カールスルーエでローカル線に乗り換えて40分、ゲルンスバッハ駅前に四角い7、8人乗りのタクシーが並んでいる。後で運転手に聞くと、決まった時間にバス停を結んで走行してバスの代役を果たしているそうだ。日本同様ドイツでも僻地でのバスの定期運行は採算が取れないのであろう。
そのタクシーでムルク谷を流れる川から130メートルの高さにあるエーベルシュタイン城に登って行く。この城は1272年にフォン・エーベルシュタイン伯爵の居城として初めて歴史書に現れ、16世紀と17世紀に大規模な増築がなされたが、伯爵の家系が途絶えて所有権が二つの公的集団に移った。それ以後貴族の居城としては使われなくなって、単なる管理者の住居になってしまった。そして1691年に火災で一部焼けてからは作業場と倉庫としてのみ使われた。1798年に再び個人所有になって1802年に外観が、そして1830年に内装が新ゴシック様式の城館に改築改装され、19世紀の末期にさらなる改築が行われた。今世紀の初頭からムルク谷の中流を見下ろす4星ホテルとして営業をしているのだが、ホテルとレストランがあるのは城から数メートル低い位置にある建物群である。城には所有者の家族が住み、下部に広がるぶどう園でワイン醸造業を営んでいて、ホテルレとストランが入る建物群を賃貸しているそうである。
ぶどう園と城郭施設の遠景 ・ 城郭施設の全景
谷ではムルク川に沿って小さな村々が連なって近隣の山々に分け入り、素晴らしい景観である。周りにはいたるところにベンチを備えた展望台があるハイキング道が縦横に走っているが、積雪があって思うように歩けない。
ホテルとレストランの建物群は一部は厩か納屋だったのかもしれないが、それにしても立派で頑丈な建物だ。入り口もレセプションも小さくてエントランス・ホールのようなものもない。レセプションの傍らに電気仕掛けの暖炉をもつ小さな図書室を設えてある。
ホテルとレストランの建物群 1 & 2
ホテルとレストランの建物群 3 & 4
図書室
経験豊からしいレセプション係の中年男性が部屋まで案内してくれる。廊下の一番奥の部屋で静かだ。快適シングルルームを予約していたのだが、ダブルのシングルユースである。タータンチェックの絨毯床で壁は薄茶色で天井は白。バスルームはダブルの洗面台で泡風呂がある。面白いことに湯たんぽを置いている。狭いが換気扇の付いたトイレが別になっている。スリッパがないのは残念である。バスローブのポケットに百円ライターが入っているのは、それで部屋の数箇所にあるローソクに火を点けろということだろうか。骨董価値はなさそうだが使い古した家具で、残念ながら中には低品質のものもある。4隅に支柱があり回りをカーテンで囲めるベットだけが昔の雰囲気を醸し出す。壁にはモダンな抽象画と古い城の絵と花の白黒写真がかかっていて統一性に欠ける。部屋の中に鉢植えの潅木を置いているのは珍しい。テレビはもちろんのことCDプレイアーがあり、ドイツのホテルには珍しく壁にクーラーを取り付けている。ドイツで一番暖かいこの地域は、夏は30度を越す日もあるらしい。全体として地味なシットリとした部屋である。
廊下 ・ 私の部屋 1
私の部屋 2 ・ 洗面台
ところで、私の部屋は13号室である。日本の4のように縁起が悪いからドイツでは13は欠番にしている、と今までずっと思っていた。私はキリスト教信者ではないので別にどうってことはないが、これからは意識してチェックしてみよう。
さて、このホテルのグルメ・レストラン(ヴェルナースレストラン、すなわちシェフであるヴェルナー氏のレストラン)は2006年からミシュラン1つ星を持っている。ところが残念ながら冬場は週末しかやっていない。ということでもう1つの、この地方の料理を食べさせるというシュロス・シェンケ(城内居酒屋レストラン)を利用せざるを得ない。そこにはいくつか部屋があり、私が座ったのは細長い清潔感溢れる部屋で、大きなガラス扉3枚で広いテラスに面する。その向こうには眼下の谷間にゲルンスバッハの町が望める。今日はバレンタインデーということで、各テーブルに赤いバラの一輪挿しがあり、その周りに椿に似た花びらを散らしてある。壁の照明には電燈ではなくて本物のロウソクを立てる燭台を使っていて、全体に薄暗い。ブルースやポップスのBGMが静かに流れる。積もった雪にさらに雪が降っていてロマンティックである。来るわ来るわ、20代後半から30過ぎぐらいのアベックが。私以外の客はアベックだけで、私が見た限りみんなバレンタインデー・メ二ューを食べている。
