「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の交通の発達と変遷について、それが町を変えていったという話の続きである。
「いまの東京で市電・都電のおもかげをのこしているのは、早稲囲と三ノ輪を往復するひとつだけである。市中の路面電車がなくなってしまった今日でほ、貴重な残存物といわなけれぱ衣らない。それをめずらしがって、わざわざ乗りに行く人もいるほどである。」
東京の歴史を振り返るのなら、明治以降都市交通の主役が永らく路面電車であった事は基本的な話だ。バスが登場するのは震災後のことだ。そして、今ではどちらも地下鉄に取って代わられている。それでも、地下鉄は駅間が長く、乗車するまでに上下方向の移動量が大きい。輸送量のスケールが違うという根本的な問題を解決したことは確かだが、細やかで利用者に優しい特性を持っているのは、路面電車やバスであったことも確かだ。
そのメリットを活かす道を真剣に探ろうともせずに、モータリゼーションの前に邪魔者扱いして廃止へと追い込んでいったのが、あの時代であったとも思う。私は都電の全盛時はまだ物心付いていなかったのだが、廃止が大規模に推進されていったのは覚えている。
1977年都電荒川線王子駅前。すでに系統番号が廃止され、荒川線の表記に変わった後。

「荒川線の歴史を調べてみると、明治四十三年の創業である。北浜銀行をバックする大阪才賀商会の肝入りで王子電軌が設立された。東京の北の外郭部のわずか十六キロ余の計画路線だったが、その進捗はのろのろとしていたらしい。飛鳥山から大塚までが四十四年八月に開業、それからだんだん延びていって、全通は震災復輿時の昭和五年三月である。とすると、二十年もかかったことになる。その荒川線がどうにか温存されてのんびり走っているのは、雑音と排気ガスで窒息しそうな東京にあって、こころあたたまる風景である。」
関西資本でというのも面白いが、これも当時の大阪が未だ商都としての巨大な力を持っていたことにもよる。商業都市から工業都市に維新以降変貌を遂げていった大阪だが、資本の蓄積はやはり大きなものがあった。そして、王子電軌だが、この路線の建設に時間を要したのには理由がある。最初に開通した飛鳥山から大塚駅までは平坦な地形で、当時は郊外の趣の残る所だったことだろう。そして、三ノ輪から王子駅の手前の梶原、栄町までも開通するのだが、東北線の線路を潜り、飛鳥山の麓をぐるっと回り込んで行くようにして上っていくところの工事が難所であった。これが震災後の開通になるのは、明治通りの道路整備が行われて現在の道路の形がその時に出来た事に因むのだろうと思う。
また、この王子電軌という会社、一番メインのビジネスは電車の運行ではなかった。発電とその電気を一般家庭に販売するという電力会社であって、その電気で電車も走らせていたという方が正しい様だ。戦時統制で電力会社がまとめられ、電車も都電に吸収されることで王子電軌は姿を消したのだが、その路線が唯一の東京の路面電車の生き残りになったというのも面白い巡り合わせだと思う。
これも1977年の都電荒川線巣鴨新田付近。背景に建設工事中のサンシャイン60が見えている。開業するのはこの翌年のこと。

「そのころ、といっても昭和十年代のことだが、まだ郊外電車という言葉がつかわれていた。しかし、東武線、京成、京浜急行はちゃんとその名でよんでいた。というのは、わが家ではそれをつかうことが多かったからである。東武は母の郷里館林に行くときに、京成、京浜は潮干狩や海水浴に出かけるときに乗っていた。そのほか地元でいえば城東電車、城西・城北の京王帝都、小田急、東急、西武などほ、みなひっくるめて郊外電車だった。それほ学校の遠足とか遊園地行きの想い出につながる。」
