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本来は、木彫り教室のブログでしたが。。。還暦を迎え自然農にはまり、自然からの恵みや日々の気づきを気ままに綴っております。

2021/08/16 50回忌

2021年08月16日 | 日記
こんばんは❗

今日は曾祖母の49回目の命日
50回忌ですが、33回忌で弔い上げにしているので、お寺さんのお勤めも法要もなく平常通り。😊

曾祖母や祖父との思い出を書きたいと思います。

曾祖母と一緒に暮らしたのは5歳まで。
父が名古屋へ転勤になり転居。
今は無き、宇高連絡船まで見送りに来た時の曾祖母は泣いていた。
紙テープが切れるまで握り締めていた。
私も辛く悲しかった

小学生5年生の時、担任の先生から曾祖母の訃報を聞いた。その時の事や、自宅で行ったお葬式の様子は今でも鮮明に覚えている。
悲しくて悲しくて辛いのに、女中のように接待に走り回る母に、「なんでみんな楽しそうに飲み食いするんだ💢」と言った事を覚えている。「それが曾祖母の供養になるんだよ」と言った祖母の言葉が理解できなかった。

後悔があった。

小学生になってから、帰省した時に会う曾祖母は、体調を崩し寝たきりになっていた。
一緒に布団に入ったり、手を握って枕元で学校の話をしたりして怒られた。
「疲れさせたらいかん」とすぐ部屋から追い出された。大事をとって安静にとの祖父の配慮だけど、曾祖母は淋しかっただろうと思う。もっと側でいてあげたら良かったと思った。

一緒に暮らしたのは、たった5年間だけで、あまり覚えていないけれど『三つ子の魂100まで』の言葉通り、曾祖母の刷り込みは強いように思う😅

私が生まれた時、曾祖父はすでに他界。
逆算したら、曾祖母は72歳。
父が27歳で祖父は51歳。若いお爺ちゃんです😁
72歳で、足の悪い乳幼児の世話は大変だっただろう…(股関節脱臼で矯正装具を着けていました)
曾祖母は、母をも大事にしてくれたらしい
きっと父が可愛かったのでしょう。

父は6人兄弟の長男。2番目は大阪で大学を出て就職。3番目は東京の大学へ行き家を出ていた。
父は家計を助ける為に、高卒で地方銀行へ就職。そこで母と知り合い結婚

昔はよくある3世代同居の大家族(笑)
母は嫁という名の女中😢
そんな時代だったのか、うちが変わっていたのかは不明💦

曾祖母と祖父母、高校2年と中学3年の叔父2人と中学1年生の叔母1人
それに父と母の7人家族の中に生まれた

久しぶりに生まれた私

上記の事以外で、曾祖母の事で覚えているのは、
よくトイレに連れていってもらった事
トイレと言っても、汲み取り式の和式便所
これは、ちょっとトラウマ(笑)トイレを我慢する癖がついてしまった😵💧

お寺や畑に連れていってもらっていたこと。その後いつもお菓子や、果物を分けていた事など、断片的にしか思い出せないけれど、大好きだった😊

曾祖母の顔は写真のイメージ。
眼差しは優しかった
祖母はよく笑う人だったけれど、曾祖母の笑顔の記憶はない。
表情で覚えているのは、鏡に向かい髷を結い直す真剣な表情。少なくなった前髪をすき終わったら、必ず頭を撫でて優しく「きれいな髪やなぁ…髪は女の命やけん大事にするんやで」と言ってくれた。几帳面な人だったように思う。

曾祖母は私を「佛さん子」と呼んでとても大事にしてくれたそうだ。
私には優しかったと思うけれど、妹には違った😔

妹とは年子。そのせいで曾祖母が私の世話をしたのかもしれません。
1歳5ヶ月違いの妹は、母以外には懐かず、泣くばかり。
今思えば、母の疲れや不安、ストレスを感じて泣いていたのだと思うけれど、当時は「癇の虫」が悪さをしていると信じられ、曾祖母にお灸を据えられていた。泣き叫ぶ妹を押さえ付け、灸を据える曾祖母は鬼に見えた。恐ろしくて逃げた。

