日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

中間地点

2017-06-24 23:09:35 | 不思議なお話
こんばんは。
今日は昼過ぎた頃から次第に雨となり、だんだんと本降りになってきました。
この辺りについていえば、待望の雨といえます。
ただし、明日は九州地方はかなりの雨量が予測されているようですし、注意が必要な地域もあるようですね。
朝日は見えましたが、その後は雨でしたのでその分写真はさほど撮れておりません。

                                

昨日、向こうの世界についてもう少し書いてみたいと書きましたが、自分で感じたことばかりですと、どうしても主観でしかものを見ていない
ようにも感じられると思います。
そこで今回は、自分ではない別の方が実際に体験したことをあげさせて頂こうと思います。
この方自身、幼い頃から人には見えないもの、感じないものを感じ取るほうだったらしく、その事で周りの人と自分が違うということが何となく
わかっていたといいます。
元々は信者さんのお宅の娘さんであり、その娘さん自身のことについてあれこれとご相談を受けておりました。
年月が経ち、その娘さんとの関わりの方が大きくなって行くうちに、自分とその彼女の歳の差はありましたが、人とは違うところがお互いに
あることで、どことなく家族ぐるみで話をしたりすることが増えていき、次第にその彼女と打ち解けて何でも話すようになっておりました。

そんな月日がかなり経ち、昨日話したように主人が倒れた時や、その後も幾度も入院したときなどは、ことある毎に何かと相談するようになって
おりました。
そうこうするうちに、昨日書いたように最後の病院へ主人が入院した頃から、その彼女が体験したことを述べさせて頂こうと思います。

                                 

ある日、彼女がたまたま一人でうちに居た時、主人が彼女のもとを訪れたそうです。
そう、当の本人はベッドの上でほとんど身動きすら取れずに寝ていた頃のことです。
その主人が、壁を通り抜けたのだか、窓をよっこらしょと跨いで入ったのか、ともかくも彼女の目の前へ現れたそうです。
最初、その姿、光景を目にした時は彼女自身、何が起こっているのか理解出来なかったといいます。
そりゃそうですよね、アニメや映画でもない限り、そんなことがあるわけも無いはずですから。
ですが、本当に突然、自分の目の前にその当時の主人よりもかなり若い風貌の本人が、ごく普通の元気な格好で現れたそうです。
驚いて声も出ない彼女に向かい
「やぁ、元気かの?」
と声を掛けた主人の肩には大きな風呂敷包みが担がれていたといいます。
それも、寅さんがもっていたような唐草模様のそれだったとか;。
この状況を理解できないものの、何とか声を発した彼女は
「この風呂敷、どうするんですか?」
とやっとの思いで尋ねたそうです。
すると主人は嬉しそうに
「これか?これはの、こっちへおる時のいらんもんを向こうへ持っていこうと思うての。母ちゃんやら息子がちいとでも困らんようにと思うてな。
 少しづつ、こうして担いで持っていこうと思うとるんよ。」
とニコニコしながら答えたそうです。
「はぁ、そうですか・・・。」
彼女はそう答えるのが精一杯だったといいます。
「ま、また来るけんの、じゃぁの」
と言うと、来た時と同様にスーッという感じで主人は壁の向こうへ消えるように見えなくなったそうです。
そんなことが、その後も二、三回はあったといいます。
そのいずれもが、不思議と誰も居ないときを見計らったかのようだったと後で気づいたとのことです。

最後は主人が逝く前、一週間くらい前だったといいます。
いつものように?壁を抜けてきた主人は、これまでにも増して大きな風呂敷を担いで登場したそうです。
「今回はかなり大きいですね」
と、これもまたこの状況に慣れてきていた彼女が聞くと
「うん、今日で終わりにしようと思うとるけん、こんな大きいのにしたんよ。こんだけ持っていってやったら、あれらも助かるじゃろうけんね。
 わしの仕事もこれで終わりじゃわ。あんたにも世話になったの。これまで色々とありがとうの。」
というと、その大きな風呂敷包みをよいしょと肩に担いで
「じゃあの!」
と言って帰ろう?としたそうです。
それを見て慌てて
「お気をつけてー」
と声を掛けた彼女に
「うん!」
とこれまた嬉しそうに笑いながら、じきに薄れるようにして見えなくなっていったといいます。

唐草模様のその風呂敷に、一体何を担いで「あの世」へと旅立ったのか自分達にはとんとわかりまねますが、本人にしてみれば残しておいては
いけないと思われるものを持っていってくれたのでしょう。
今でもそれが何だったのかは、やはりわからぬままではありますけれど。


                                  

実はこの話、主人の葬儀も終わり、五十日祭の後に(神道ですので四十九日ではなく、五十日祭となります)参列頂いた方々にお返しの品を
お送りさせて頂きましたが、その際に上記のようなことを文章にしたためまして、その品と共にお送りさせて頂きました。
生前の主人をよくご存じの方には「先生ならやりかねんね」と好意的に受け取って頂きましたが、そうでない方も当然おられ、そんな話には
触れることすらされない方がいらっしゃったのも事実です。
これもまた当然な話かと思います。 

話に登場してくれた彼女にこの事を聞いたのは、主人が逝ってしばらく経ってからでした。
悲しみが癒えぬまま、つい彼女にあれこれと話をさせてもらっているうちに、こんなことがあったんだよ、と私に打ち明けてくれたのでした。
最初は自分自身、まさかと思いましたが、いやいやあの主人ならその位の事はするだろう、と妙に納得出来たのでした。
息子にも当然、この話をして聞かせましたが
「あの親父ならやりかねんよ、でも出るんならまずは自宅に顔出さんとね」
とのたもうておりました。
自分もそう感じておりましたので、そう彼女に話すと
「家族のところに顔を出すのは、やっぱり難しいらしいよ、お互い(別れが)辛くなるから」
と答えてくれました。
夢とは違うのと、これもまた尋ねると、
「夢はまだ夢として認識するけれど、実際に目の前に出てくるとかなり狼狽するよ。こういう場合は他人の方がいいみたい」
とも話してくれました。

                            


「あの世」という話とは少し違うかと思います・
向こう側とこちら側のちょうど中間地点での出来事のようにも思います。
完全に向こうへ行く前の段階の話、とでもいえるでしょうか。
その世界、そこはもしかするとしんどさも苦しさもなく、案外楽しい場所なのかもしれない、そう思ったりもします。
自分自身が体験するには、まだしばらく時間が掛かりそうです。



今日もこんなブログにお付き合い頂きまして、有難うございました。
感謝申し上げます。





ご相談等、承っております。
 
  kimikimiblue13@gmail.com

此方の方へお知らせ頂ければと存じます。

   
コメント
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