しっぽなのうつうつ

<宇宙(そら)>に魅せられて・・・
お写真、勉強中♪

記憶・・・

2015-08-15 16:48:52 | つぶやき

70年目の節目の時に、呼び戻される記憶・・・


少女は、まだ14歳でした。
生まれ育ったのは日本ですが、その時は、満州の女学校に通っていました。

父親は軍人、将校でした。

終戦の時、父親はソ連兵に連行されて、その後シベリア抑留されました。
ソ連とは、今のロシアのことです。

トラックに乗せられソ連へと連行される兵隊さんの中に、父親の姿がありました。
母親が大きな声で「あなた~!」と叫ぶと、父親が気づきました。
トラックが止まり、兵隊さんと家族達が別れを惜しみます。

夫婦は手を取り合い、少女の父親は「しっかり頼むぞ。」と言うと、
軍服に縫い付けてあったお金を取り、妻に握らせました。


少女は自分の家族や他の日本人と共に、ソ連兵に連れられ収容所へ向かいます。

途中、大勢で雑魚寝している夜中に、出入り口に近いところで寝ていた若い女性が、ソ連兵に連れていかれました。
戻ってくると、シクシクと泣いていました。

翌日の夜から、その場所に寝たのは、別の女性達。

「あたしゃ、商売でやってるから平気だよ。奥さん、奥に寝ていなさい!」

慰安所で働いていた女性達が、一般の奥さん達を奥に寝かせて、自分達がソ連兵の相手をしたのです。
慰安婦は、もちろん日本人です。
その行為は、そ~っと秘密裏に行われたました。
捕虜の婦女子を手にかけるのは、国際法に抵触するからです。

捕虜の女達は、生き延びるので精一杯。
兵士に凌辱されても、文句を言うことなど出来ません。


満州とソ連の国境近くに居た人々も、ひどい目にあったそうです。
少女は、収容所に辿り着いた人の話を聞きました。

ソ連兵に追われて、沼に逃げ込んだ集団の中で、乳飲み子が泣き始めてしまいました。
このままでは、見つかってしまう。
周りの人たちが、乳飲み子を抱いた母親を睨みつけます。
みな、捕まれば殺される、と思っているのですから、仕方ありません。

母親は、涙を流しながら、自分の子供を水に沈めたそうです。
鳴き声を、追っ手に聞かれないように・・・

そんなことをする必要は、無かったのでしょう。
でも、逃げて居る時の恐怖心は、冷静な判断能力を失わせるのです。



その後、満州の中国人の世話になりながら、帰国の時を待っていた少女。
貧しく、物資の無い状況。
極寒の中、知り合いの日本人は次々に凍死して行き、その遺体を爆撃跡の穴に運び入れました。
凍った土が硬くて穴を掘れないからです。
少女も手伝いました。

3才の妹も死にました。その子の遺体も穴に入れましたが、
土が凍っていて、何も上にかけてやることが出来なくて可哀想だった。


終戦から1年後、やっと引き揚げ船が出ると聞き、少女は家族と共に港に向かいます。
満員の列車に乗って、丸二日かけての辛い旅。
今度は7歳の弟が病に倒れます。
何日も乗船の順番待ちをして、弟はどんどん具合が悪くなって行きました。

「母さんはこの子と残るから、あんた達で船に乗って帰りなさい!」

少女は、2歳下のもう一人の弟と二人で船に乗り、母と下の弟を残して帰国する予定でした。

ところが、出航直前に病の弟が亡くなります。
急いで埋葬して、母親も船に乗りました。

船の中でも、死者が出ました。
皆、水葬・・・死体は、海に捨てられました。



やっとの思いで博多港に着いた少女。
そこから、父親の実家がある北海道へと旅を続けます・・・

父親の実家はお百姓。
少女は、学校に復学することを諦めて、畑仕事を手伝いました。
大地に触れ、自然に囲まれ、作物を育てていると、
辛い思い出に傷ついた心も、なんとか癒されて行きました。



父親は、シベリアの過酷な労働に耐え、26年の刑を10年に減免されて、
抑留から10年経って、無事帰国しました。
その時少女は、長男を産んでいて、父親に孫の顔を見せました。

父親は、帰国出来ずに死んでしまった子供達の面影を、孫に見ていたことでしょう。
その子達が眠っている場所は、もう、分からなくなってしまいました。


少女はその後、さらに3人の子供を産み、4人を育て上げたのです。

生きていたなら自分の兄弟姉妹と同じ人数・・・

男の子二人と女の子二人・・・



少女が生き延びてくれたお蔭で、今の私が居ます。


少女は、私の母・・・今年84歳になりました。





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3 コメント

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終戦 (masaayafigft)
2015-08-15 20:27:23
こんばんわ

終戦・・・70年

このところTVで放送される戦争
女学生の学徒動員・・・まだ中学生なのに
己の命よりも爆弾などの生産重視・・・アメリカ軍が空に飛んでいるのに知らせるのが遅い空襲警報

その時に亡くなった学徒動員は2500人

「お母さん」を呼んだでしょう友達と逃げたでしょう
まだまだこれからの未来が一瞬で消えてしまった日

子を失う気持ちは絶対にどの時代も同じだから
母の想いで「何で幼い子供達が犠牲になるかな」って
やるせなくて悲しくて・・・二度とあってはならない事!
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Unknown (しりとり ちー)
2015-08-15 23:31:44
これが戦争なんです。

だからどんな理屈が有っても、どんな大義名分があっても
戦争はやってはいけない。

悲惨な目に遭った人たちが大義を重んじていた訳では無い。むごいめに遭うのはいつも普通の人。

安倍さんも鳩山さんも、普通の人ではない。普通の人は、言葉を発することはない。
返信する
70年目の8月に (Wao)
2015-08-18 21:56:27
敗戦直後の中国東北部で邦人がなめた辛酸についてはよく見聞きしますが、「少女」がしっぽなさんの母上とあって格別の感慨に打たれ、特に御弟妹の死に粛然とします。
読み終えて、しっぽなさんという命の僥倖と、それ故にいや増す尊さとを思います。

自国民とアジアの諸民族にとってあの戦争が何をもたらしたのか。およそ自明であると思われる評価が未だに(というか、ますます)定まらないというこの国…。
「戦争法案」をめぐって声を上げる若い人たちに光明を見ていますが。

70年目の8月というときに、心に迫るお話を伺いました。
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