郊外電車という言葉の響きには、新開地をゆく快速電車という雰囲気を感じる。震災で焦土と化した旧市街から、正に郊外という名にふさわしかった、周辺部へと大量の人口移動が起きている。この時期に都市化した所というのは、非常に多い。後にと伝に吸収される城東電車が、京王や小田急などと並んでいるのも面白く感じる。昭和初期の時点では、城東電車も京王も小田急もそれ程大きな違いのあるものではなかったと言えるのだろう。
そして、その家々の都合でよく利用する鉄道が身近で、馴染みのない路線は十把一絡げというのも、我が家でも変わらない風景だったと思うとおかしく思える。
「京王線は新宿の追分から出ていた。駅舎にはなんとなく華やいだ気分がただよっていた。新宿御苑の横に出て甲州街道を走るが、省線の陸橋(いまのJR新宿駅南口)を上るとき、電車はのろのろと、しかも力をこめている感じだった。道路中央を走っていた電車はやかて街道に隣接する専用敷地の線路にはいる。そのかたちは京浜急行と似ていた。東海道線をこえる八ツ山の陸橋からの風景がおもしろかった。」
京王線が新宿追分から出ていた名残は、今も京王のビルが建てられている事で分かる。私の母親に聞いてみても、彼女は港区に住んでいたが、やはり遠足で市電に乗って新宿まで貸し切り電車でやってきて、そこで京王に乗り換えたのを覚えているという。この頃の京王線は、路面電車と変わらないものだったようだ。ちなみに、レールの幅を軌間(ゲージ)と呼ぶのだが、JRを始め多くの私鉄でも採用されている狭軌、新幹線や京成、京浜急行などの採用している標準軌に加えて、京王は馬車軌間という路面電車由来の軌間を採用している。元々は路面電車として始まったといっても良いのかもしれない。このお陰で相互乗り入れの関係から、都営地下鉄は標準軌の浅草線と大江戸線、狭軌の三田線、そして馬車軌間の新宿線と三種類の軌間の路線を持つことになっている。
京王線のターミナル跡地に、今も京王新宿追分ビルと新宿三丁目ビルがある。この敷地を地図で見ると、終着駅があった形が想像できる。

「『東京百年史』第四巻に「郊外電車」の一章がある(執筆、小野栄一)。それによると、東京近郊の私鉄の歴史はひと回に言って、「合併の歴史、統合の歴史」だった。「その発展は、皮肉にも、下町を壊滅させた大正十二年九月一日の関東大震災が、逆に働きかけていることも忘れられない」と書いている。要を得た叙述があるので引かせていただくと、「震災以前における、東京近郊の私鉄の発達のあとをふりかえって見ると、最も早く発達したのほ、城南方面で、城西および城北がこれにつぎ、城東地区は、最も遅れていた。そこで関東大震災か突発した。それ以後は、ほとんど焼げてしまった東京の下町方面の居住者が、焼げ残った旧市内をとぴ越して、山の手地域の後背地としての郊外へ居を移していった。そして、こうした人口の移住に伴なって郊外電車が発展し、さらに、電鉄の発達によって、便利となった郊外へ人が住みつくといった関係をもって、次第に広大な都市圏が形成されていった。」
東京旧市街ほ住民の移動のはげしいところである。幕末・明治の政治体制の変化、大正大震災、戦災、市街地再開発とあげていくと、ほんとうにめまぐるしい。自分の生まれた場所に住んでいるという人はごく稀れである。私の小学校の同級生では材木商がふたり、中学の同級では台東区の焼けのこったところにただひとり住んでいるだけである。これは一例かもしれないが、おそらく昭和戦前期の下町生活者の実態をしめすものとおもわれる。天災・人災、それに交通機関の発達があいまって、生活者をヴァガボンド、故郷喪失者たらしめたといえそうである。」
関東大震災による破壊と、その復興という時代が、東京そのものを大きく変貌させたことは間違いない。東京東側の縦の鉄道である上野~神田間、横断鉄道である総武線の両国~御茶ノ水間なども、震災で元からあった町が破壊されたことで実現したとも言える。それ以前からの計画は、遅々として進まなかったのだが、それは既にある町の中に鉄道や道路を通すことの困難さ故とも言える。この時代、東京市が路面電車が独占していた市内交通の利権を守るために、山手線内への私鉄の乗り入れを厳しく拒絶し続けたことも大きい。城東地区ではこの影響が特に大きくて、東武鉄道も京成電鉄も都心部乗り入れを悲願にしてその方策を求め続けていた時代があった。両社が隅田川を越えることがで来たのは震災後のことである。
