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KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

清水義範『清水義範の作文教室』

2007-06-20 16:40:50 | 
日本のいわゆる「国語科」教育の中で、
わたしに唯一興味のある内容は、「書くこと」の教育です。
自分自身も小論文やらレポートの書き方を専門学校生に教えていることもあり、
作文教育には一定のポリシーがあります。
でもなかなか、そんなポリシーを認めてくれるような作文の本はありません。

わたしが作文教育…「書くこと」の教育でもっとも大切だと思っていること。
それは、学生たちの中にある、内なる「作文の規範」なるものを打ち破ること。
「何を書いてもいいんだ」って思ってくれることです。
できれば、それが「書くこと」の楽しさの発見につながってくれればな、と思います。

そんな中、
この前、たまたまパートナーが発見してくれた本がこれでした。
生徒たちの実際の作文が掲載してあることもあり、とてもおもしろい本です。
わたしにとって、
もっとも興味深いもの、おもしろいものは、人間が成長していく姿ですが、この本にはまさにそれがあるのです。
そういう意味で、下手な小説よりすごくドラマティックだし、毎日読んでいても飽きません。

裏表紙や前文において、
この作文教室のポリシーは「ほめほめ作文教室」と紹介をされているようですが、それはこの作文教室の一部でしかないような気がしてなりません。
ただ「ほめる」だけなら誰でもできますが、
それぞれの作文の良いところを見つける…その視点を先生が持っているってことがものすごいことなんじゃないかなぁって思います。

この本を読んでみればわかりますが、
ヘビが出るか蛇が出るかわからないような子どもの作文ひとつひとつに、「もっともだ」と思えるような、ほめるべき要素をみつけるのってひとつの才能ですよ。
教師の側がかなり、ほとばしるような頭の良さを持ってなきゃできないと思いますね。
そういう意味で脱帽!

わたしも、そんな作文教師でいたいなぁ。
少なくとも、今のところは、学生たちにそういう変な頼りがいのある存在としては見られているようですが。

果てしなく透明な僕:千原ジュニア『14歳』

2007-02-07 17:36:56 | 
先日、池袋のジュンク堂で待ち合わせをした。

二人で、エスカレーターで1階に降り、そのまま外に出ようとしたとき、
あまりにも大きなスペースに一面、淡い赤い色が映り、そこに

千原ジュニア『14歳』

…と書かれていて、一瞬、時がとまってしまった。

「どうしたの?」と聞かれ、
「ううん。なんでもない」といつものように答える。
そして、そのまま外に出る。


わたしにとって、千原ジュニアはそういう存在の人なのだ。
わたしが人知れず、心の中で大切に大切にしている価値をそのまま持っていた人。
でも、きっと今は違う。
違う……とわたしは思ってる。
少なくとも、今、多くの人たちが見ている「千原ジュニア」は、わたしが大切にしている千原ジュニアではないのだ。


千原ジュニア『14歳』は、14歳のときの自分をモデルにした自伝小説だそうだ。

「自伝小説」というスタイルを彼がとったこと。
それは、彼なりに過去を「フィクション」としてしまいこんでしまいたいということなのだろうか。
もう、これからは今の「千原ジュニア」のまま生きていくつもりなのだろうか?

「トンガッテ」いた、果てしなく透明だったあの頃の自分を封じこめて?


…そんなことを思っていたら、この前、わたしの担当する授業の朗読プレゼンテーションで、ある生徒が『14歳』を朗読してくれた。

その朗読は、とてもとても長くて、
一人あたりの時間は7分までと決まっているのに…それでも皆、5分も話せずに教壇を降りていったりするのに…その子はずっとずっと朗読を続けていた。10分以上は朗読していたと思う。

