お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

エルマウ城

2021年06月10日 | 旅行

赤色文字は1980年代までのエルマウ城ホテルの描写である。】

 

バイエルン地方のガルミッシュ・パルテンキルヒェンからオーストリアとの国境の町ミッテンヴァルト行く途中に、クライスという小さな村がある。このクライスの村から山の方に進路を取ると、道の脇に小屋があり、そこで通行料を徴収される。ここからはエルマウ城ホテルの私有地である。もっとも、そのエルマウ城に宿泊する由を告げると通行料は免除してくれる。それ程深い森ではないが、起伏とカーブの多い侠幅の山道を行く。アスファルト舗装をしているので走りにくくはないが、いくら走っても周りには民家が全くない。6km走って最後の勾配を登りきると急に視野が開けて、先方に、塔をもつ薄クリーム色のエルマウ城が姿を現わす。その周りは草原で、建物といえば干草小屋が点在するだけである。城の背後には衝立の様なヴェター・シュタイン山脈の岩壁がそびえる。今まで見たことのない、目の覚めるような光景である。

 

  

 

エルマウ城へ続く牧草地 & 道

 

 

撮影者の後ろが玄関前の広場 ・ 裏の小川から

そもそも、このホテルは “エルマウ城“ という名であるが、本来の意味での城ではない。自然と芸術に思い入れた人生改革論者で著述家であるヨハネス・ミュラー氏が荒涼とした寂しいこの地を手に入れ、後援者であるエルザ・ヴァルダーゼーという伯爵夫人の寛大な経済的援助をうけて1916年に完成させた城風の建物である。彼は、ストレスの溜まる日常生活をしばしの間離れて、自己を再発見する “隠れ家“ として、友人や客人や芸術家たちが集うのを意図していた。

ヒトラーの第三帝国の時代には、反ユダヤ主義や生物学主義に公然と反対し、それ故に、全ての著作を押収され講演活動や著作の刊行を禁止された。ヨハネス・ミュラー氏は1941年、エルマウ城が押収される前に、前線の兵士のための保養施設として国防軍に賃貸した。終戦後アメリカ軍の病院として短期間押収され、その後1951年までは結核病患者、被差別民、そしてホロコーストの生存者などの保養施設として使われた。その後ミュラー家の所有に戻ったのであるが、数多くの著名な音楽家によって、徐々に “エルマウ城” は室内楽のメッカとして世界中にその名を知られるようになった。この当時エルマウは利益を追求することではなく、人の出会いと集いの場の提供を主眼としていて、収支は辛うじてバランスがとれる状態だったそうである。

   

 

牧草地から ・ 裏面

 

  

 

正面 ・ 玄関前の広場から 

 

 

 

別館 ミュラー・ハウス ・ 近くの散歩道

1997年以来、ヨハネス・ミュラー氏の孫であるディーター・ミュラー・エルマウ氏が建物の修理改装を重ねるなかで、昔の理念である “隠遁“ から離反していき、エルマウ城はヨーロッパ、アメリカ、イスラエルの知識人が時事的な討論を交わす場としての色合いを濃くしていった。この頃からエルマウ城の催しが室内楽のみに留まらず、ジャズ、文芸、政治討論、そして子供の為の教育行事と広がって行った。私の好きだった、いわゆる „古き良きエルマウ“ の基盤が、ディーター・ミュラー氏の経営になってから揺るぎ始めたと思う。

そして2005年の夏に大火に見舞われた後、2007年夏にスパ・ウェルネスを充実させて5つ星ホテルとして再開業した。

今回の私の部屋は焼け残った部分にある部屋で、きれいに内装を施している。大き目のシングル部屋ということで、第一と第二のドアの間が広く、衣装戸棚、荷物置き棚、冷蔵庫、トイレ・洗面・シャワー室があり、第二のドアの後ろに、キングサイズのベッドと事務机、一人掛けソファー、テレビとCDプレイアーがある。質素だが清潔感のある部屋だ。小さなバルコニーからは、岩肌の間にすでに雪を宿したヴェター・シュタイン岩山を望む。

  

中庭 ・ テラス 1

  