今日に至る東京の幹線道路のほとんどもこの時代に整備されたものだし、今よりも遙かに高い人口密度で暮らしていた都心部が破壊されたこと、そして高密度な集積を排除する方向で復興が行われていったことが、そこから溢れ出た多くの人たちを周辺部へと向かわせたことは間違いない。
江戸時代には町人は町人地に住まなければならなかったわけで、その縛りが崩れた明治維新以降に徐々に下町から富裕層が流出していく流れが生まれていったのだが、その流れを加速という言葉以上に具現化したのもこの時代の実状なのだと思う。
「この一節をとおして考えてみると、職住分離は東京という街の大きな特色だった。官吏、軍人、サラリーマンら、はじめから通勤していたものは別として、大なり小なり事業経営者は事業所がすなわち住居地であった。しかしそれは明治期からくずれはじめている。麻布や目黒、あるいは本郷というぐあいに市街のはずれに居を移している。京橋の鹿島組、新川の酒問屋が深川島田町に別宅をかまえたことはまえに書いたが、それは職住分離のはしりだったといえる。大正・昭和になってそれはもっと顕著になる。震災・戦災がそれに拍車をかけた。私なりにおおよその見方をすれば、日本橋・京橋・銀座あたりを境にして西南と東に分かれたといえそうである。そこには交通機関と住環境の選択があった。中学時代の友人たちで横山町の繊縫間屋の息子たちの多くはみな市川市に住んでいた。銀座の帽子屋の社長も市川にいた。そうかとおもうと、鎌倉や逗子に移ったものもいた。東京住民の歴史上の動態を考えると、さまざまな事実が浮んでくる。」
職住分離とサラリーマン化というのは、どの程度シンクロしてくるのか、興味深いものがある。それだけではなく、商店主なども規模が大きくなると職住分離に向かうという道筋もあったのは確かだ。私の曾祖父は、明治三十年から日本橋横山町で商売を始めているが、大正中頃には職住分離という体制になっていたようだ。それまでは店と住居が一体で、奉公人も一緒に暮らしていたという昔ながらのスタイルであった。職住分離時には、店は神田で住まいは牛込という形になっていた。震災後には住まいを本郷駒込に移し、焼けた店の再建をしたようだ。
ちなみに、大阪での職住分離というのはいつ頃からのことになるのだろうか。船場という特異な町が失われていった背景がどんなものだったのかということにも、興味がある。
「交通の発達は盛り場の移動をもたらしている。木村毅編『東京案内記』(昭和二十六年、黄土杜)という本に、つぎの広津和郎の言葉が引かれていたが、それをよく言いあてている。
「東京の町は交通期間の発達と共に、盛り場が郊外へ郊外へと移つて行つて、中心の銀座は益々栄えるが、その他の昔目抜であつた場所は今は大低中間的存在になつて衰へて行く。私の子供の時分は麹町通が盛り場であつたのが、四谷に移り、それから新宿に移つて行つた。赤坂の一ツ木が盛り場であつたが、青山に移り更に渋谷に移つて行つた。それと同じやうに、本郷三丁目附近も、昔は今より栄えてゐたのであるが、それが白山の方へ移つて行つた。そして中間に取残されて昔より寂れて行つた。」
ここにあげられている麹町通、一ツ木、本郷三丁目のような場所は、明治生まれの人にとっては東京の新開地のような存在だったにちがいない。このささやかな遊び場が外郭にむかって移ったというのである。白山は三流芸者のたむろするところ、荷風が『おかめ笹』の舞台にとった場所である。新宿、渋谷は山手線の駅の出来たところ、甲州街道、厚木大山道の出口である。市内交通、郊外電車の接点となってみると、そこは絶えず人のあつまる場所となった。かつての盛り場は門前町の市や縁日、それにくわわる歓楽、見世物、食道楽でにぎわいをみせてきたが、機械文明の発達はそれとはちがった生まれ方をしている。昔から言われていたように社寺への参詣はかたちだけ、あとは遊楽気分だ。東京人のお参りは「信仰一分浮気九分」といわれたのがそのとおりになったといえないこともない。鉄道のターミナルはうしろに新興住宅地をひかえて、あたらしい盛り揚をつくりだす。」