ジュニアの書いた言葉を、淡々と、朗読しつづける。

彼女は、途中で「アハ。長いかな?飽きちゃったよね?」と朗読をとめて、
聴いている生徒を見た。
すると、前から3列目に座っていた生徒が、

「…ううん。おもしろい。おもしろいよ。もっと聞かせて。」

…と言った。
それを聞いて、彼女は安心して、また続きを朗読しはじめた。
千原ジュニアの言葉を淡々と。

信じられなかった。
こんなこと初めてだった。

千原ジュニアの言葉には不思議な力がある。
その力を、わたしは人生の中で、2度も味わうことになってしまった。

1回は妹の日記。
2回目が今回。

いったい、彼はこれからどうなっていくのだろうか。
わたしは彼の行く末が気になっている。

「わたしは清少納言の生まれ変わりだ!」:「少年少女古典文学館」シリーズのこと

2006-11-09 11:00:59 | 
「少年少女古典文学館」シリーズを知っているだろうか。
現在では、いろいろな図書館で見かけるようになったので、
ちょっと、本に興味のあった少年少女時代を送った人なら、見かけたことくらいはあるのではないかと思う。

もし、このシリーズがなかったら、
わたしはこれほど文学としての日本の古典を好きにならなかっただろうし、古典教育にこれほど忌避感を持つこともなかっただろう。

このシリーズの面白いところは、なんといっても訳者(すでに「作者」と言ってしまった方がいいかもしれない)にある。

「竹取物語」を俵万智が担当し、
「とりかへばや物語」を田辺聖子が担当し、
「源氏物語」は瀬戸内寂聴である。

…ここまでは、まあ、わかる路線として、

「能」の別役実。「狂言」の谷川俊太郎
「おとぎ草紙」の清水義範。

…あたりになると、すごい人選だなぁと思えてくる。

個人的にもっとも評価が高いのは、
「南総里見八犬伝」が栗本薫というところだ!
えらい!!よくわかってる!編集者!
そうだ!「南総里見八犬伝」はヤオイチックなファンタジー・ロマンスでGO!

もちろんこんな人選なので、
わたしたちが普段、教科書なんかで目にするような、無味乾燥な「古典」作品ではなくて、まさに現代的なファンタジー、現代的なエッセイや物語として、古典を読むことができる。

このことが、このシリーズの最大の価値であるとわたしは思う。

わたしの経験を言うと、実はわたしが初めてこのシリーズに触れたのは、
大庭みなこ「枕草子」だった。

この「枕草子」は衝撃だった!…ある意味では「桃尻語訳 枕草子」よりも衝撃だった。
なんだか、清少納言が知的にキャピキャピしていて、ステキなのだ。
「桃尻語訳」は、ただ単にバカっぽくキャピキャピしているから、(わかりやすいし親しみやすいとは思うけど)あんまり好きではない。

清少納言ですから!日本の天才エッセイストですから!…やっぱり知的にキャピキャピしていてほしい!

「あたしぃー、やっぱり春は夜明けが一番カナ…って感じ」
…ではなく、
「わたし、やっぱり春は夜明が一番だと思う。もうホントに美しいと思う。あの雲のたなびく感じとか、すごく感動する。風情があるよね。」
…という感じであってほしい。

…このビミョウな違いがわかっていただけるだろうか…??

わたしは小学六年生のときに、知的にキャピキャピする清少納言に出会って、
「ああ!わたしは清少納言の生まれ変わりだ!」…とよくわからない確信を持った。わたしは知的にキャピキャピした文章を書いていこう!それがわたしの使命だ!…と、当時は思ってた。
それほど、わたしにとって大庭みなこ「枕草子」は衝撃的だったのだ。

古典作品は「古典」である以上に、「日本国民の愛国心を育成する」以上に、何よりも、ステキな物語であり、エッセイであってほしいし、それだけの価値があるとわたしは思ってる。

少なくとも、わたしの文体の形成に、「枕草子」は大きく関わっていると思うよ。
「エッセイ」というジャンルがあることを教えてくれたのも、「枕草子」であり、清少納言だ。

「私にも覚えのある感情だ」:高河ゆん『アーシアン』

2006-10-12 19:21:32 | 
昨日、ふとアパートの本棚を見たら、
高河ゆん『アーシアン』1~5巻があることに気付きました。

そういえば、気まぐれに立ち寄った古本屋で見つけて、5巻セット500円だったので衝動買いしてしまったのでした。

『アーシアン』。
この作品がなければ、わたしはヤオイの世界を本格的に知ることはなかったと思います。
ヤオイを愛するすべての少女たちが、初めてヤオイに触れたときに衝撃を受けるように、わたしにとっても『アーシアン』は衝撃の作品でした。

