東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

池上本門寺と周辺を歩く~その二:池上本門寺(2)

2015-03-09 19:36:34 | 大田区
池上本門寺は前回掲載した様に、七百数十年という歴史のある寺で、しかも日蓮上人御入滅の地という日蓮宗の聖地である。長い歴史を持つ寺院であるというだけではなく、江戸時代の初期にあった身池対論や不受不施派の弾圧というのも、ここがその拠点であったことを思うとどこか生々しく思えるし、しかも本門寺を頂点にした円融寺(当時は法華寺)や谷中の天王寺(当時は感応寺)という大きな栄えていた寺院からなっていた不受不施派が決して少数派ではなかったことも分かる。徳川幕府の宗教政策の中で、世俗性を否定的に捉える様に見える不受不施派が弾圧されたのは、キリシタンを禁教にしたことと重なるところもあるし、日蓮宗を幕政に取り込む上で内部分裂させて弱体化を図ったという面もあったのではないか、とか色々と想像させられる。

昭和20年4月15日の空襲で伽藍は焼失したそうだ。その後、大堂の横から裏手に位置を変えて再建されたのが、奥に見える本殿。昭和44年に完成したもの。


「前田利家室の層塔 大田区文化財
 この塔は、前田利家の側室、寿福院が、元和八年(一六二二)に、自身の逆修供養のために建てた十一重の層塔である。このことは当寺十五世(復歴)日樹の銘文でわかる。
 寿福院は、三代加賀藩主、利常の生母で、秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。
 現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋の反り具合からみて様式的に古い形を示し、注目される。
 なお天保四年(一八三三)の修復銘もある。
 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
十一重あったと言うことだと、相当に高さのある石塔であったことだろう。


江戸時代以来の歴史のある五重塔では、関東で最古のものだという。
「 本塔のそもそもの発願は、のちに徳川2代将軍となる秀忠公の病気平癒祈願にあった。文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまった。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈った。その甲斐あって快癒し、将軍となった後、その御礼と、あわせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立〔露盤銘〕、翌13年に上棟式を厳修した〔棟札銘・焼失〕。
 開眼供養の大導師は第14世日詔聖人、大願主が正心院日幸大姉(岡部の局)、普請奉行は幕臣の青山伯耆守忠俊、棟梁は幕府御大工の鈴木近江守長次、鋳物師は椎名土佐守吉次である。いわば幕府のお声掛かりで建造された当時第一級の塔である。にもかかわらず、江戸建築が確立する前の桃山期の建立であるため、特に構造上、過渡期の特色が濃厚である。桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、文化遺産としての価値は極めて高い。
 当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられたが、直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉公の命で現在地へ移築、修復された。その後、数度の修理を経て、平成9~13年、日蓮聖人立教開宗七百五十年慶讃記念事業の一つとして、全解体修理が施され、全容を一新した。
 特徴としては、初層のみを和様(二重平行垂木・十二支彫刻付蟇股など)とし、二層以上を唐様(扇垂木・高欄付廻縁など)とする点、上層への逓減率が少ない点、相輪長が短い点、心柱が初層天井の梁上に立つ点、等があげられ、極めて貴重な塔建築である。なお、平成13年に全面修復が終了した。」(池上本門寺サイトより)


戦災で伽藍が焼失している本門寺では、経蔵と五重塔が歴史を越えて来た建物である。修復を終えていて、全体に美しい状態になっている。


境内のあちらこちらからその姿を見ることが出来る。少し離れてみると、五重塔は綺麗なものだと思う。


さて、本門寺の周囲には墓地が広がっている。その中には、歴史に名を残す長命な人物の墓所も多い。その中から、私にとって興味深い人物の眠る墓を訪ねてみた。墓前で手を合わせて、その人の生きた時代を思うというのも、興味深い。
最初は、霊宝殿の裏手の坂を下りかける途中の墓域にあった星亨の墓所。明治の政治家で、明治34年にテロの犠牲となった。「おしとおる」などと言われるアクの強い人物であった様で、金権政治の原点ともいわれる。後に自由民主党を造る三木武吉は星の書生になるべく四国香川の高松から上京してきたのだが、上京してきたところで「星刺殺さる」の号外が出ていたという。三木は東京専門学校へ行く様になるのだが、星が生きていれば三木の運命もまるで違ったものになっていただろう。


そして、位置は大きく変わって、大堂の右手の少し奥。こちらも政治家である。まず目に飛びこんでくるのが、この吠える獅子の像。


大野伴睦の墓である。私の印象では、新幹線の岐阜羽島駅を造らせたという人という印象だが、神田錦町にかつてあった伝説的な松本亭という貸席の女将(女優加賀まりこの祖母)に可愛がられ、党人政治家として保守の道を歩んだ人物でもある。その一方では、東京市会の議員を務めた経験などから、小河内ダムの建設に関連して地元住民が非常な困難な中に置かれた際に、その陳情を受け、彼等を救うために力を尽くした人物でもある。その時代から、鳩山一郎とも親しかった。
戦後、三木武吉が保守合同を画策したとき、不倶戴天の敵という間柄であったものを、アラビア太郎の高輪の屋敷で極秘会談を行い、三木が国のために水に流して欲しいと頭を下げたことで和解したという経緯もある。


そして、ロッキード事件ですっかり黒幕としての悪役ぶりが知れ渡ってしまった児玉誉士夫の墓もある。児玉は、戦後の保守合同などでも資金供給など裏方を務めている。三木の秘書であった人物は、三木の死後の身の振り方を児玉に相談しろと死の床の三木に言われている。鳩山家の外の家の生活費を手当てしたり、細々とした雑務を一手に引き受けていた存在でもあった様だ。表から見えていた姿だけでは、なかなかその実像が掴みにくい人物でもある。


本門寺墓地一のスターと言えば、やはりこの人だろう。プロレスラー力道山の墓もここにある。私は物心付いた時には、既に彼は亡くなった後だったので、後から伝説を聞くばかりだった。それでも、決して芳しい話ばかりではなかったことも知っていた。とはいえ、戦後の日本のことを知る上では決して外せない一人である。


ここは永田雅一の墓。外からは、墓そのものは見えない。「永田ラッパ」といわれた威勢の良い人物で、大映の創設者であり、彼が先頭に立って突き進む会社であったといえるだろう。映画の黄金時代には、政治にも影響力を持ち、プロ野球のユニオンズ>オリオンズのオーナーでもあった。一代の傑物というべき人で、その足跡は大きなものだ。利益追求型というよりは、その時代時代で求められるものを提供することに喜びを覚える様に見える。


そして、最後には大映のスターであった人物。そして、この人がもっと生きていてくれたなら、もっと面白く凄い作品が数々できたに違いないと思う。市川雷蔵の墓である。僅か三十七才で病に倒れたのは、実に大きな損失だった。『眠狂四郎」はこの人の十八番。笑顔は可愛らしいほどなのに、キッと表情が変わると凄味のある怖面になる、この大人の男の怖さと無邪気な笑顔の両面を持った、大スターだった人である。


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