この盛り場の変遷というのは、追い掛けて見ると非常に面白いものだと思う。盛り場というものの定義からして、最近は大分変容してきているようにも思える。江戸時代からの盛り場といえば、両国広小路が上げられる。両国橋のたもとの広場で、芝居小屋から露店まで並んで賑やかな所であったという。両国橋が架け替えられていく中で橋の位置が変わり、広小路自体現在は事実上消滅している。それでも、震災前までは賑わいの余韻が残る町であったようだ。現在では、そんな町であったことを想像することすら難しい。
麻布十番辺りが、元は山の手で粋ではないと言われていたのに、いつの間にか下町情緒のような文脈で取り上げられるようになったりとか、時代が変わることで都市も変わり、その中で生活するものの意識も変わっていくものであることは知っておくべき事なのだろう。
麹町通、一ツ木、本郷三丁目というのは、元から何もないところにできた盛り場というわけではない。旧市街からいえば中心から外れていたとはいえ、どこも武家地の多かったところで、武家屋敷が維新で崩壊してから新たな都市化が行われていった町でもある。旧市街の中心部のような町人地由来の密集した商業エリアとは違った発展をしていくわけで、その辺りの対比も興味深い。また、これらの新開地と、この後に興隆を迎えていくそれまでは郊外であったエリアの新開地との対比を考えて見るのも興味深いものがある。
荷風が描いた「おかめ笹」の舞台。白山の花街にて。

「私がかろうじて記憶している昭和十年代の新宿は、いまにくらべれば発展途上だった。妻は太宗寺の近くに住んでいて、そこの小学校に上ったというか、まだ鄙びた町であったらしい。私は荻窪に住む親戚の大学生に武蔵野館に連れていってもらったのが最初だった。人があつまること、時代の空気に即応した新しいもののあるのが魅力だったにちがいない。
東京は西へ、西へと動いていく。新宿はその象徴だったのである。」
そして、新開地の象徴的な存在が新宿であったと言える。様々な書籍で触れられているが、西へ拡張していく東京の市街に併せて移動していった盛り場。新宿が山の手の浅草と言ったポジションに成長していったのは、その背景を考えれば頷ける様に思える。さらにいえば、新宿以降に盛り場の移転は各個に分散していく形態を取っていった印象で、私鉄沿線ごとの小振りな盛り場が幾つもできていった様に思う。つまり、巨大な盛り場は新宿が出来て以降は増えていないのではないだろうか。これはここまでに書かれてきたように、人がどれだけ集まってくるかということが、盛り場を作り上げて育てていくわけで、ターミナルの西端が今に至るも新宿であり続けている以上は、さらに西へと移動していくのは難しいものがあるのだろう。
その意味では、渋谷が東京東横線の地下鉄との直通運転を始めたことで、どう変化していくのか、これも興味深いものがある。これから先の時代は限られたパイを奪い合う時代に入っている。渋谷の町がどう変わっていくのか、今の時代の観察対象としては好適なものだと思う。
そして、上野東京ラインの開通が、上野をどう変化させるのかということもある。この影響は実際には、東京駅の変化の下地を作るものになる様に思える。リニアモーターの始発が品川になることは既定であり、この上野東京直通という構想も、品川を新たなターミナルにするためのものとも言えるだろう。これが実現していった時、東京駅は中央停車場としての地位を失うことになるのではないだろうか。
そう考えていくと、これから先も東京の盛り場、そしてターミナルの変化は大きく変わっていく下地があるように思う。