こんな世界があったのか!
…と、言葉にしてしまえば簡単ですが、
まだ10代前半、周囲の女の子たちは、バレンタインに誰にチョコレートをあげるとかあげないとか、体育祭で誰と誰が付き合いだしただとか、そんな話をしているまっただ中です。
そんなときに、『アーシアン』を読んだ、という経験は、わたしにとって非常に大きな意味を持っていました。

あの時、わたしが感じていたある種の優越感。
それは、きっとこの作品によって形成されていたのだと思います。

ボーイ・ミーツ・ガールのありきたりでパターン化された陳腐な恋愛を乗り越えた、その先にある世界を、わたしは『アーシアン』に見いだしていました。
そして、その先にある世界を知っているわたしは、わたしの周囲にいる誰よりも美しく、透明な世界に生きているという自信がありました。

そして、その美しく、透明な世界を共有する友人たちと一緒にいる時間が、わたしにとっては陳腐な日常から抜け出ることのできる、ステキな時間でした。
中学校は嫌いだったけれど、友人たちとともに、高河ゆん『アーシアン』や尾崎南『絶愛-1989-』を共有する時間は、すごく透明で、高貴だった。

『アーシアン』の中のあるシーンを見たとたん、
そんな、わたしたちの透明で壊れやすくて、だから美しかった共同体のことを思い出してしまいました。


「私にも覚えのある感情だ」
それが、そのシーンのセリフです。

ある男性の天使がある男性の天使を愛してしまう。
だけど、その天使の世界では同性愛は死罪。
男性の天使を愛してしまったその天使は、その天使と離れたくない、と大天使にいう。
そのときのその大天使のセリフです。
(…どうでもいいけど、こうかくと、あの世界の美しさの片鱗も伝わらない。)

「私にも覚えのある感情だ。」
このシーン…、わたしたちの間でかなり流行しました。
今でもセリフを覚えているくらいですから。

減少する出生率。
死をまねく大病の流行。そして…背徳的な欲望。

すべてが破滅へと向かっていく…その中でのこのシーン。

わたしたちは、言語化できないままに、そのシーンの美しさに酔いしれていました。あの美しさは、当時のわたしたちでは触れることすらできない、遠い遠い世界の美しさだったのかもしれません。

誰が何を言おうとかまわない。
わたしは、やっぱり、わたしなりの美しさを愛してる。

発狂する日本語ブーム:『使えないと恥ずかしい敬語200』

2006-09-23 13:38:57 | 
昔から、「日本人って不思議だなぁ…」と思うことのひとつに、「日本語」に対する異様な執着心がある。

執着心というより、むしろ「囚われ」といってもいいくらい。いや、もはや「依存」の段階なのか…?
そのあたりは、よくわからないが、
ともかく、毎年ものすごい冊数の「日本語の常識」やら「敬語の常識」やら日本語のマナーに関する本が出版され、それがものすごいイキオイで消費されている。

日本文学の人気は衰退の一途をたどっているように見えるのに、日本語学はいつまでも元気そうだ。
日本語学者は今日も元気に「日本語の常識」の本を書く。「敬語」の本を書く。
複雑な「敬語」のしくみをカンタンに説明できるようになれば、それだけで何冊もベストセラーが書ける。

それってすごいことだ。

もし、これを読んでいる高校生で将来、文系の研究者になりたいと思う文系の人がいるなら、わたしは日本語学か国語教育をおすすめする。
(もちろん、これはただのアイロニーですよ。本気にしないように!…といいつつ、わたしは国語教育専攻なんだけど)

ともかく日本ってこんなに異常な国なのである。

「敬語」の呪縛から離れた人たちも、やっぱり自分の言語に執着する。
近代主義的な言語、すなわち、論理的(科学的)言語だ。
「その言葉の定義はなに?」「その話の展開は論理的じゃない」
…というセリフを日常会話の中でふつーに発する、多くの青年たち。