そんな状態なので、母は妹専属
夜泣き、癇の虫に悩まされた母は、何度か妹を連れて死のうと思ったらしい。

でも、実母に「この子は将来あんたを救う子や。困らせた分エエ子になる。大事にしまぁせ」と言われて踏み止まったらしい。
育児ノイローゼにかかっていたのかもしれない。

無理もない。大勢が同居すというのは、メリットもあるけれど、プライベートは犠牲になる。共同生活には、みんな某か我慢を強いられる。ましてや家族というのは力関係がハッキリしている。
生計を握る祖父母は絶対的存在

「へんばせんようにな」
「みんな平等に分けるんやで」
「へんばしょったらケンカになるけんの」

は、大家族のルールだったかもしれない。

お金は、全て祖父母の管理下にあったので、必要経費は出してもらえても、曾祖母や両親が自由に使えるお金はない。
さぞかし不自由だっただろう…😥

若い頃は、母を気の毒とは思ったけれど、どこかで母を憎み軽蔑していた。寂しさの裏返しとは言え酷い娘です。
母の味方は妹。母方の祖母の予言は当たっています😁

今は、その懺悔も込めて、母には残りの人生自由に楽しく暮らしてもらいたいと心底思っています✨

「あんたを妊娠中、牛乳が欲しくてたまらなかったけど、言えなかった」と今でも悔やみます。そのせいで私の股関節の骨の発育が悪かったのではないかと負い目を持っているようなので、
「違うよ。おばちゃんもそうだし、遺伝でしょ?仕方ないやん。お母さんが悪いんとちゃうやん」と慰めたつもりが…
墓穴を掘った💦
「やっぱり私が悪いんや⤵️⤵️⤵️あんたの病気(膠原病)も私の血筋が悪いんや😭💦💦」
めんどくさ~😰

でも、親だからこそ娘の不憫は辛いのでしょうね…めんどくさいけど有難い✨
こんな母が可愛くイトオシイ💕以前は嫌っていたのに親子って不思議です。

祖父は兄弟が揉めないように、売却されないように、生前贈与で平等に土地を分けていた。それでも何も知らない叔父達は、祖父が亡くなったとき、同居で家賃も食費も払わず、親父に食わせてもらっていたのだからと、残った僅かなものも両親からとりあげていった😔
ま、確かに名義が叔父になってる上で私達生活していた訳だし…

父は、兄弟が揉めて疎遠になるぐらいなら手放す方がいいと放棄したので、今も穏便に関係は続いている
おかげで、こちらは維持管理費が底をつき頭が痛い😖💥


母は、私達との同居で不自由になる事を嫌っている。おかげで元気で頑張ってくれているので有難い事ですが…そろそろ限界?😁


父が相続した土地は、私達夫婦が住んでいるオンボロ借家。空襲前に家が有ったところ。空襲で焼かれ、畑にし、その後借家を建てた。建てる時の資金の為に敷地を半分売ってしまったことを、父は不満に思っているようです。
祖父としては、思い入れのある場所だったから、父に譲ったのに文句言われる筋合いはないと言っていた。
どっちの想いもわかるけど…

住み慣れた家は、2番目と3番目の叔父に贈与され、住み続ける事ができなくなり、両親は慌てて車で30分も離れた郊外に家を建てることになる😰

もう少し親子で相談すれば良かったのに…と思う。
祖父は県外へ出た息子達に戻って欲しかったのだ。一番先に売り払いそうな叔父二人に母屋を相続させたのは、売らせない為だと言っていたけれど…速攻売却してしまった😔

