さて、街道から外れての寄り道も、ここが目的地だったとも言える。光が丘である。今は、広大な都立公園と清掃工場や学校、都営住宅などで形作られた、新しい町になっている。ここは第二次世界大戦中の昭和18年に、帝都防衛を目的として陸軍が成増飛行場を建設したことが今日に至るきっかけになっている。終戦後、進駐軍に接収され、米軍人向けの住宅地となった。米軍人の名を取って、「グラントハイツ」と名付けられたのだが、周囲では「グランドハイツ」と呼ばれていた。今はアメリカ人の名前にも馴染んで「グラント」に違和感を覚えなくなるほどだが、当時は「グランド」という馴染みのある言葉に引き摺られたのだろう。
東武東上線から専用線の引き込み線が敷設されていたりとか、色々と面白いものではあるが、今となってはその痕跡はほとんど残されていない。
私も、ここは我が家からはかなり遠い上に、この辺りに馴染みがなかったので、来たことがなかった。返還後に本格的な工事が始まる前の間に来ていれば、日本にあったアメリカの町を見ることが出来たのにとも思うが、今や遅しである。ここは光が丘のメインストリート。真っ直ぐに行けば公園に向かう。
「いちょうの植栽由来
ここの二列に植えてある「いちょう」は樹齢100年以上のものです。1907年(明治40年)春 千代田区丸の内二丁目~三丁目附近、東京都庁(旧東京市役所)前の道路に街路樹として幹廻り40cmの成木を試植したもので現存する街路樹としてはめずらしい長寿のものです。1985年東京都庁前の道路は地下部に日本国有鉄道が京葉線の駅舎建設を開始し、工事の支障となった「いちょう」を一時苗圃に移し、その後、国鉄から事業を引き継いだ東日本旅客鉄道(株)によりこの地に再移植されました。いちょうは「東京都の木」に選定されています。この光が丘公園に根をおろし末永く生育するように願うものです。
1988年3月 東京都」
公園の案内板より。
「光が丘公園のあらまし
都市近郊の農村地帯であったこの付近一帯は、昭和15年(1940年)紀元2600年記念事業として、東京府の「大緑地計画」のひとつにあげられました。しかし、太平洋戦争が始まったため、大緑地としては整備されず、昭和20年8月の終戦まで旧陸軍の成増飛行場として使用され、戦後は、昭和48年9月の全面返還までの間、米軍の住宅地〈グラントハイツ〉として使用されました。昭和47年〈グラントハイツ〉跡地(182ha)の処分により、同49年3月その跡地の三分の一に当たる60.7haが都市計画公園として計画に決定されました。昭和49年4月から公園造成に着手し、“豊かな自然とスポーツの公園”をテーマに、災害時の広域避難場所としても機能するみどり豊かな、都民に広く親しまれる公園として整備され、同56年12月に34.6haを開園しました。その後、各種の公園施設を整備し、現在60.7haを有する都内でも有数の規模の公園として都民に利用されています。」
さて、公園も全く新に整備造成されていて、散策するには広大で良いところではあるものの、あまりここを見ておけばというものでもないなと思っていたら、一角に目を惹くところがあった。
「ようこそ、屋敷森跡地へ
みなさん、こんにちは!公園の樹林地を抜けてきて、ここに立つと不思議な気持になりませんか?ここは300年もの歴史のある農家の屋敷森跡地です。屋敷森は、農家の建物を風や雪などから守るため、また樹木を生活の様々な用途に利用するために作られたものです。ここでは、母屋の南東にケヤキが植えられ、西側や北側には、シラカシやムクノキが林立しています。なかでも樹齢100年を越すムクノキの大木は威厳さえ感じられます。屋敷森の中庭は、農作業に使われていましたが、今では季節ごとに咲き変わる庭木や野草が大切に育てられています。この屋敷森で、先人達の息づきを楽しみ、それを次代に伝えていくために、木の枝を折ったり、野草を抜いたり、また土を踏み荒らして虫の生息を妨げる等のおこないは、したくないものです。大切な屋敷森の生態系を守るために、観察に当たっては、散策路の外に踏み出さないようにしましょう。」