わたしの師匠T先生とそのまた師匠M先生は、国語教育の目的を「言語批評意識の形成」、すなわち、自らが用いる言語に対する批評的な意識の形成に求めているけれど、だとしたら、見事、わたしの師匠とそのまた師匠の国語教育の目的の半分は達せられたわけだ。
もはや狂気に近いほど日本人は自分の言語に執着してるよ。
何冊も本を買って、自分の話す言語を勉強しようとしてるよ。
めでたいね。

ただ、執着しすぎてるんだよね。依存しすぎてる。
もうほとんど、宗教的カリスマにべったり依存した信者のような状態だ。
「日本語の常識」=教義。「敬語」=聖典の御言葉。
それを拒否する者たちは、近代論理学を自分の教義におきかえる。
結局、自分が頼ることのできる、倒れない大きな柱を求めて右往左往しているだけだ。

そんな依存状態から離れること。それがもう半分の目標なんだと思う。
そう。どんな教義から距離をとって、自分自身の足で立って、ほんとうの自分自身の言葉で「批評」することだ。

だけど、そのもう半分の目標に誰も気付いてない。

みんな、大いなる教義が大好きだ。
それが日本という国家であれ、近代西洋であれ、自分を支えてくれる大きな柱が大好きなのだ。

みんなで共有できる、みんなでわかりあえる安全な場所をみんなが求めてる。
だって、「一人一人がバラバラな言葉を話したら、みんなわかりあえなくなっちゃうじゃない?」
…それが、そういう人たちからの意見としてだされる。

そんな、あなたたちに、わたしから言えることはただ一つだ。

「あなたは、すてきなユートピアにすんでいらっしゃるんですね。
だけど、本当に人間って、もともと、そんなにお互いに「わかりあってる」ものなんでしょうか?「わかりあってる」なんて幻想を抱いて人を傷つけるよりも、「わかっていない」ことを前提として、「わかりあおう」と努力する方が生産的ではないですか?」

…と、ここまで書いてきて何がいいたいかというと、
『使えないと恥ずかしい敬語200』という本を買った、というただそれだけの話なんですけどね。

権威による語り:香山リカ『<じぶん>を愛するということ 私探しと自己愛』

2006-09-07 17:59:21 | 
専門学校生に紹介したり、話題として提供したりするために、一般向けの心理学チックな本を読むことが多くなりました。

河合隼雄氏とか香山リカ氏など、高校生くらいの女の子が、ちょっと心につまづいてしまったり、頑張りすぎてる自分に気付いたりするときにふらっと立ち寄ってしまう本が多いですね。
だって、保育士や看護士を目指そうとする人たちって、「誰かのためにがんばりたい」人たちが多いんだもん。
他人の幸せと自分の幸せを混同しているような状態を、ちょっと、振り返ってもらうことってとても大切なことだと思うのです。

そんな次第で、ブックオフで100円だった、香山リカ『<じぶん>を愛するということ 私探しと自己愛』を読みました。

とりあえず、香山リカ氏の本を読んでいて疑問なのは、どうしてそんなに「わたしはすべて理解してます」…っていう感じの文体で書くのだろう?ということ。

やっぱり精神科医やカウンセラーって、どうしても、ある程度の権威性を示すことが必要なんだろうか?
それが文体にも表れてしまっているということなのだろうか?

この点でいうと、教育学者の方がまだ権威性を明示している分いいと思う。
香山リカ氏の怖いところは、「わたしはあなたの同じ地平にいるよ」と言いつつ、そっと権威の手を伸ばしていくところだ。
本を読み終わったあとに、彼女の意見を相対的に捉えて、「でも、わたしはこう考える」と自分の意見を述べることのいる読者が果たしているのだろうか?

香山リカ氏の本を読み終えたあとに、読者ができることは、彼女の妄信的な信者になるか、あるいは、まとわりつこうとする彼女の権威を「あたしは、香山リカなんて嫌い!」「こんなの香山リカが勝手に言ってるだけじゃん!」…ってつっぱねることだけだと思う。

つまり、まったく対話が生まれないのだ。
香山リカ氏は、精神科の専門家としての権威の中で語っている。
彼女の文章そのものの中には、文章としての説得力があまりないのだと思う。

だから読者は、彼女という権威的な存在に対して、反応することしかできない。
これって文筆家としてはどうなんだろうね?