レストラン ・ 私のテーブル
バレンタインデーは幾つかの国で 〈恋する者たちの日〉 ということになっているが、ドイツを含むドイツ語圏では花商いによって知られるようになり、こんにち花商人とチョコレート・メーカーによってブームをあおられているのは日本と同じであろう。
若くて感じは良いが少し素人っぽいウエイトレスに訊く。
「私は一人ですけど、バレンタインデー・メニューを頼んでもいいですか。」
「ええ、どうぞどうぞ。」
アペリティフにノン・アルコールのカクテルを頼む。エーベルシュタイン城で醸造したシュペートブルグンデルの赤ワインがちょっと甘めで美味しい。
厨房からの挨拶は肉と野菜の細切れをジェラチンで固めた料理で、上に生クリームとシナモン味の煎餅もどきがのる。薄味で美味であるが、長く冷蔵庫に入れていたのだろう、冷た過ぎる。常温に戻してから出して欲しかった。
さて、バレンタインデー・メニューの一皿目は地元で取れたカワマスの料理3種類だ。1: すりつぶして団子にしてアーモンドの薄片をまぶしてある。2: 蒸して西洋ワサビの泡ソースをかけてある。3: すりつぶして香料と混ぜて、殆ど味のないソフトチーズの上にのせている。それに赤カブのサラダが少々付く。どれも薄味で繊細で旨く、食材の料理による変化が面白い。
サーヴィスの責任者らしい女性が挨拶に来る。
セカンドは白いカリフラワーのスープで、タイ風カレーの味をあしらっていて豆の鞘が少し入る。焼き海老を串に刺して皿に渡してある。アジア系の味だがどぎつくなく美味しい。熱々の皿で供されるのが気持ちいい。
メニューがテーブルに立ててあるからか給仕の女性が料理の説明をしないし、他の多くのレストランのように皿を下げるたびごとに「美味しかったか。」と訊くことをしなくて、あっさりした進行である。
メインディッシュはピンク色に焼いた鴨の胸肉をサボイキャベツがほんの少し混ざったマッシュポテトの上に乗せている。付け合せはわずかに糖衣をつけた茹で野菜で、全体にガチョウの肝臓ソースがかかる。この料理が絶品であった。一見私の好みからして焼き足りないかと思った肉が、なかなかどうして、中までちゃんと火が通っていて、しかも大変に柔らかい。完全に成功した低温料理である。野菜も火は通っているがしっかりした歯ごたえが残っている。ソースの味の主張が少し弱いのが残念であった。
デザートは生暖かいトルテ(デコレーションケーキの類)、カカオクリームの下敷きに広げたパイナップルの細切れ、チョコレートムース、それにパッションフルーツのシャーベットが綺麗に配置されていて美しい。
量が少なかったのか調理の仕方のせいか、胃にもたれた感じがしない。美味しい料理を提供するレストランである。
私一人が周りの雰囲気から浮いているような気がして、食後のエスプレッソを飲まずに部屋に帰った。
このホテルの催し物を見ると城館ホテルであることを前面に出すのではなくて、料理教室を含め、食をテーマにしたものばかりだ。ウェルネスやマッサージの設備は無いし、周りはブドウ畑と山ばかりなので、山歩きをして美味しい料理を食べて寝るだけのホテルで、私にはうってつけである。
グルメ・レストランで朝食を。部屋の雰囲気とテーブルの設えからそれが分かる。すなわち高い天井に大きなシャンデリアが2つ下がり、明るく広々とした空間はクリーム色でまとめていて、テーブルの間隔を広く取っている。テーブルには銀食器と立派な布のナプキンがのる。給仕の女性の態度と物腰も一流レストランのそれである。ブュッフェには特筆するものはないが生野菜と果物類の種類が豊富で、フルーツサラダ用の果物を種類ごとに分けて容器に入れているので、好みに応じてアレンジ出来るのが嬉しい。卵料理の注文を訊いてくれる。
