東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

足立区千住仲町~その一

2014-08-09 18:57:01 | 足立区
足立区千住仲町は、千住河原町の北側の旧街道沿いの町。常磐線の線路と、国道4号線の間、そして墨堤通りよりも北で、国道4号線の千住警察署入り口の交差点から東へ延び、常磐線を越えて行く道に囲まれたエリアと言うことになる。此処までに何度か話の出て来た、元々の千住の宿場町である千住一丁目から四丁目よりも南側の、少し後の時代に拡張された掃部宿と呼ばれた所である。旧道を進んで墨堤通りを越え、この千住仲町へ入った所に大きなお寺があった。源長寺というお寺である。あだち観光ネットより。
「慶長15年(1610年)石出掃部亮実胤により創建されました。本山は、京都の知恩院です。江戸時代には日光門主の通行寺に本陣の代わりを勤め、また将軍の鷹狩りの御善処となりました。
「石出掃部亮吉胤の墓」:石出掃部亮吉胤は、武蔵千葉氏の一族で、慶長3年(1598年)に掃部宿の開発をしました。元和2年(1616年)から翌年にかけて掃部堤を築造しました。現在の静岡県静岡市辺りの出身で、文学や書法を好み、俳友の建部巣兆を慕って千住に住み、俳句や書を教えていました。慈父のように敬愛された門弟によって、一啓斎路川句碑が建立されました。区の有形文化財として登録されています。
「多坂梅里翁碑」:多坂梅里は信濃国植田藩に仕えていましたが、享保年間の頃千住に住み、50年間にわたって教育を行いました。師を慕った門弟によって建立されました。」


この、石出掃部亮実胤が千住に堤を築き、この町の発展の基礎を築いたいわば千住の中興の祖ともいうべき人物である。この人の名を貰い、掃部宿という名が付けられているわけでもある。


寺の門前に祀られている。延命子育地蔵尊。千住仲町4。


山号を稲荷山という。山門に掛けられていた変額。


本堂や境内は近年整備された様で、真新しく整然としている。


さて、旧道を進むと、次第に商店街になっていく。その中に、今は仕舞た屋になっている様だが、昔の雰囲気を忍ばせる様な建物があった。千住仲町12。


木造平屋の店舗だが、右手には尾張屋石黒の飴と書かれている、もう営業されていないのだろうか。惜しく思える。千住仲町12。


そして、次の信号の所まで来ると、千住仲町の北限というわけである。この向こう側は千住一丁目。その交差点の角に小さな石碑が建てられている。千住仲町18。


此処が千住の宿場町の高札場のあったところ。元々の千住宿の入口であったところなので、高札場もここにあったというわけだろう。


この通りを東へ折れて、すこし常磐線の線路の方へ歩いていると、石造りのこんなオブジェが。東京やその周辺の人なら見た覚えのある、うなぎの登亭の会社、中市があった。本社は銀座で、ここは営業本部と言う事らしい。千住仲町19。


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