個人的な意見を言うと、悩める人たちが自分のことを考えるための「資源」が増えていくことは良いことだと思う。
「アイデンティティ」も「自我」「超自我」も、「拒食症」も「アダルト・チルドレン」も、苦しいわたしの状況を救ってくれる資源だったことは間違いない。

だけど、それらの言葉はあまり権威性をもたない、どうとでも使用可能な言葉だったからこそ、わたしには意味があった。
わたしは別にエリクソンの信者になることもなかったし、フロイトなんてむしろ軽蔑してるくらいだ。

だけど、彼らが編み出した言葉は間違いなくわたしを救ってくれた。
だから、そういう「資源」だけを増やしていってほしい。
言葉や物語といった、さまざまに利用可能な「資源」だけが必要。
あとは、その人自身やそのまわりの人たちがそれを利用しながら、ゆっくり自分の物語を作っていけばいいのだと思う。

権威を示したら、その権威に追従したくなってしまうものなんだよ。人間は。
それはそれでいっときの救いや癒しをもたらすのかもしれないけれど、
それだけの責任を、果たして、香山リカ氏はたしてくれるのだろうか、と考えると、ちょっとそこに危ない落とし穴があるような気がしてならない。

エンターテイメントとしての精神病:小説『イン・ザ・プール』(奥田秀朗)

2006-09-05 14:01:39 | 
『イン・ザ・プール』の原作を読みました。

この作品って短編集だったんですね。さまざまな症状を持つ患者たち一人につき、一遍の短編小説がある。

だからこそ、それぞれの短編を読みながら、その症状を持つ一人一人の世界の中に入れてしまう。文体も、それぞれの短編小説の主人公である患者のモノローグによって進められていくので、それぞれの世界にすごく入りやすいという印象を持ちました。
いつの間にか、日常の隙間にある異常な世界に入り込んでしまう。
それが、すごく快感です。

精神病ってこんなに、エンターテイメントだったかしら?
と、ちょっと不思議に思ってしまうほど。

日常の隙間にある不思議な世界。
そんなファンタジックな何かが、あるようです。
………でも、それって確かに精神病の一側面であること。わたしはよく知ってます。

認知症のケアに関わるある方が、ある認知症の方について、「私には想像のできないような世界に住んでるんだろうなーって思うのよ。」としみじみと語ってくれたことがあります。

ふつーに生きてるわたしたちには見ることのできないファンタジックな世界。
そんな世界を生きている人々に対し、わたしたちは、一種の憧憬の念を抱かざるにいられないのではないでしょうか。

シャーマンや巫女など、そういう世界に通ずる人々に対して神聖性を付与してきた歴史はそんなわたしたちの憧れる思いが存在してきたという事実を傍証しているように思います。

そんなわけで、
「病に関わろうとする人なら一度は読んでおくべき!」
…と昔のわたしなら力説したでしょう。
ふだん「異なるもの」「異常」としか見ていない人々のありきたりな風景を表象した作品を、わたしはこれ以上なく、高く評価します。

新しい世界を切りひらくこと。
これまで見えていなかった複数の世界を顕在化させ、それぞれの世界の対話を促進していくこと。

これが、文章を書くものの使命だと思いますから。

少なくとも『イン・ザ・プール』は、わたしたちがふとした瞬間にはまりこんでしまう「異常」な世界と、ふつーの世界とが連続して存在していることを明らかにしました。
そういう意味で、この作品は間違いなく、新たな世界の可能性を示して見せたわけです。

「わたしではダメなんだわ」:他のだれでもないあなたという残酷さ

2006-07-05 14:14:55 | 
再び、小川洋子『やさしい訴え』のことを書かせてください。
2回も書くのはどうかと、思ったのですが、あまりにも強く、痛みと痕跡が残されてしまって、どうしようもないので、自分を整理するためにもう一度書きます。

人を好きになること、人を愛すること…って、
すごく残酷なことなんだなって思います。

別にJ.デリダを持ち出すまでもなく少し考えればわかることですけど、誰かを愛することって、他のすべて人々…あるいは多くの人々を愛さないことによって成立するんですよね。