ダブルルームととスイートを合わせて16部屋しかないホテルであるが、宿泊客は多くなかったようだし、中年から老年の夫婦が殆どだ。昨晩の夕食のときには見なかったのだが、どこにいたのだろう。朝食後の気分が良い。朝食という行為全体として完璧に近い朝食であった。
2晩目もシュロス・シェンケ(城内居酒屋レストラン)で食す。今晩は違う部屋で、天井に木の梁があり、無造作に荒っぽく見える柱が真ん中に立ち、岩石がむき出しの壁に小さい窓がはまる。大きな門扉の向かいにカウンターがある。赤色で統一した装飾を施した居心地の良い空間で、大きなバラをデザインした古いテーブルを使っている。18時に行くと客は私だけなので、ポーランド訛りがかわいいサーヴィススタッフの女の子と雑談を交わす。小学校のときから日課にドイツ語の授業があったがドイツ語はその頃からずっと嫌いだ、というので思い切った質問をしてみた。
「ここだけの話だけど、、、、やはり第二次大戦のことがあるからドイツ語が嫌いなんですか。」
「いいえ。ドイツで働いたことがある父にドイツ語を学ぶように言われたことに反発したのと、ドイツ語の響きが嫌いですから、、、、。私は英語の方が好きです。」
二十歳ぐらいの娘であるが、ドイツ第三帝国に侵略された過去はそれ程気にしていないのだろうか。
さて食事である。〈城館メニュー〉なるものがあるが、軽く行きたいのでア・ラ・カルトで注文する。メニューではないのでキッチンからの挨拶がない。城で醸造されたリースリングの白ワイン200mlを頼んだ。サッパリしていて美味しい。昨日は少し残したが今日は完飲出来た。
前菜はマウルタッシェという焦がした玉ねぎ・パンくずなどと一緒に炒めたひき肉を詰めた餃子のような手作りの料理で、この地方の名物だ。アーモンド数粒と炒った穀物粉がのる。生暖かいポテトサラダが付いている。〈餃子〉を2つか4つか選べるのだが、サラダが意外と多かったので2つにしてよかった。薄味で少し塩を振るとグッと味が引き締まった。旨い。
このレストランの主菜は殆ど全部、一人前か半人前か選んで注文できるようになっている。私の選んだ料理は、数種類の海鮮を焼いて長粒ライスにのせている。冬野菜が添えられて甲殻類ソースがかかる。海鮮は海老、ホタテ、3種の白身魚であり、ホタテは殆ど生で、高級レストランで供されるレベルだ。人によっては塩を一振りしたい位に薄味だが、食材の味はそれぞれしっかり出ていて美味である。半人前でも私には十分な量であった。考えれば、ミシュラン一つ星のレストランと同じ厨房でほぼ同じ食材を使って、シェフのヴェルナー氏が作るのだから美味しいのは当然であろう。
エスプレッソで締めくくったが、それと前後して両親と息子と東アジア系(日本人?)の嫁の4人連れの客が来た。
バスルームの電灯が1つ壊れたので言っておいたところ、夕食から帰ったら直っていた。素早いサーヴィスが心地よい。
2日目の朝食もグルメ・レストランだが、小さい別の部屋でテーブルの間隔が狭い。女の子が経験不足で、デザート用の深皿を出していないし卵料理の注文を訊かない。昨朝の満足感は得られなかった。
驚いたことにシェフのヴェルナー氏がテーブルを廻って挨拶をする。ビュッフェに自分の朝食を取りに来たついでにしたことではあるのだが、好感が持てる行為だ。彼は小柄で太ってなく、いかにも重くない薄味の料理を作る人らしい。
エーベルシュタイン城ホテルは、それが建つ位置といい、周りの環境といい、食事にしても、こじんまりしたところもサーヴィスも私の好みにぴったりで、ぜひまた利用したいホテルである。長期滞在して周りのブドウ畑や山々を歩き回りたい。
お土産にくれたハチミツの壜のラベルに、〈お越し下さいましてありがとうございます。ヴェルナー家と城に住む幽霊たちより〉 とある。
〔2012年2月〕〔2021年12月 加筆・修正〕