バーとホテルと農業と…           ほんまはテレビ

東京から徳島の山奥へ移住したテレビディレクターの田舎暮らしドキュメント。毎日なんやかんややっとることの記録です。

被災地で見た希望  石巻 石ノ森萬画館「春のマンガッタン祭り」

2011年05月07日 07時39分43秒 | 被災地報告
GWの5月3日から5日まで再び石巻に行き、
会社の仲間2人と共に被災地を見て回りました。
女川町にも始めて行ったのですが、
20メートルもの津波に襲われ壊滅した町を目にした時は言葉を失いました。
始めて被災地を目にした仲間は僕以上に衝撃を受けたようで、
無言のまま新幹線に乗り、一足先に東京へ帰って行きました。


今回、僕が石巻に行った目的は、
石ノ森萬画館が5月5日の子供の日に行うイベントを撮影することでした。
前回訪れた時には、周囲を瓦礫に囲まれスタッフが館内の泥を懸命に洗い流していました。
電気も水道も復旧しておらず、今後の見通しは何も立っていないと言っていました。
被災直後からの写真がブログに掲載されています
それでも5月5日の子供の日には、毎年恒例の「マンガッタン祭り」をやりたい。
案内してくれた木村さんは、遠藤さんや影山さんにそう言っていました。
「今年は無理だろう・・・」
現場の状況を目にした僕たちは、そう思っていました。

その「春のマンガッタン祭り」の開催が決定したのです。
しかし、イベント開催に漕ぎ着けるまでには大変な努力があったようです。
電気も水道もない。
周囲は瓦礫だらけ、館内は泥だらけ。
粉塵が舞い、未だに余震も収まらない。
そんな所に子供たちを集めて、何かあったらどうするんだ?
批判の声は数多くあったそうです。

「たとえ小さなイベントでもいい。出来ることをやろう」
そんな思いでスタッフは準備を始めました。

「避難所にいる子供たちは、遊び場もないんです。一日だけでも楽しくおもいっきり遊べる場を提供したいと思って」
木村さんは様々な人を説得して回りました。

「周囲を見渡すと灰色の瓦礫ばかりで色がないんです。だから、鯉のぼりだけでも掲げようと思って」
スタッフの大森さんは、何十匹もの鯉のぼりを萬画館に飾りました。

スタッフが必死に泥や瓦礫の撤去作業をしていると、
お手伝いのボランティアが集まるようになりました。
イベント開催の記事が地方紙に掲載されると、
様々な人から協力したいと申し出がありました。

山形県新庄市からは大勢のボランティアスタッフが、大量のおもちゃを持ってやってきました。
避難所で炊き出しをしていた神奈川、東京のボーイスカウトは、帰京の日程を延ばしてやってきました。
地元のスポーツ店の呼びかけで、元 J リーガーがサッカー教室をしにやってきました。
ある大学教授は工作教室の材料を準備してやってきました。
それ以外にも多くのボランティアが集まり、イベントの規模はどんどん膨らんでいきました。



5月5日子供の日、
天気は快晴。時折強く吹く風に粉塵が舞っています。
10時のオープンを前、すでに親子連れの長い行列ができていました。
萬画館のスタッフもボランティアの人たちもどこか緊張しています。
みんな手短に挨拶をし、それぞれの持ち場に散っていきました。
オープニングは石巻が生んだヒーロー、シージェッター海斗のヒーローショーから。
大勢の家族連れが集まりました。
でも、その表情にはどこか遠くを見つめるような、戸惑いが感じられました。



萬画館の入り口前ではやきそばと焼き鳥、おしるこの炊き出しが、
館内では子供たちにお菓子、文房具、おもちゃのプレゼントがありました。
おもちゃの山を前にして、子供たちの目が輝き始めました。



工作教室に参加した子供たちが、いつの間にか夢中になっていました。
サッカーのミニゲームからは大きな歓声が上がりました。



子供たちは友達を見つけて駆け回り、その様子を見ている大人たちの表情が少しずつ柔らかくなっていきました。
萬画館のスタッフやボランティアの人たちからも、ようやく笑顔がこぼれました。

