(1854)〉
了入の次男。文化8年(1811)十代吉左衛門を襲名。弘化2年(1845)剃髪隠居して旦入と号す。
旦入の作風は父・了入の篦削りを主体とした作風を進化させたものであるといえ、窯変による鮮やかさは赤楽茶碗において際立っている。また文政2年(1819)よりたびたび紀州へ下り、徳川治宝侯、斉順侯のお庭焼きである偕楽園窯、清寧軒窯に奉仕している。このことは楽家にとっては大変意義深い出来事であった。
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十一代 慶入 (文化14年(1817)〜明治35年(1902))
丹波亀岡の酒造家・小川直八の子として生まれる。旦入の婿養子となり、弘化2年(1845)十一代吉左衞門を襲名。明治4年(1871)剃髪隠居して慶入と号す。
慶入の時代は幕末明治維新という茶の湯をはじめとする伝統芸能衰退の時代であった。その逆境の中で75年に及ぶ長い作陶を送り、茶碗以外にも茶器類・置物など歴代の中で最も多様な作域を示している。技量、教養も高く、茶の湯では表千家より皆伝を受けている。
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十二代 弘入 (安政4年(1857)〜昭和7年(1932))
慶入の長男。明治4年(1871)十二代吉左衞門を襲名。大正8年(1919)剃髪隠居して弘入と号す。
弘入も父・慶入と同じく伝統文化の衰退期で晩年の茶道復興期までは苦労の日々を送った。弘入の作風は特に生涯を通して一貫したもので、独特の篦使いが特徴的な造形である。
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十三代 惺入 (明治20年(1887)〜昭和19年(1944))
弘入の長男。大正8年(1919)32歳で十三代吉左衞門を襲名。覚入が戦争に出征中に他界したため、隠居することはなかった。
惺入は戦争の多い時代で作陶生活にも不自由が多かったと思われる。作風自体もおとなしいものが多いのもその辺りの事情からであろう。反面、釉薬の研究に熱心で“鉱石釉“などの新しい試みも盛んに行った。また、当時の千家や職方の様子などをまとめた茶道雑誌”せせらぎ“を発刊している。記録の少ない時代でもあり今日では貴重な資料となっている。
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十四代 覚入 〈大正7年(1918)〜昭和55年(1980)〉
惺入の長男。昭和15年、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業後に第二次世界大戦に従軍。その出征中の間に父・惺入が死去したため楽家で初めて当主不在の時期が発生する。昭和20年に帰国し、のちに十四代吉左衞門を襲名。
覚入の作風は美術学校で学んだ彫刻が骨格となっており、これまでの歴代の作行きとは一線を画す。立体的な造形の削りによくその特徴が表れている。晩年の赤楽茶碗等に見受けられるモダンな釉景は伝統に現代性を融合させた覚入独特なものである。 また昭和54年(1978)には財団法人楽美術館を設立して楽家に伝来した歴代作品や関係資料を一括寄贈し公開するようにしたのも大きな功績である。
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十五代 吉左衞門
覚入の長男。東京芸術大学彫刻科卒業後、イタリアローマ・アカデミア留学。昭和56年(11981年)十五代吉左衞門を襲名。
当代の作風は、伝統に根ざしながらも現代性へ歩み寄るもので“焼貫”など特有の技法によりこれまでに無い表現性豊かな前衛的なものである。日本国内外で数々の賞を受賞し、単なる職人としてではなく「陶芸作家」としての評価も高く、伝統に根ざしながらそこに安住することなく常に斬新な感覚を示す造形美の世界を表現し続けている。
☆1月25日(土) 孫の子守(TT)
息子夫婦がそれぞれ今夜、新年会と送別会で孫の子守を頼まれました。 1泊2日です。 私の義母は大喜びですが私たち夫婦は食事とお風呂の世話でてんてこ舞いです。 それでも孫はかわいいですが・・・
☆1月23日(木)2014年KJOB会関西有志新年会(TT)
関西有志による新年会を江坂の音羽茶屋で(午後6時30分から午後9時過ぎまで)開催。 当初、9名参加の予定でしたが突然の予定が入ったり体調を崩された方がいて7名の参加になりました。 JKさんだけ帰ってしまってから写真を撮るのを忘れていて急遽、江坂の東急ハンズ前で撮影しました。 撮影した私と先に帰られたJKさんが写っていません。 JKさん。申し訳ありませんでした。 皆さん、お元気そうでお酒も入って予定時間を超過して朗らかに楽しく歓談されました。 これからも関西有志による新年会か忘年会を年に一回は開催しようということになりました。 参加していただいた皆さん、お元気でまたお会いできるのを楽しみにしています。
大きな写真は画像フォルダの拡大版で見てください。
☆1月22日(水) JAF Mate 1・2月号(TT)
JAF Mateの1・2月号は私の好きな日高の海が見える牧場の写真が表紙です。 撮影はあの有名な立木義浩さんです。 午年にふさわしい北海道の牧場を選ばれたのでしょう。
☆1月16日(木) 友人夫妻との新年会 (MK)