フェンスで囲われた一角が、かつての農村時代からのままの屋敷森が残されているという。陸軍成増飛行場建設時にも危うく立ち退きになるところが、敷地変更があり、危うくそれを免れたそうだ。戦後に接収されたときにも、陳情して屋敷地は守られたという。返還時にも立ち退きを迫られたものの、陸軍も進駐軍も猶予してくれたのに、なぜ返還されたら立ち退くのかという抗議で無事であったそうだ。その後、当主の方が亡くなられ、住居は立ち退かれた。1994年に公園になるときには、地域住民の署名で保存されることになったという。敷地はフェンスで囲われ、管理はボランティアで「屋敷森の会」が行っているという。
このフェンスから見えるところに、光が丘で唯一残されているという米軍住宅時代の標識。経過した歳月を感じさせる。
中に入ってみると、境界にはコンクリートの土台が巡らされていて、米軍住宅の時代にはどんな光景が周囲に広がっていたのかと考えさせられる。
歩けるところはしっかりと整備されているが、鬱蒼とした森になっている。
永らく農村の時代から、ここでの生活を支えていたであろう、井戸。手押しポンプが付けられている。
フェンスの外は、多くの人で賑わう公園なのだが、なかは静かで、泡沫の夢を見ているような空館が広がる。
亀甲竹という、面白い文様の竹。
訪問したのは、2014年5月のことだが、花が咲き、良い季節で武蔵野の面影を偲ぶことが出来た。
決して、フェンスのなかはそう広い面積があるわけではないのだが、それでもこんな雰囲気を味わえる。
今は建築物は残されておらず、それがまた静かな森の雰囲気を増幅させているようだ。
木々が茂っている。自然林ではなく、計画的に植林されたもの。
見て回って一周するのにそう時間が掛かるわけもないエリアだが、ゆったりとした気持ちになれる。そして、遙かと奥まで同じ様な森が広がっていた時代を思ってみる。
ボランティアで管理をされているそうだが、そう広くはないと言っても、管理をする側から見れば充分以上に広いものだろうとも思う。出入りの際には、きちんと門扉を閉めること。今では周辺はこんな景色が想像も付かない町並みになっているのだが、ここで一時過ごすのはとても贅沢な時間を過ごしている気持ちになれる。
東武東上線から専用線の引き込み線が敷設されていたりとか、色々と面白いものではあるが、今となってはその痕跡はほとんど残されていない。
私も、ここは我が家からはかなり遠い上に、この辺りに馴染みがなかったので、来たことがなかった。返還後に本格的な工事が始まる前の間に来ていれば、日本にあったアメリカの町を見ることが出来たのにとも思うが、今や遅しである。ここは光が丘のメインストリート。真っ直ぐに行けば公園に向かう。
「いちょうの植栽由来
ここの二列に植えてある「いちょう」は樹齢100年以上のものです。1907年(明治40年)春 千代田区丸の内二丁目~三丁目附近、東京都庁(旧東京市役所)前の道路に街路樹として幹廻り40cmの成木を試植したもので現存する街路樹としてはめずらしい長寿のものです。1985年東京都庁前の道路は地下部に日本国有鉄道が京葉線の駅舎建設を開始し、工事の支障となった「いちょう」を一時苗圃に移し、その後、国鉄から事業を引き継いだ東日本旅客鉄道(株)によりこの地に再移植されました。いちょうは「東京都の木」に選定されています。この光が丘公園に根をおろし末永く生育するように願うものです。
1988年3月 東京都」
公園の案内板より。
「光が丘公園のあらまし