「正直、こんなイベントが出来るとは思っていませんでした。多くの人に支えられて、そんな人のありがたさを実感しました」
イベントを終えた木村さんはボランティアの人たちと固い握手を交わし、帰っていく人たちを最後まで見送っていました。



イベントを終えた木村さん。シージェッター海斗のポーズで。

「いつ萬画館が再開できるかは分かりませんが、少しでも明るい話題を人々に届けられるよう頑張っていきたいと思います」
木村さんは笑顔でそう言っていました。


イベントの途中、大きな被害を受けた街の中心部を歩きました。
10日前、最初に来たときとそれほど大きな変化は感じられないのですが、
ボランティアでやってきた大勢の若者たちの姿を至る所で目にしました。
泥と瓦礫だらけだった商店は少しずつ片付けを始めていました。

床屋の看板が回っていたので近づいてみると、
ご主人が店の前で植木鉢に球根を植えていました。
一階の店は完全に水に浸かったそうですが、なんとか再開できたそうです。
「娘夫婦の家が駄目になって、今は店の上で一緒に暮らしています。老人二人だけの生活が一気ににぎやかになりましたよ」
お客さんがやってきて、ご主人は店に戻っていきました。

ボランティアの人たちと一緒に店内の掃除をしている呉服屋さんがありました。
一階の店は壊滅状態。中は泥だらけになり、ほとんどの商品は駄目になったそうです。
「ここも震災前までは地方都市独特の閉塞感が漂っていました。
全てを失ったのですが、今はなんだか清々しい気持ちです。前向きに考えていかないとね」
そう言ってボランティアの人たちとこびり付いた泥を洗い流していました。

「マンガッタン祭り」の打ち上げには、
周辺の片付けの手伝いをしたボランティアの若者たちもやってきました。
会社を辞めて滋賀からやって来た若者は、
「自分に何が出来るか、それが見えるまでここにいようと思っています」
謙虚に、でも大胆に、自分の人生を切り開こうとする意気込みが伝わってきました。

被災地ではまだまだ悲惨な光景を目にします。
しかし、その至る所で小さな希望の光を見つけることが出来ました。


ヒーローの町、石巻。町のあちこちに石ノ森章太郎のマンガのキャラクターがいます。


東京に戻って、今回撮影して来た映像を見直しました。
最初は自分の暮らしている日常と画面の中に映し出される世界のギャップに戸惑いました。
それが、次第に映像の中に引き込まれ、懐かしく温かい気持ちに変わっていきました。
人々の力強さ、優しさ、情熱が映像から溢れ出しています。
東京ではなかなか感じることの出来ない“リアル”な肌触りがそこにはあります。
混沌の中から、新しい時代を切り開こうとする人々の息吹を感じます。



「いつか笑える日」仲井戸麗市

被災地からの報告3 気仙沼市にて

2011年04月27日 13時47分03秒 | 被災地報告
24日、お世話になった南三陸町の避難所を出て車で気仙沼へ向かう。

途中、南三陸町の役場と災害対策本部が置かれているベイサイドアリーナへ。
ベイサイドアリーナの中は避難所になっているが、入り口付近まで寝ている人で溢れていた。
周囲には自衛隊やボランティアのグループのテントが立ち並んでいる。
少し離れた場所にプレハブの建物が並び、その一つが災害対策本部になっていた。
義援金を手渡し、少しだけ話しを聞いた。
今回、南三陸町で受けた衝撃はあまりにも大きかった。

海岸線を北上し、気仙沼市へ入る。
気仙沼市では商店なども次第に再開を始めているようだった。
小さな商店の女性が、店先で大量の食器を洗っていた。
市役所に行き、義援金を手渡す。
目黒から来たと告げると
「目黒からは本当にたくさんの支援を頂いています」
と担当の女性が言ってくれた。

その後、気仙沼漁協を訪問。
ここでも少しばかりの義援金を手渡す。
対応して頂いた方は、
「ありがとうございます。今年も目黒に行けるように頑張ります」
と力強く語った。
その言葉を聞いて僕の方が逆に勇気をもらった。
この人たちともう一度目黒で会えるように、出来るだけのことをしたいと思った。