「いまの東京で市電・都電のおもかげをのこしているのは、早稲囲と三ノ輪を往復するひとつだけである。市中の路面電車がなくなってしまった今日でほ、貴重な残存物といわなけれぱ衣らない。それをめずらしがって、わざわざ乗りに行く人もいるほどである。」
東京の歴史を振り返るのなら、明治以降都市交通の主役が永らく路面電車であった事は基本的な話だ。バスが登場するのは震災後のことだ。そして、今ではどちらも地下鉄に取って代わられている。それでも、地下鉄は駅間が長く、乗車するまでに上下方向の移動量が大きい。輸送量のスケールが違うという根本的な問題を解決したことは確かだが、細やかで利用者に優しい特性を持っているのは、路面電車やバスであったことも確かだ。
そのメリットを活かす道を真剣に探ろうともせずに、モータリゼーションの前に邪魔者扱いして廃止へと追い込んでいったのが、あの時代であったとも思う。私は都電の全盛時はまだ物心付いていなかったのだが、廃止が大規模に推進されていったのは覚えている。
1977年都電荒川線王子駅前。すでに系統番号が廃止され、荒川線の表記に変わった後。

「荒川線の歴史を調べてみると、明治四十三年の創業である。北浜銀行をバックする大阪才賀商会の肝入りで王子電軌が設立された。東京の北の外郭部のわずか十六キロ余の計画路線だったが、その進捗はのろのろとしていたらしい。飛鳥山から大塚までが四十四年八月に開業、それからだんだん延びていって、全通は震災復輿時の昭和五年三月である。とすると、二十年もかかったことになる。その荒川線がどうにか温存されてのんびり走っているのは、雑音と排気ガスで窒息しそうな東京にあって、こころあたたまる風景である。」
関西資本でというのも面白いが、これも当時の大阪が未だ商都としての巨大な力を持っていたことにもよる。商業都市から工業都市に維新以降変貌を遂げていった大阪だが、資本の蓄積はやはり大きなものがあった。そして、王子電軌だが、この路線の建設に時間を要したのには理由がある。最初に開通した飛鳥山から大塚駅までは平坦な地形で、当時は郊外の趣の残る所だったことだろう。そして、三ノ輪から王子駅の手前の梶原、栄町までも開通するのだが、東北線の線路を潜り、飛鳥山の麓をぐるっと回り込んで行くようにして上っていくところの工事が難所であった。これが震災後の開通になるのは、明治通りの道路整備が行われて現在の道路の形がその時に出来た事に因むのだろうと思う。
また、この王子電軌という会社、一番メインのビジネスは電車の運行ではなかった。発電とその電気を一般家庭に販売するという電力会社であって、その電気で電車も走らせていたという方が正しい様だ。戦時統制で電力会社がまとめられ、電車も都電に吸収されることで王子電軌は姿を消したのだが、その路線が唯一の東京の路面電車の生き残りになったというのも面白い巡り合わせだと思う。
これも1977年の都電荒川線巣鴨新田付近。背景に建設工事中のサンシャイン60が見えている。開業するのはこの翌年のこと。

「そのころ、といっても昭和十年代のことだが、まだ郊外電車という言葉がつかわれていた。しかし、東武線、京成、京浜急行はちゃんとその名でよんでいた。というのは、わが家ではそれをつかうことが多かったからである。東武は母の郷里館林に行くときに、京成、京浜は潮干狩や海水浴に出かけるときに乗っていた。そのほか地元でいえば城東電車、城西・城北の京王帝都、小田急、東急、西武などほ、みなひっくるめて郊外電車だった。それほ学校の遠足とか遊園地行きの想い出につながる。」
郊外電車という言葉の響きには、新開地をゆく快速電車という雰囲気を感じる。震災で焦土と化した旧市街から、正に郊外という名にふさわしかった、周辺部へと大量の人口移動が起きている。この時期に都市化した所というのは、非常に多い。後にと伝に吸収される城東電車が、京王や小田急などと並んでいるのも面白く感じる。昭和初期の時点では、城東電車も京王も小田急もそれ程大きな違いのあるものではなかったと言えるのだろう。