仕方ないと思う
借家の家賃収入は祖父母が受け取っていた。祖父は独断で、贈与税の負担を減らすため、小分けで生前贈与をし、贈与税の負担を免除してやったのだからと、贈与した土地建物の税金や家賃(不労所得)の税金は全て子ども達に20年以上負担させていた上に、祖母名義のマンションは、祖母が先に亡くなったため、祖母の口約束は守られなかった。
祖母の口約束を知らなかったのか、最後まで献身的に介護し看とる両親への感謝で気が変わったのかはわからないけれど、マンションを両親と私達家族に残した。叔父達が怒るのも無理はない。
祖父の私達家族への気持ちだけれど、私達は私達で、叔父達の不公平とのクレームと、いきなりの相続税負担に仰天することになる😰

ま、現行の贈与税は、親子3代で買い戻す位かかるので、土地の維持なんてたまったもんじゃない。築40年近いマンションは、自転車創業がせいいいぱい。
不動産が負動産と言われる所以
後10年経てば、別の問題が浮上する

農家さんだって、兄弟多くて平等に配分なんて言われたら、継続不可能でしょう…

その税金の使い道がもう少し納得できるものなら不満もないけれど、今の政府ではね…😩

おっと…ぼやきが入ってしまった😵💧


曾祖母は、とても倹約家でした。
紐や包装紙など全て保存
タンスの中には着物を解いた裂か何かわからないけれど、小さな端切れが沢山入っていた。
靴下やパンツまで継ぎを当てて履かされていました。魚の目ができるから靴下の継ぎは嫌だった😢

初孫と言えど、叔母のお古がほとんど。
でも叔母は可愛い服を持っていたようで…
古い写真はなかなかのファッション(笑)
ワカメちゃんです。時代がそうだったのか、倹約だったのかは不明
叔母は仕立ての服ばかりなので、貧しくはなかったと思う😝わからないけど…😁


名古屋へ転勤になって母は、私と妹にお揃いの服や靴を買い、休みの日には松坂屋など百貨店へ。抑圧の反動(笑)
名古屋での6年間は母にとっては天国だったようです。

母と妹はものの考え方がよく似ているけれど、私は曾祖母や祖父母の影響が強い

産まれた時から股関節脱臼で、3ヶ月検診の時に矯正装具を付けられた
1歳半過ぎるまで、ハイハイもつたい歩きもしなかったという。オモチャは洗濯ばさみだった。幼児の環境としては悲惨だけれど、大勢の家族の中で、いろいろな刺激があったから、今の私があるのだと思う。

物は与えられなかったけれど、きっとみんなに大事にされていたと思う😊

曾祖母から譲り受けたものは、物を大事にする事。何も無いところから何かを作り出す喜び。創意工夫と想像力。リメイクは楽しい。幼児期の遊びに由来すると思う。

倹約家なので、オモチャは与えられなかった。洗濯バサミで遊ぶ私には叔父がブロックを買ってくれた✨クリスマスの時に叔母が犬のぬいぐるみをくれた。それぐらい。
少し大きくなったら、おはじきやお手玉を作ってもらった。
叔母からもらった、ガラスのビー玉やおはじきは宝物だった。

曾祖母が畑で作業する横で、どろ団子作ったり、葉っぱを石の上で竹の包丁で切っておままごと遊びや、ダンゴ虫や蟻と遊んでいた。

物が無いから想像力が働いたと思う
無いことが当たり前だから、無くても平気。
両親や曾祖母や祖父母、叔父や叔母の愛情いっぱい受けたから、母や妹とは違う能天気な私がいる。

幼い頃疎外感があったのは、曾祖母や祖父母の存在ではなく、性格の問題だったのかもしれない。と思う今日この頃。

何はともあれ、能天気なキャラを授けてくれた曾祖母に感謝❤
自分を信じることができるのは、曾祖母が私を「佛さん子」と無条件に信じ見守ってくれたから。

今、改めて曾祖母に感謝します

そして、曾祖母の眼差しを子どもや孫達に伝えていこうと思う✨

長々とお付き合いくださいましてありがとうございます。
5歳までの記憶ってあるようで無いものですね。それでも人格形成の根幹に影響を与える。曾祖母に見守られた事。有難い事です。子どもにとって、環境は選べないだけに感謝です。



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