先週のことですが、二人でダンスレッスンを受けている仲間のお友達に、新年最初のダンス会が終った後にご招待を受けて自宅に呼ばれて新年会をしました。 ダンスをし始めてから私たちの一番気が会うお友達夫妻です。 このご夫妻とは旅行をしたり、我が家で宴会をしたり、外食して呑んで盛り上がってカラオケスナックで2次会を楽しんだりしています。 家庭で一緒に宴会をやったりするような気のおけるお友達夫妻はこの方たち以外には居ませんが、それは夫婦で、4人ともダンスが出来て、お酒が飲めて、カラオケが楽しめるのが気が合って長続きしている条件のようです。
奥さんのお母さんの郷が土佐の高知だそうで、400年の伝統を誇る造り酒屋の「司牡丹」酒造とも先祖が関係が深かったというお話を聞きながら、そこから送って来たと云う「原酒純米大吟醸デラックス」を振舞ってくれました。
その薀蓄の話の中で司牡丹酒造は坂本竜馬の本家と関係があるという話に花が咲いた次第ですが、そのお酒は実に切れと香りの良い 旨い酒でした。 後で調べてみたら、たしかに司牡丹と坂本竜馬は関係があったことがわかりましたが、賑やかに4時間以上の楽しい宴会でした。
●坂本龍馬と司牡丹
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司牡丹酒造、竹村家の屋号は「黒金屋」と言い、慶長8年(1603年)より佐川の地にて酒造りを営んでいました。一方、坂本龍馬の本家「才谷屋」も、質商・諸品売買などと併せて酒造りを営んでいました。「才谷屋文書」によると、才谷屋と佐川の酒屋との間には頻繁な交流があったことが記されており、竹村家には天保2年(1831年)、黒金屋弥三右衛門が才谷屋助十郎から酒林壱軒(酒造りの株一軒分)を買ったという書状が残っています。また、黒金屋弥三右衛門の母親は才谷屋から嫁いでおり、一方、才谷屋八郎兵衛の母親は家系図によると「竹村氏の女」(黒金屋竹村家との血縁は不明)となっています。 つまり 「才谷屋」 と 「黒金屋」 は姻戚関係があった可能性があるということなのです。 さらに極めつけは、竹村本家には坂本龍馬の手紙(慶応2年3月8日、甥の高松太郎あて) も所蔵されており、代々受け継がれているのです。
そして、佐川の地は維新の志士を数多く輩出いていること、龍馬の脱藩の道に当たっていること等を重ね合わせれば、「才谷屋」と「黒金屋」、坂本龍馬と司牡丹の関係は、因縁浅からぬものがあるといえるでしょう。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」の中にも登場し、司牡丹は龍馬が飲んだ酒として知られていますが、実際は龍馬の時代には司牡丹の酒名はまだ付けられていませんでした。もちろん酒名はまだでも黒金屋の酒自体は存在していた訳であり、前記の通りの因縁の深さから考えれば、当然龍馬もこの酒を飲んでいたことでしょう。 |
☆1月15日(水)石切神社初詣(TT)
お天気もよく例年通り石切神社に初詣に行ってきました。 三が日は車が停滞するので平日の15日までに行くのが正解です。
☆1月13日(月)大神神社へ初詣(YN)
松の内最後の祝日に大神神社に遅まきながら参拝して来ました。2014年の干支は午、新しい気持ちで家内安全、健康祈願。年明けから2週間余り過ぎましたが、三輪さんのごりやくをお願いに大勢の参拝者で混雑していました。
☆1月13日(月)マイネルジェイド号、迎春ステークス優勝(TT)
マイネルジェイド号が中山競馬場で行われた迎春ステークス、2500m芝(1600万円下)を優勝し3連勝。 見事オープン入りを果たしました。 これで天皇賞や重賞レースに出走する可能性が出てきました。 下のサイトアドレス(Youtube)で最後の4コーナーから外側をまくっていってゴールする映像を見ることができます。
http://www.youtube.com/watchv=582MLwYXzfk&feature=youtube_gdata
☆1月3日石清水八幡宮参拝(TT)
(京阪電車、八幡駅下車徒歩15分。 ケーブルカーで数分。)
今日は良い天気に恵まれて気持ちの良い初詣をすることができました。 ケーブルカーがありますが私たちはいつも健康のために石段を歩いて上ります。 今日は万歩計持参でしたので上り下りで約3500-4000歩くらいでした。 歩数は少ないのですが階段ですので結構足にきました。
☆2014年1月2日、家族全員集合(TT)
甥っ子一人だけが正月休みで孫二人を含めて合計で13人が集まりました。 乳幼児二人が愛嬌を振りまき、ゆっくりと大人だけの話ができませんでしたが、笑いの絶えない初笑いで今年をスタートすることができました。 記念写真には亡き義父も一緒に収まりました。
KJOBの会員の皆様、あけましておめでとうございます。
北日本では嵐になるようですが関東以西は穏やかな新春を迎えました。 今朝の晴天下の富士山のライブカメラの映像を添付しました。 2014年午年の皆様のご家族のご健康とご多幸をお祈りいたします。 今年も皆さんの投稿で、このブログで盛り上がることを願っています。 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます、
2014年1月1日午前7時20分頃の富士山
7時40分頃
今年は午年、私の趣味の年でもあります。 昨年はリアルインパクト号が有終の美を飾る重賞勝利。 今年もこの馬のようにゴール目指して頑張りたいと思います。 写真、栄光のゴールを目指して最後の力を振り絞り駆けるリアルインパクト号とライアン・ムーア騎手。(12月23日、阪神競馬場、阪神カップG2)