そして、その家々の都合でよく利用する鉄道が身近で、馴染みのない路線は十把一絡げというのも、我が家でも変わらない風景だったと思うとおかしく思える。
「京王線は新宿の追分から出ていた。駅舎にはなんとなく華やいだ気分がただよっていた。新宿御苑の横に出て甲州街道を走るが、省線の陸橋(いまのJR新宿駅南口)を上るとき、電車はのろのろと、しかも力をこめている感じだった。道路中央を走っていた電車はやかて街道に隣接する専用敷地の線路にはいる。そのかたちは京浜急行と似ていた。東海道線をこえる八ツ山の陸橋からの風景がおもしろかった。」
京王線が新宿追分から出ていた名残は、今も京王のビルが建てられている事で分かる。私の母親に聞いてみても、彼女は港区に住んでいたが、やはり遠足で市電に乗って新宿まで貸し切り電車でやってきて、そこで京王に乗り換えたのを覚えているという。この頃の京王線は、路面電車と変わらないものだったようだ。ちなみに、レールの幅を軌間(ゲージ)と呼ぶのだが、JRを始め多くの私鉄でも採用されている狭軌、新幹線や京成、京浜急行などの採用している標準軌に加えて、京王は馬車軌間という路面電車由来の軌間を採用している。元々は路面電車として始まったといっても良いのかもしれない。このお陰で相互乗り入れの関係から、都営地下鉄は標準軌の浅草線と大江戸線、狭軌の三田線、そして馬車軌間の新宿線と三種類の軌間の路線を持つことになっている。
京王線のターミナル跡地に、今も京王新宿追分ビルと新宿三丁目ビルがある。この敷地を地図で見ると、終着駅があった形が想像できる。

「『東京百年史』第四巻に「郊外電車」の一章がある(執筆、小野栄一)。それによると、東京近郊の私鉄の歴史はひと回に言って、「合併の歴史、統合の歴史」だった。「その発展は、皮肉にも、下町を壊滅させた大正十二年九月一日の関東大震災が、逆に働きかけていることも忘れられない」と書いている。要を得た叙述があるので引かせていただくと、「震災以前における、東京近郊の私鉄の発達のあとをふりかえって見ると、最も早く発達したのほ、城南方面で、城西および城北がこれにつぎ、城東地区は、最も遅れていた。そこで関東大震災か突発した。それ以後は、ほとんど焼げてしまった東京の下町方面の居住者が、焼げ残った旧市内をとぴ越して、山の手地域の後背地としての郊外へ居を移していった。そして、こうした人口の移住に伴なって郊外電車が発展し、さらに、電鉄の発達によって、便利となった郊外へ人が住みつくといった関係をもって、次第に広大な都市圏が形成されていった。」
東京旧市街ほ住民の移動のはげしいところである。幕末・明治の政治体制の変化、大正大震災、戦災、市街地再開発とあげていくと、ほんとうにめまぐるしい。自分の生まれた場所に住んでいるという人はごく稀れである。私の小学校の同級生では材木商がふたり、中学の同級では台東区の焼けのこったところにただひとり住んでいるだけである。これは一例かもしれないが、おそらく昭和戦前期の下町生活者の実態をしめすものとおもわれる。天災・人災、それに交通機関の発達があいまって、生活者をヴァガボンド、故郷喪失者たらしめたといえそうである。」
関東大震災による破壊と、その復興という時代が、東京そのものを大きく変貌させたことは間違いない。東京東側の縦の鉄道である上野~神田間、横断鉄道である総武線の両国~御茶ノ水間なども、震災で元からあった町が破壊されたことで実現したとも言える。それ以前からの計画は、遅々として進まなかったのだが、それは既にある町の中に鉄道や道路を通すことの困難さ故とも言える。この時代、東京市が路面電車が独占していた市内交通の利権を守るために、山手線内への私鉄の乗り入れを厳しく拒絶し続けたことも大きい。城東地区ではこの影響が特に大きくて、東武鉄道も京成電鉄も都心部乗り入れを悲願にしてその方策を求め続けていた時代があった。両社が隅田川を越えることがで来たのは震災後のことである。