テラス 2 ・ 客室からの景色

近くの山 ヴェター・シュタイン ・ ヴェター・シュタインの麓

洗面室にはピンクのバラが一輪、部屋には立派なランの鉢植えが置いてある。その他、ミネラルウォーター、スナックとリンゴ3個がサーヴィスなのだが、その脇のナプキンに、落ちていない口紅らしい赤い色が見える。さらに、このリンゴを毎日1個づつ剥いて食べたのであるが、芯と皮は毎日の掃除のときに片付けてくれた。が、その時に使った皿とナイフはずっと置きっ放しなのである。最後の日にはリンゴはもうないのに皿とナイフは置いていて、ベタついていた。バスルームのタオルであるが、最初はバスタオル、洗顔タオル、そして足拭きマット状タオルがそれぞれ1枚ずつと洗体タオルが2枚置いてあった。それがチェックアウトの日には、バスタオル3枚、洗顔タオル2枚、そして足拭きマット状タオル2枚、そして洗体タオルが3枚、というふうに増えていたのである。かといって私に不都合があるわけではないのだが、タオル類の管理がいい加減だと考える。部屋には電話が2台あるのだが、どちらの液晶画面にも今の時間が表示してある、、、はずである。ところが、一方の時間はまだ夏時間の表示になったままだ。部屋に、多くの高級ホテルで一般的であるウェルカム・レターが置いてあった。英語であり、テキストもミュラー・エルマウ氏のサインも印刷又はコピーであるのはまあ許せるが、14ヶ月以上も前である2008年8月29日の日付を訂正していないのは、5つ星を標榜するホテルとしてはあってはならないことであろう。日付をチェックせずにそのまま Dear(私の名前)と書き加えただけの、心が全くこもっていない „歓迎の書“ である。昨年の11月に来た時は新規開業してまだ日が浅かったからか、スタッフがやる気に満ちていたらしく、今回見られるような „落ち度“ はなかったと思う。

„エルマウ城“ は古い建物なので、廊下も部屋も、板張りの部分は歩くとギシギシ音がする。部屋は古いなりに清潔で、二重扉なので静かである。扉の鍵は大きな重いものであるが、エルマウに泥棒は居ない〉 ということで、鍵はかけない客が多いそうである。質素な部屋ではあるが、家具が古くて趣がある。ラジオもテレビもない。大きな建物なので酒場やプールやサウナなどがあるけれども、それらにあまり興味のない宿泊客は、コンサートのない日の夕食後は読書をして寝るだけである。老人客が多いからか静かでよいのであるが、暖房がきつ過ぎるきらいがある。いつものことであるが、エルマウでの滞在は “下界“ の生活から離れた特別な時間である。

このホテルでの宿泊は二食付である。“ファミリー・レストラン”と名の付いたビュッヒェ形式の大食堂に行くと、子供や赤ん坊をつれた家族がたくさん居てごった返している。何とも落ち着かない食事だ。昔は11月というと催し物もなくて宿泊客が非常に少なく、この一ヶ月はホテル自体を閉めてしまう時期もあったのに、今回は、静かに読書と書き物が出来るという予想と期待を裏切られてしまった。

今週は “ジャズ・サミット・クラブ“ というジャズ・フェスティバルの後半で、私は5泊するのであるが、同時に子供週間で、児童演劇のワークショップがあるらしい。後で聞くと、ここバイエルン州の学校は今、秋休みの最中だそうだ。エルマウは部屋数が数百の大きいホテルで他にもレストランがいくつかあり、大人だけの為のレストランもあるのだが、大食堂に来たのは、ビュッヒェでサラダをたくさん食べようと思ったからである。各種のサラダがあり、いろいろな前菜が小皿に入れてある。ただ、ビュッヒェの取り皿が膝より低い位置の棚に置いてあるのが気になるのは私だけだろうか?

大食堂の一角はオープンキッチンになっていて、その日の4種類の主菜のうちのひとつを盛り付けてくれる。結構美味しいが、“作り置き” というビュッヒェ形式の短所は如何ともしがたい。

2日目の夕食は、給仕の女性が、静かだということで勧めてくれたのに従い、大食堂の近くにある “冬園“ という名のレストランに行った。ガラス窓に囲まれた空間である。床も天井も薄茶色の木材だ。全体的に、このホテルは建築材料として木材を多用している。ビュッヒェに食事を取りに行ってもいいがア・ラ・カルトで注文してもいい、ということなので前菜に焼き帆立貝を、主菜にイベリコ豚の背肉を注文した。まあ、それなりに美味しいが、数千円の追加料金を払ってまで食べる料理ではなかった。給仕も、食事の楽しさを助長するレベルに達していない割には、勘定書きにチップの金額を記入する欄がちゃんとある。昔はエルマウではチップの習慣はなかった。