こんな当たり前の事実に、残酷なまでに打ちのめされています。

すべての人に優しくすることはできる。
受け入れることもできる。
だけど、すべての人を愛することは、神のみに許された特権です。
わたしたち人間は、自分の限界をもって、特定の誰かを愛さなければならない。他のすべての可能性を切り捨てることによって。

優しくすることと愛することは、まったく違います。

絶望の淵にいる人、孤独にさいなまされ助けを求める人は、他ならぬ愛を求める。だけど、今のわたしにできることは優しくすることだけです。受け入れることだけです。
愛することはできない。

だって、わたしにはすでにこの上なく愛する人がいるから。
そのパートナーとの間にある二人だけの閉じた世界は、深いベールにかこわれていて、その中には他の誰も入ることができないんです。

つまり、残酷なことですが、わたしは他の人々をシャットアウトすることによって、わたしの愛するパートナーとの関係の中にいるということです。

別に悪いことをしているわけじゃない。
すべての人々に、このような限界はある。この限界はさけられない。
優しくすることも、受け入れることもできるけれども、愛することはできない。
わたしにそんな特権はない。

でもそのことは、きっと誰かを傷つけるでしょう。
「愛してほしい」と叫びつづける誰かを傷つけるでしょう。「誰でもいいから愛してほしい。今のわたしにはあなたが必要なのだ!」とどんなに強く叫ばれても、今のわたしはそれに応じることができないんです。

誰かを愛すること…ってそういうことなんですね。
特定の誰かに全身全霊をもって特権性を付与することの代償は本当に大きい。

「わたしではダメなんだわ」

誰もが隣に座れるシートが、わたしの横にあるわけではない。
わたしの隣にいるべき人は限られている。
そんな残酷さ。

「瑠璃子さんは楽器だった。でも薫さんは音楽そのものだった。」

2006-06-15 19:27:44 | 
また小川洋子の小説を読み始めてしまいました。
今度は小川洋子『やさしい訴え』です。

わたしは、小説を読むとき、けっこう解説から先に読んだりする(←邪道)タイプなのですが、『やさしい訴え』の解説の中に印象的な言葉がありました。

「瑠璃子さんは楽器だった。でも薫さんは音楽そのものだった。」

瑠璃子さんというのは、主人公「わたし」です。
(小川洋子の小説は「わたし」による一人称の語りの中で物語が進行します)

この小説は、繊細で完璧であるがゆえにチェンバロを弾くことができなくなってしまったピアニストの男性とその女弟子の薫さんとの暮らす場所に、瑠璃子さんが入り込むところから始まります。みんな、悲しい過去、つらい過去をもっていて、三人はそのそれぞれの傷を癒しあうようにそれぞれの関係を紡いでいきます。

そんな中で、瑠璃子さんは男性に心惹かれていくのです。
自分が作り出すチェンバロの音のように繊細な、その男性に。

瑠璃子さんは、その男性と身体的に結ばれるのですが、ある日、見てしまうのです。
その男性が、薫さんの前でチェンバロを弾く…その姿を。
誰の前でも弾けなかった…、そして、瑠璃子さんがどんなに頼みこんでもひいてくれなかったチェンバロを、その男性は弾いているのです。

その瞬間、瑠璃子さんは思います。
自分が身体的に結ばれているのとは、それよりもはるか遠くかなたのところで、この男性と薫さんとは結びつきあっているのだ…と。

男性は言います。
「彼女の前だと弾くことができる。」「だけどそれは自分でもなぜかわからない」…と。

このような物語について、音楽家でもある解説者が述べたことばが、これです。

「瑠璃子さんは楽器だった。でも薫さんは音楽そのものだった。」

わたしも音楽に長いこと関わってきたものとして、なんだか、とてもよくわかる気がするのです。

「彼女の前だと弾くことができる」…という、その関係性の美しさと、それゆえの残酷さが。

理由なんて誰にもわからない。もちろん本人自身にも。
あらゆる人間関係のスキルも「優しさ」も何もかものりこえて、ただ、「彼女の前だと弾くことができる。」
彼女がいることで、彼女という存在があるというそれだけで、フワリとすべてのものが開かれ、音楽そのものが流れ出てくる。

