KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

だってDV体質なんだもん

2008-01-24 11:59:06 | わたし自身のこと
昨日、「DV講演会」中止事件のことを書いたら、
「kimistevaという人は、DVの話題に関しては随分と「熱く」なってしまう人なのだなぁ」というメールをいただいたので、わたしの記事を相対化するためにもここで言い訳を。

そりゃ、熱くもなりますわ。
だって、アタシ、DV体質なんだもん。

わたしでなければできないことがある。
正確に言えば、ある社会問題に対して、当事者が言わなければならないこと、当事者が語らなければならないことがある。
前の記事は、当事者(といっても「DV被害者体質」とよく言われるだけですが)として、こういうことを言わなければならないだろうなぁ、ということを当事者としての生の感覚で書いたものです。


そりゃ、いくらでも第三者的な立場から客観的に語ることだってできます。
でも、それはわたしの仕事じゃない。
女性議員たちやフェミニストの学者たちがそんなこといくらでも論じているし、それを今さらわたしが繰り返したところで意味はないと思う。


DVに限らず、ハラスメントって被害者は本当につらいんですよ。

何が一番つらいって、「自分が悪い」「自分に罪がある」と思いこんでしまうところがつらい。
自分の思うことや考えることがすべて間違っていて、
だから相手は自分のことを罵りつづける。
でもその相手は少なくとも過去には自分のことを愛していてくれたはずだし、
きっとわたしが「良く」なれば愛してくれる。
わたしが「悪い」から愛してくれないんだ。

・・・とこう思うことがどれだけつらいことか。
「お前みたいな男、こっちから願い下げだー!」とスッパリ縁を切ることもできないし、かといって永遠に関係が回復する見込みもない。
なぜなら、「わたしが悪いから」。


内田樹氏は田口ランディの言葉を引用して、ハラスメントを「呪いのコミュニケーション」と呼んだ(内田樹『子どもは判ってくれない』)けど、それは本当に言い得て妙だと思う。
DVを含むハラスメントの被害者は、「弱い酸に浸されるように」ゆっくりじっくり自分の心を壊されていく。
反撃することも、拒否することも許されず、とにかく縛りつけられ動けない状態で呪いの言葉をかけられる。


DV防止法関連のサイトに掲載されている「DVとは?」の項目には、雑多ないくつもの項目が並べられているけれど、それらに共通するのは、そういう「呪いのコミュニケーション」。


でも、呪われたもののつらさは、誰にもわからないし、
呪いをかける者は「呪いをかけている」自覚すらない、というのがハラスメントの恐ろしいところで、だからこそ、DVもハラスメントも当事者(厳密に言えば被害者)以外の人々にとっては、「よくわからないもの」「得体の知れないもの」としか映らないのだと思う。


だから、せめて「呪い」をかけられた人の絶望感がわかる人間として、
「当事者以外の人間に何がわかる!」と熱く叫んでおくことは大切だと思ったわけです。