それとは対照的に、1日目に行った大食堂の給仕スタッフは個人差があるけれども総じて良く、私はサラダを沢山食べられるビュッヒェの方をひいきにしたい。

毎晩各部屋に配布される翌日のプログラムに載っていたグルメレストラン、 “ルーチェ・ド・オレ“ のメニューに、山葵を使った料理と柚子を使った料理を見つけた。俄然興味をかき立てられたので、4晩目の夕食はこのグルメレストランで摂ることにした。

ところで、このレストランはミシュランガイドの2009年版に、“来年星を1つ取れそうなレストラン“、として紹介されていたので、給仕スタッフに訊くと、まだ当否は分からなくて、来週の2010年版の発売をドキドキしながら待っているそうである。

室内は暖炉が燃えていて、明かりを落としている。感じの良い空間である。給仕スタッフは親切で、よく気を配ってくれる。

食事は目当ての料理が入った4品のメニューを注文したが、その他に、アペリティフの当てに3種類の一口小品、厨房からの挨拶として魚料理の一皿、そしてサーヴィスのデザートの小皿が供された。

さて、山葵を使った料理であるが、これには失望した。生のマグロの薄い切片に爽やかなクリームソースがのっていて、その左右にマグロのタタールとゼリーの薄片に挟まれた生牡蠣がある。“山葵“ として出しているのは、何のことはない、いわゆる西洋ワサビの若芽で、山葵の風味なんて全くない。生牡蠣がふっと匂って後味として残ったのは、少なからずショックであった。不幸にも、柚子を使った料理で私の失望感は続いてしまった。コンソメ風スープに数種の野菜の小切片が泳いでいて、中に焼き帆立貝が二切れ。スープは少しどぎつい味で、柚子の爽やかさも香りも少しも感じられない。野菜の小切片に柚子のそれが混ざっているかと探してみるが、陰も形もなし。まさに不当表示である。さらに、給仕の勧めに応じてメディウムにした主菜のステーキには肉自体の美味さがなく、殆んど無味である。時々家で焼く、営業用ステーキ肉の方がはるかに美味しいと思った。今日の夕食、このレベルで1万円弱の追加料金である。金銭のことは余り言いたくはないが、全くバカバカしい夕食であった。

ここ数年、西洋レストランで和食の食材や薬味が流行っているようだが、それを使いこなしているシェフにまだお目にかかったことはない。

さて、このグルメ・レストランだが、私の評価は、雰囲気とサーヴィスに関してだけならミシュラン1つ星でもいいが、料理はダメ。さあ、ミシュランガイドの評価はいかに? (後日、ミシュランの1つ星を獲得した。)

先に述べた “ヘルフェリン(お手伝いさん)“と呼ばれる、若い女性スタッフであるが、このホテルの特異性を具現する彼女達はウェィトレスの仕事だけでなく、キッチンの仕事、部屋係のメイドの仕事、掃除婦の仕事などの裏方仕事を受け持っていて、ヨーロッパ各地の一般学生やホテル学校の学生が実習をしている場合が多い。母親が日本人で父親がイギリス人だというオックスフォード大学の学生も居た。

昔は、国内の裕福な且つ厳格な家庭が家事一般と行儀作法を身に付けさせる為に、娘を一定期間(通常1年間)“ヘルフェリン“としてエルマウに預けていたそうである。彼女らには仕事中の私語が禁じられていたそうだ。このメットヒェン  (娘) 達の扱いは、エルマウに滞在する宿泊客と平等で、自分に割り当てられた仕事が終わった後はコンサートなどの催しに参加する権利がある。彼女らが最も楽しみにしているのが、頻繁に開かれるダンスパーティーだ。年頃の宿泊客の男子はお目当てのヘルフェリンと踊りたいために、彼女の仕事を手伝って、早く踊りに行けるようにしたものだそうだ。そうして結婚まで行ったカップルも珍しくないようで、私の妻が一時師事していたピアノのクラウス教授も奥さんをエルマウで見初めたそうである。エルマウでのダンスは神聖な行為と位置付けられていて、娘たちは素足で頭に花を挿して踊り、踊っている間の雑談は禁じられていた。