…そんな深く遠いところでつながりあっているような関係性。
誰もその関係性の中には立ち入ることすらできない。

それは、あまりに美しく、あまりに残酷です。

わたしは、わたしの愛する人にとって音楽そのものとして存在しているのだろうか。…そんなことを考えます。
そうだったらいいな、と思う。
誰にも立ち入れない、はるか遠くにある関係性を、わたしが開くことができるのだとしたら、それは本当に美しいことだと思うから。

もちろん、楽器であるとしても、それはそれで十分なのだけど。

受験科目としての「数学」/神秘なる世界としての「数学」:小川洋子『博士の愛した数式』

2006-05-23 12:38:37 | 
昨日も看護専門学校でした。

先週はけっこうあっさりした感じで朗読プレゼンテーションを行ってくれる学生が多かったのですが、今回は…本当に自分自身が悩みをもってきた軌跡と向き合った発表が多くて、本当にうれしかった。

その中の発表の一つが、小川洋子『博士の愛した数式』についてでした。
発表者の学生は、自分が受験で数学に取り組んでいた頃、この本と出会って、自分が今、受験科目としてしか見ていない数学に、こんな広い幸せな感動的な世界があったのだ…と気付いた、と語ってくれました。

実は、わたしもこの本が大好きです。

でも、わたしはこの本で朗読プレゼンテーションをする気にはなれなかった。
わたし自身に特異な経験に、あまりにもぴったりと寄り添っていて、それを言語化するのが躊躇われるのです。…ましてや、大勢の人の前で発表するなんて、とてもじゃないけれどもできません。

わたしにとって『博士の愛した数式』がそんなにも特別な存在である理由。

それは、あらゆる物語作品にどっぷりと浸かっていた中学時代を抜けた高校時代。
わたしにとって、唯一信じられる、他者と共有可能な言語が、
「論理」であり、「数字」であったからです。

『博士の愛した数式』の作者・小川洋子と藤原正彦との対談の中でも触れられていることですが、
三角形は誰が書いても三角形なのです。
「3」という数字はあらゆる文化のあらゆる社会にいる誰に聞いても「2」の次にある数字であり「4」の前にある数字なのです。

こんなに、完璧で美しい世界が、この世界に本当にあったのか…!と思いました。
高校時代「数学Ⅰ」「数学A」を受けていたことのことですね。

文化摩擦やエゴセントリック。
さまざまな現代社会に起きるゴタゴタした汚い事件とは、まったく無縁な世界で、数学だけが完璧な世界を創り上げているように思いました。

そして、「数学」を愛する人間は「美しさ」に対して、果てしないほど謙虚です。

中学校の数学なんて算数の延長線上ですから、
それでもまだ「期末テストで○○さんが何点とったらしい」…なーんてレベルの低い話をしてる。
でも、高校に入ったら違います。
特に、選択科目として数学をとった高校二年以降、「数学Ⅱ」「数学B」以降はまったくそれまでとはちがう美しい世界が実現されているように感じました。

そりゃ、大学受験やら内申点やらありますから、少しは点数の話もしますけど、選択数学の受講者の関心のほとんどは、

「誰がよりスピーディーに美しく解答を導き出すか」

…という点にありました。
だから、みんなセンター模試がキライ。
記述式の模試だと、なぜか、燃える選択数学受講者。
そして、模試結果が返却されると、最後の問題だけが注目されます。

「誰が一番美しい証明をしているか。」

そして、どんなに点数が高くても、その証明が美しくないと、負けた気になったりします(笑)
さらに、大学の基礎科目で数学をとったときには、そんな世界が常識になっていた…というのは、また後の話。

そのときのわたしにとって、
自分が他者とつながる手段は「数字」や「論理」でしかなく、
わたしが生きていける世界も「数字」や「論理」でしかなかった。
そして、あらゆる世界の真実が数字の中にしかないような気がして、毎日、ずっと数学の参考書と向き合ってました。

そんな青春時代を送ったわたしにとって、『博士の愛した数式』に登場する博士は、他人のようには思えないのです。あまりにわたしに近い人物。
きっと、わたしも記憶を失いつづける病におかされたならば、「数字」や「論理」の世界だけに生き、その世界の中で他者とつながろうとするのだと思います。