東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒の旧跡を尋ねる~その七:目黒競馬場跡

2015-01-15 18:32:39 | 目黒区
目黒に競馬場があったというのは、かなり有名な話になっている。目黒通りには、元競馬場という交差点まである。その上、住宅街の中に、かつてのコースの名残である外周路がそのまま道路として残っている訳で、変化の激しい都心部では珍しい例でもある。目黒通り沿いには、目黒競馬場跡の記念碑がある。
銅像の馬は、トウルヌソル号(第1.5.6.8.9.12.回日本ダービー優勝馬の父)とのこと。


「 明治四十年(一九〇七年)、政府の馬質改良奨励により、この地に目黒競馬場が開設された。それ以降、昭和八年(一九三三年)府中市に移転するまで、明治、大正、昭和の時代を通じて、ここで競馬が開催された。また、目黒競馬場は、昭和七年(一九三二年)第一回日本ダービーが開催された記念すべき地でもある。

この碑は、当時の歴史を後世に伝え残すとともに第五〇回日本ダービーを記念して、日本中央競馬会、及び大鳥前元競馬場通り商店街振興組合のご協力により建立された。
 昭和五十八年十一月 東京都目黒区教区委員会」(記念碑の碑文)
訪問したのは2014年11月のことだったが、記念碑に貼り紙がされていた。
「お知らせ
 毎年十一月には「にんじん祭り」をやっておりました。楽しみにされていた方も沢山いらしたと思いますが、今年は中止させていただきます。
 大鳥前元競馬場通り商店街振興組合」
調べてみると、毎年なかなか盛大にお祭りをしてきたようなのだが、昨秋は惜しくも中止されていた。


さて、前回掲載した目黒通りの古商家だが、概ね百年くらいの歴史を持っているようだ。目黒通りは古くからあった道であったことも書いたが、商店が並ぶような発展を遂げていった背景には、この競馬場が出来たことが大きかったのではないだろうか。以前ここで紹介した「品川宿遊里三代」の中でも、目黒の競馬が開催される時には品川から出掛けていった話も出ていた。やはり目黒と品川の結び付きは古くからのものであったのだろう。そして、それによって発展し始めた町だが、関東大震災後の急速な都市化の大波に晒される中で、競馬場が邪魔になっていったという経緯があったのだろう。
住宅街の中に足を進めていくと、細く一定の曲率でカーブした道が伸びている。これが競馬場の名残の道である。


この道はコースであったわけではなくて、その外側に沿っていた道である。この内側にコースがあった。
また、目黒競馬場が出来る前には四団体がそれぞれに各地で競馬を開催していたわけだが、そのうちの一つ、東京ジョケークラブの根拠地が板橋競馬場であった。ここも僅か数年しか使われず、その跡には都立豊島病院が建設されていたりして、全くその痕跡は残されていない。「板橋~競馬場と養育院」という記事を大分前に書いたので、参考までに。


ところどころで道路が交差している。目黒川の谷に面した台地の縁に近い辺りに位置している。


そして、バックストレートの長い直線に入る。


その道が途切れる辺りで交差する道のところに公園があった。さくらの里街かど公園という小さな公園だが、桜の木が植えられている。


その傍らの案内によれば、競馬場があった頃からの木だという。桜の木は成長が早い。
「 サクラの由来
 目黒競馬場は、明治40年12月に社団法人東京競馬クラブによって創立され、春秋2季の競馬シーズンは人気を集めてたいへんな賑わいであった。昭和7年に第1回日本ダービーが盛大に行われた地である。その後住宅地化の波におされ敷地も手狭になったので、昭和8年馬頭観音とともに府中市に移転して東京競馬場になった。 競馬場のあった一帯は、大部分が寺山と呼ばれていたところで、その跡は、現在国立教育研究所や東京学苑高等学校、区立不動小学校になっている。今でも住宅地の中に、当時のコースそのままに曲がっている道路が残っている。このサクラは、目黒競馬場があった当時の樹木だといわれ、平成9年秋、台風の影響により倒木したときも、地元の熱い要望により区が復旧したもので、区民に愛されているサクラです。」


さて、もう少しバックストレートの道が続く。これはその道が終わるところで振り返って見た景色。


そこから先は、外周路を潰して新に宅地造成が行われており、競馬場の痕跡は残されていない。その境目は細い道で通りぬけられるようになっている。


目黒通りに出て来たところ。目黒競馬場の最後のレースは81年前のことだ。辛うじて、コースの面影を感じられる外周路の一部が残されていることが奇跡的と言うべきなのだろう。そして、最初は目黒の町の発展の契機になったはずなのに、都市化に追われたというのも時代の変遷とも言えるだろう。目黒不動から大鳥神社に掛けての江戸以来の信仰エリアは、ある意味観光エリアでもあり続けていたわけだが、その背後に競馬場という近代の人を集める施設が生まれたというのも、ある意味ではとても目黒らしいことなのかもしれない。


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