被害を受けた港へ向かう。
海岸近くの建物は破壊され、船は黒く焼けこげていた。
しかし、魚市場の中はすっかり奇麗に片付けられていた。
1日も早い市場の再開を、そんな思いでみんなが必死に片付けたのだろう。
少し希望の光が見えたような気がした。


気仙沼港


焼けこげた船


港から対岸を見る


海岸近くの町


海岸近くの町2


打ち上げられた船



今回の被災地訪問で思ったこと・・・。

わずか3課間で僕が目にした光景は被災地のほんの一部に過ぎない。
全体の被害を考えると、自分一人で何が出来るのか?その無力さに愕然とする。
テレビや新聞の報道で伝えられることは、あまりにも大きな被害の一部だと思った方がいい。
「○○さんが避難所を訪れ、人々に笑顔が戻った」などという記事があっても、
それは全体のほんの一部に過ぎない。
それ以外の数えきれない被災者を想う想像力が必要だ。
そして、全ての人々に笑顔が戻るまでには、長い年月が必要だと言うことを忘れてはならない。

そんな彼らのことを忘れないためには、お互いの顔が見える支援が必要だと思った。
目黒と気仙沼は友好都市協定を結んでいる。
もっと彼らを身近に感じることが出来るよう、また足を運んでみようと思う。


被災地からの報告2 南三陸町にて

2011年04月27日 11時31分38秒 | 被災地報告
23日の夜、コンサートを終えた遠藤さん、影山さん、きただにさんらと別れて一人で気仙沼へ向かった。

今まで東北地方(特に三陸海岸)にはあまり縁がなかったのだが、
地震以来気仙沼のことはずっと気になっていた。
僕が住んでいる東京目黒では毎年秋に「目黒のさんま祭り」が行われる。
(『目黒のさんま祭り』HPの「気仙沼の心意気」是非見て下さい)

この祭りでさんまを無料で提供してくれていたのが、気仙沼の漁協の人たちだった。
もくもくと立ち上る炭火の煙の中、さんまを焼いてくれたのも気仙沼の人たちだった。
少ししか話したことはないが
「夜みんなでバスに乗って来るんです。今日の祭りが終わったらそのままバスに乗って気仙沼に戻ります」
と言っていた。
そんな気仙沼も今回の大地震で大きな被害を受けた。
夜、街が炎に包まれ燃え上がっている映像をテレビで見た。
 
石巻から気仙沼まで車で普通なら1時間半、
道は多分大丈夫だろうと聞いていた。
三陸自動車道を北上し、南三陸町に入った。
あるところから突然、町の明かりがほとんど見えなくなった。
暗闇の中、車のライトに浮かび上がったのは瓦礫の山だった。
至る所の道路が水没し寸断されていた。
訳も分からず迂回路に入った。
その先には燃え上がる炎が見えた。
僕は恐怖で車を止め、そこから先に行くことを断念した。

来た道を引き返し、暗闇の中に明かりの灯った一つの建物を見つけた。
建物の前まで行ってみると、そこは地域の公民館で避難所になっていた。
建物から出て来た50代の男性は、僕のことをうさん臭そうに見つめた。
恐る恐る外の駐車場に車を止めて寝ていいか、聞いてみた。
男性は仕方ないと言った様子で許可をくれた。

その男性に話しを聞かせてもらえないか?と頼んでみた。
「別に話すことはない」と男性は奥に消えた。
所在なく立ち尽くす僕に、別の男性がソファに座りなさいと言ってくれた。
その男性も50代半ば、仮にAさんとさせて頂く。

東京から来たと僕が言うとAさんは「私も出稼ぎで20年東京に行っていました」と話し始めた。
レインボーブリッジや東京湾アクアラインなどの工事に携わり、
5年前に奥さんと子供が待つふるさと南三陸町に戻ったのだと言う。
地震の時、海岸近くの工事現場にいたAさんは慌てて車に乗り、会社のある高台に向かった。
携帯電話で何度も自宅に電話を掛け、やっと一度だけ繋がったが誰も出なかった。
もう逃げたんだろうと少し安心をした。
車の後ろから津波が迫ってくるのが分かった。
猛スピードで坂を上り切り、振り返るとすぐそこが海になっていた。
それから数日間、高台の上で水が引くのを待ち続けた。