都市近郊の農村地帯であったこの付近一帯は、昭和15年(1940年)紀元2600年記念事業として、東京府の「大緑地計画」のひとつにあげられました。しかし、太平洋戦争が始まったため、大緑地としては整備されず、昭和20年8月の終戦まで旧陸軍の成増飛行場として使用され、戦後は、昭和48年9月の全面返還までの間、米軍の住宅地〈グラントハイツ〉として使用されました。昭和47年〈グラントハイツ〉跡地(182ha)の処分により、同49年3月その跡地の三分の一に当たる60.7haが都市計画公園として計画に決定されました。昭和49年4月から公園造成に着手し、“豊かな自然とスポーツの公園”をテーマに、災害時の広域避難場所としても機能するみどり豊かな、都民に広く親しまれる公園として整備され、同56年12月に34.6haを開園しました。その後、各種の公園施設を整備し、現在60.7haを有する都内でも有数の規模の公園として都民に利用されています。」
さて、公園も全く新に整備造成されていて、散策するには広大で良いところではあるものの、あまりここを見ておけばというものでもないなと思っていたら、一角に目を惹くところがあった。
「ようこそ、屋敷森跡地へ
みなさん、こんにちは!公園の樹林地を抜けてきて、ここに立つと不思議な気持になりませんか?ここは300年もの歴史のある農家の屋敷森跡地です。屋敷森は、農家の建物を風や雪などから守るため、また樹木を生活の様々な用途に利用するために作られたものです。ここでは、母屋の南東にケヤキが植えられ、西側や北側には、シラカシやムクノキが林立しています。なかでも樹齢100年を越すムクノキの大木は威厳さえ感じられます。屋敷森の中庭は、農作業に使われていましたが、今では季節ごとに咲き変わる庭木や野草が大切に育てられています。この屋敷森で、先人達の息づきを楽しみ、それを次代に伝えていくために、木の枝を折ったり、野草を抜いたり、また土を踏み荒らして虫の生息を妨げる等のおこないは、したくないものです。大切な屋敷森の生態系を守るために、観察に当たっては、散策路の外に踏み出さないようにしましょう。」
フェンスで囲われた一角が、かつての農村時代からのままの屋敷森が残されているという。陸軍成増飛行場建設時にも危うく立ち退きになるところが、敷地変更があり、危うくそれを免れたそうだ。戦後に接収されたときにも、陳情して屋敷地は守られたという。返還時にも立ち退きを迫られたものの、陸軍も進駐軍も猶予してくれたのに、なぜ返還されたら立ち退くのかという抗議で無事であったそうだ。その後、当主の方が亡くなられ、住居は立ち退かれた。1994年に公園になるときには、地域住民の署名で保存されることになったという。敷地はフェンスで囲われ、管理はボランティアで「屋敷森の会」が行っているという。
このフェンスから見えるところに、光が丘で唯一残されているという米軍住宅時代の標識。経過した歳月を感じさせる。
中に入ってみると、境界にはコンクリートの土台が巡らされていて、米軍住宅の時代にはどんな光景が周囲に広がっていたのかと考えさせられる。
歩けるところはしっかりと整備されているが、鬱蒼とした森になっている。
永らく農村の時代から、ここでの生活を支えていたであろう、井戸。手押しポンプが付けられている。
フェンスの外は、多くの人で賑わう公園なのだが、なかは静かで、泡沫の夢を見ているような空館が広がる。
亀甲竹という、面白い文様の竹。
訪問したのは、2014年5月のことだが、花が咲き、良い季節で武蔵野の面影を偲ぶことが出来た。
決して、フェンスのなかはそう広い面積があるわけではないのだが、それでもこんな雰囲気を味わえる。
今は建築物は残されておらず、それがまた静かな森の雰囲気を増幅させているようだ。
木々が茂っている。自然林ではなく、計画的に植林されたもの。
見て回って一周するのにそう時間が掛かるわけもないエリアだが、ゆったりとした気持ちになれる。そして、遙かと奥まで同じ様な森が広がっていた時代を思ってみる。
ボランティアで管理をされているそうだが、そう広くはないと言っても、管理をする側から見れば充分以上に広いものだろうとも思う。出入りの際には、きちんと門扉を閉めること。今では周辺はこんな景色が想像も付かない町並みになっているのだが、ここで一時過ごすのはとても贅沢な時間を過ごしている気持ちになれる。
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