今日に至る東京の幹線道路のほとんどもこの時代に整備されたものだし、今よりも遙かに高い人口密度で暮らしていた都心部が破壊されたこと、そして高密度な集積を排除する方向で復興が行われていったことが、そこから溢れ出た多くの人たちを周辺部へと向かわせたことは間違いない。
江戸時代には町人は町人地に住まなければならなかったわけで、その縛りが崩れた明治維新以降に徐々に下町から富裕層が流出していく流れが生まれていったのだが、その流れを加速という言葉以上に具現化したのもこの時代の実状なのだと思う。
「この一節をとおして考えてみると、職住分離は東京という街の大きな特色だった。官吏、軍人、サラリーマンら、はじめから通勤していたものは別として、大なり小なり事業経営者は事業所がすなわち住居地であった。しかしそれは明治期からくずれはじめている。麻布や目黒、あるいは本郷というぐあいに市街のはずれに居を移している。京橋の鹿島組、新川の酒問屋が深川島田町に別宅をかまえたことはまえに書いたが、それは職住分離のはしりだったといえる。大正・昭和になってそれはもっと顕著になる。震災・戦災がそれに拍車をかけた。私なりにおおよその見方をすれば、日本橋・京橋・銀座あたりを境にして西南と東に分かれたといえそうである。そこには交通機関と住環境の選択があった。中学時代の友人たちで横山町の繊縫間屋の息子たちの多くはみな市川市に住んでいた。銀座の帽子屋の社長も市川にいた。そうかとおもうと、鎌倉や逗子に移ったものもいた。東京住民の歴史上の動態を考えると、さまざまな事実が浮んでくる。」
職住分離とサラリーマン化というのは、どの程度シンクロしてくるのか、興味深いものがある。それだけではなく、商店主なども規模が大きくなると職住分離に向かうという道筋もあったのは確かだ。私の曾祖父は、明治三十年から日本橋横山町で商売を始めているが、大正中頃には職住分離という体制になっていたようだ。それまでは店と住居が一体で、奉公人も一緒に暮らしていたという昔ながらのスタイルであった。職住分離時には、店は神田で住まいは牛込という形になっていた。震災後には住まいを本郷駒込に移し、焼けた店の再建をしたようだ。
ちなみに、大阪での職住分離というのはいつ頃からのことになるのだろうか。船場という特異な町が失われていった背景がどんなものだったのかということにも、興味がある。
「交通の発達は盛り場の移動をもたらしている。木村毅編『東京案内記』(昭和二十六年、黄土杜)という本に、つぎの広津和郎の言葉が引かれていたが、それをよく言いあてている。
「東京の町は交通期間の発達と共に、盛り場が郊外へ郊外へと移つて行つて、中心の銀座は益々栄えるが、その他の昔目抜であつた場所は今は大低中間的存在になつて衰へて行く。私の子供の時分は麹町通が盛り場であつたのが、四谷に移り、それから新宿に移つて行つた。赤坂の一ツ木が盛り場であつたが、青山に移り更に渋谷に移つて行つた。それと同じやうに、本郷三丁目附近も、昔は今より栄えてゐたのであるが、それが白山の方へ移つて行つた。そして中間に取残されて昔より寂れて行つた。」
ここにあげられている麹町通、一ツ木、本郷三丁目のような場所は、明治生まれの人にとっては東京の新開地のような存在だったにちがいない。このささやかな遊び場が外郭にむかって移ったというのである。白山は三流芸者のたむろするところ、荷風が『おかめ笹』の舞台にとった場所である。新宿、渋谷は山手線の駅の出来たところ、甲州街道、厚木大山道の出口である。市内交通、郊外電車の接点となってみると、そこは絶えず人のあつまる場所となった。かつての盛り場は門前町の市や縁日、それにくわわる歓楽、見世物、食道楽でにぎわいをみせてきたが、機械文明の発達はそれとはちがった生まれ方をしている。昔から言われていたように社寺への参詣はかたちだけ、あとは遊楽気分だ。東京人のお参りは「信仰一分浮気九分」といわれたのがそのとおりになったといえないこともない。鉄道のターミナルはうしろに新興住宅地をひかえて、あたらしい盛り揚をつくりだす。」