ある日曜日の朝7時半、静かであるはずのエルマウ城の回廊に歌声が響く。何かと思っていると、 „ヘルフェリン(お手伝いさん)コーラス“ のメンバーが歌いながら巡回しているとのこと。宿泊客がプレゼントとして、チョコレートやナイロン靴下や本などをドアの取っ手にかけてあるのを洗濯籠に集めて、ヘルフェリンたちで分けあったそうである。

今ではそのヘルフェリン達もいなくなり、ごく普通の有給従業員になってしまった。

エルマウの特徴のひとつは、頻繁に催される、宿泊客には無料のコンサートである。昔は圧倒的にクラシック音楽が多かったが、だんだんとジャズが増えてきた。実は妻と私がエルマウ城を知ったのは、妻がここで1回目はチェロと、2回目はフルートと二重奏のコンサートを行ったからである。

今回のジャズ・フェスティバルでは全部で10組のグループが演奏したが、私は後半の4組を聞いた。10組のジャズミュージシャンたちは、ドイツを始めフランス、ノルウェイ、アイルランドなどヨーロッパ各地から来たようであるけれども、私の知っている名前はない。最も、私は最近あまりジャズを聴かなくなったので、現在活躍している人は殆んど知らないのであるが、、、、。以前はよく、世界的に知られたミュージシャンが来ていた。例えば、1998年のプログラムを見ると、ハービー・ハンコック、チック・コリア、バーバラ・ヘンドリックス、トーマス・クヴァストホフ、ギャリー・バートン、レイ・ブラウン、、、と、私の知っている名前が並んでいる。今のレベルはどうなのであろうか?

コンサートとは別に、暖炉のある広間で毎日2回、1時間と2時間のジャズ生演奏をバックグラウンド・ミュージック的にやっているように、エルマウ城の創始者ヨハネス・ミュラー氏の孫であるディートマー・ミュラー・エルマウ氏の経営になってから格段にジャズが増えた。彼の個人的好みを反映しているのだろう。

図書室

ホテル・エルマウ城は海抜1000mの人里はなれた山の中、多くの客を集めるためにいろいろな分野を提供する。例えば、コンサート、講演、ビジネスマンのワークショップやシンポジウムの場所、グルメ、(著者による) 朗読会、スパとウェルネス、ギムナスティック、ダンス、ヨガ、少林寺拳法、太極拳、案内付トレッキング、子供のための各種催し、、、といった具合である。部屋の販売戦略としてはうなずけるが、そのために全部が2流になっている感がある。ほぼ唯一の良い点であるが、このホテルは特に子供への配慮が素晴らしいと思う。

昨年もここに5泊したが、その一部はホテルからの招待であった。ホテル再興に当たって寄付をした常連客にお披露目をしたわけである。私の心中には昔の質素ではあるが心にしみる雰囲気が宿っていたため、儲け主義を具現化したような „新エルマウ城“ に少なからず反感を持った。今度の滞在でもそれが尾を引いていて、悪い所だけがやたらと目に付いたようである。

新しいエルマウになってからの大きな特徴はウェルネスである。エルマウのスパ & ウェルネス・ハウスの設備は全ドイツでベストファイブに入っている、という評価があり、 „The leading Hotels of the World“ のメンバーにもなっているようだ。

私は本来このホテルが好きで、創始者ヨハネス・ミュラー氏の精神を支持する会の会員にもなっていたし、全部で80泊ぐらいしている。私の人生で最も頻繁に利用したホテルだ。

しかし、である、ディートマー・ミュラー・エルマウ氏の経営になってからホテルの „姿“ が、哲学のない単なる超高級ホテルになってしまった。私は上記の会も退会したし、もうエルマウに関わることはないのではないかと思う。

美しい、そして自由で居心地の良い、きちんと整理された清潔なエルマウ城の常連達は、自らを “エルマウ人“ と呼び、ここに来る客人に対して、国籍、人種、宗教、支持政党、世界観、職業などを訊ねることはない。彼らの目的とするところは、平均以上の知的水準、ある程度の意見の一致、強固な一体感、そして、相互の信頼である。

ホテル・エルマウ城は、2015年にG7-サミットの会場になった。 

〔2009年11月〕〔2021年6月 加筆・修正〕

 

 

 

 


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