子供たちは無事だったが、奥さんの行方は分からなかった。
思い当たる所を探しにいったが、一面の瓦礫の山を前に何も出来なかった。
そして、僕が訪れた1週間程前、奥さんと思われる遺体が見つかったと連絡が入った。
顔の半分、口から上はぐしゃぐしゃになっていた。
仕事の為につけていたネームプレートがあったおかげで、本人だと確認できた。
A さんは表情を変えずに淡々と話し続けた。
僕はAさんの顔を見つめながら、それ以上何も言うことは出来なかった。

Aさんが立ち上がり、最初に話しをした男性が戻って来た。(仮にBさんとさせて頂く)
 
Bさんは町役場に勤めていて、夜になると避難所の責任者としてここに来るのだと言った。
どんな援助が必要ですか?と聞くと、
「水や毛布などはもう足りています。食料なら米と野菜、なんとか食べていけるようになると人間は少しでも美味しい物が欲しくなるんです」
カップラーメンやインスタント食品ばかりの毎日がもう一ヶ月近くも続いているそうだ。
「あとは子供のお菓子やおもちゃ・・・でも一部の人にだけ与えると、他の人たちから文句が出るんです。平等にしなければいけないのが大変なんです」
例えば一つの避難所で一人一人に1万円が支給されたとする。
すると他の避難所からは必ず文句が出る。
南三陸町にある避難所は現在40カ所ほど。
大きな避難所にはテレビの取材や芸能人がやってくる。
全国から様々な支援物資も届く。
しかし、その全てに芸能人が来る訳ではない。
その全てに炊き出しが来る訳ではない。
50人ほどが暮らす小さな避難所にはなかなか援助の手は回ってこない。

今回の震災で問題とされていることの一つが「格差」だ。
大きな被害を受けた岩手、宮城、福島、それぞれの県で事情は全く違っている。
宮城県の中でも石巻とこの南三陸町の事情は全く違っている。
石巻では被害を受けた海岸部以外、商店や飲食店は徐々に再開し始めている。
石巻ではビールを飲みながら回転寿しで食事が出来たし、
コンサートが行われたイオンには華やかな商品が並び人々の表情も明るかった。
しかし、南三陸町では町の中心が海の近くだったため、
役場も商店もホテルも飲食店もガソリンスタンドも全て壊滅した。
例えお金を持っても、買い物をするためには車に乗って1時間以上離れた隣町まで行かなければならない。
しかし、町でガソリンを入れることは出来ず、多くの人はその車さえ津波で流されてしまった。
人々は何もすることが出来ず、避難所で待ち続けるしかない。
数日前に電気は復旧したが、水はまだ出ない。
Bさんの表情は重く暗かった。

「私も母はまだ行方不明で弟は死にました。でも悲しいという感情にならないんです。弟の遺体を見ても涙も出ない」
淡々とそう語った。
役場に勤める人間として休日返上で働き、夜は避難所で寝ている。

今、この人たちに必要なのは、一人で思いっきり涙を流すための「家」と「時間」なのではないだろうか?
Bさんの話しを聞きながら、そう思った。
彼らには今、涙を流すための場所も時間もない。

全国から集まった義援金はまだ被災者に支払われていない。
支払われたとしても家が全壊した家族にわずか35万円だ。
財産のすべてを失った人が、元通りの生活を出来るようになるために僕たちが出来ること・・・その一つは義援金を送り続けることだと思った。
一度、募金をしたからと言って満足をしてはいけない。
彼らが家を建て、車を買い、酒を飲みながら美味しい食事が出来るようになるまで、
支え続けることが必要だと思った。

「みんなから忘れ去られるのが怖いんです」
今回出会った多くの被災者はそう言っていた。
テレビでは被災者の話しは減り、原発の報道が中心になりつつある。
別の大事件が起これば、被災地の現状を伝えるニュースはさらに減るだろう。
1年や2年で人々の生活は元通りにはならない。
被災地の全ての人に笑顔が戻るまで、彼らのことを忘れないこと。
僕にはそれだけの覚悟があるだろうか?
道のりはあまりにも長く遠い。