この盛り場の変遷というのは、追い掛けて見ると非常に面白いものだと思う。盛り場というものの定義からして、最近は大分変容してきているようにも思える。江戸時代からの盛り場といえば、両国広小路が上げられる。両国橋のたもとの広場で、芝居小屋から露店まで並んで賑やかな所であったという。両国橋が架け替えられていく中で橋の位置が変わり、広小路自体現在は事実上消滅している。それでも、震災前までは賑わいの余韻が残る町であったようだ。現在では、そんな町であったことを想像することすら難しい。
麻布十番辺りが、元は山の手で粋ではないと言われていたのに、いつの間にか下町情緒のような文脈で取り上げられるようになったりとか、時代が変わることで都市も変わり、その中で生活するものの意識も変わっていくものであることは知っておくべき事なのだろう。
麹町通、一ツ木、本郷三丁目というのは、元から何もないところにできた盛り場というわけではない。旧市街からいえば中心から外れていたとはいえ、どこも武家地の多かったところで、武家屋敷が維新で崩壊してから新たな都市化が行われていった町でもある。旧市街の中心部のような町人地由来の密集した商業エリアとは違った発展をしていくわけで、その辺りの対比も興味深い。また、これらの新開地と、この後に興隆を迎えていくそれまでは郊外であったエリアの新開地との対比を考えて見るのも興味深いものがある。
荷風が描いた「おかめ笹」の舞台。白山の花街にて。

「私がかろうじて記憶している昭和十年代の新宿は、いまにくらべれば発展途上だった。妻は太宗寺の近くに住んでいて、そこの小学校に上ったというか、まだ鄙びた町であったらしい。私は荻窪に住む親戚の大学生に武蔵野館に連れていってもらったのが最初だった。人があつまること、時代の空気に即応した新しいもののあるのが魅力だったにちがいない。
東京は西へ、西へと動いていく。新宿はその象徴だったのである。」
そして、新開地の象徴的な存在が新宿であったと言える。様々な書籍で触れられているが、西へ拡張していく東京の市街に併せて移動していった盛り場。新宿が山の手の浅草と言ったポジションに成長していったのは、その背景を考えれば頷ける様に思える。さらにいえば、新宿以降に盛り場の移転は各個に分散していく形態を取っていった印象で、私鉄沿線ごとの小振りな盛り場が幾つもできていった様に思う。つまり、巨大な盛り場は新宿が出来て以降は増えていないのではないだろうか。これはここまでに書かれてきたように、人がどれだけ集まってくるかということが、盛り場を作り上げて育てていくわけで、ターミナルの西端が今に至るも新宿であり続けている以上は、さらに西へと移動していくのは難しいものがあるのだろう。
その意味では、渋谷が東京東横線の地下鉄との直通運転を始めたことで、どう変化していくのか、これも興味深いものがある。これから先の時代は限られたパイを奪い合う時代に入っている。渋谷の町がどう変わっていくのか、今の時代の観察対象としては好適なものだと思う。
そして、上野東京ラインの開通が、上野をどう変化させるのかということもある。この影響は実際には、東京駅の変化の下地を作るものになる様に思える。リニアモーターの始発が品川になることは既定であり、この上野東京直通という構想も、品川を新たなターミナルにするためのものとも言えるだろう。これが実現していった時、東京駅は中央停車場としての地位を失うことになるのではないだろうか。
そう考えていくと、これから先も東京の盛り場、そしてターミナルの変化は大きく変わっていく下地があるように思う。
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