翌朝6時、目を覚ますと避難所の人々は掃除を始めていた。
川から汲んだ水を仮設トイレに運び、玄関を掃除し、ゴミの分別をしていた。
小学生ぐらいの子供が給水タンクからペットボトルに水を汲み、室内に運んでいた。
「そろそろたらの芽を取りに行かねば」一人の男性が言うと周囲の人々が初めて少し笑った。
ここで出会った人たちの顔を忘れてはならない、そう思った。

気仙沼に向けて車を走らせると、無惨に変わり果てた町が延々と広がっていた。

(被災地報告その3へ続く)










今、あなたに会える奇跡

2011年04月26日 06時49分11秒 | 被災地報告
CoFesta IN Shanghaiでお世話になったアニソン界のトップスター
JAM Projectの遠藤正明さんに同行して宮城県石巻市に行ってきました。
石巻は遠藤さんが高校時代までを過ごしたふるさと。
今回の震災で大きな被害を受け、家族や友達も被災しました。

仙台から車で石巻市内へ。
街は最初なんの変わりもなく見えたのですが、海岸に近づくにつれ様子は一変。





まるで空爆を受けた戦場のような風景が目に飛び込んできました。
今回、地震で倒壊した建物はほとんどなく、津波さえ来なかったらこれほどの被害は出なかったそうです。

遠藤さんの実家があるのは市内から少し離れた牡鹿半島の寄磯という集落です。
国定公園に指定された美しい土地。
小さな漁村が点々とあったのですが、
そのほとんどが津波に流され今では跡形もありません。
昔から津波の恐ろしさを知っていた住民は直ぐに高台に逃げました。
お母様もなんとか無事だったのですが、
数日間はそこに取り残され自衛隊のヘリコプターで救出されたそうです。

避難所となっている小学校には現在50人ほどが暮らしています。
電気が復旧したのは私たちが訪れた前日、
お風呂はボートに乗って自衛隊の軍艦まで行くそうです。
届けられた支援物資でなんとか食べては行けるのですが、
自宅や職場を失い、いつになったら普通の生活に戻れるのか、
まだ全く見通しは立たないと言っていました。

石巻市内、北上川の河口の中州には石ノ森萬画館があります。
ここは石巻が生んだヒーロー、シージェッター海斗のテーマソングを歌う遠藤さんにとって大切な場所でした。
そしてここで働く木村さんは、遠藤さんと同級生。
遠藤さんがその安否を心配していた大切な友人の一人です。



地震が起きた時、近くの魚市場にいた木村さんは急いで萬画館に戻りました。
従業員やお客さんを避難させ、自分も川を挟んだ高台にある日和山に急ぎました。
「あと10秒遅かったら・・・」
巨大な津波が木村さんの目の前に迫り、間一髪で助かったそうです。
明るく笑いながら話してくれましたが、
聞いているこちらの背中が凍り付きました。
「でも私が特別じゃないんですよ。生き残った人はみんな同じような経験をしています」



そんな友人を遠藤さんはきつく抱きしめました。
「いつも当たり前に思っていたことが、当たり前じゃないんだと気づきました・・・」
何度も何度もその肩を抱き、嬉しそうに笑いました。
僕がこの人と出会えたのも、奇跡なのだと実感しました。

少しでも石巻の人々を元気づけたいと遠藤さんは
JAM Projectの盟友、影山ヒロノブさん、きただにひろしさんと共に
再開されたばかりのイオンショッピングセンターでチャリティーコンサートを行いました。





集まった2000人近い観客の前で熱唱し、握手会が行われました。
一人一人の手を固く握りしめ、言葉を交わします。
最後の方ではいつしか握手がハグになっていました。

今、あなたに会えるのは奇跡なんだ・・・

その奇跡に感謝し、大切にするべきなんだと改めて思いました。
そして、もう一つの奇跡。
実は遠藤さん木村さんと僕は同級生だったこと。
今回のスタッフには他にも同級生が沢山いました。

「えー!もっと先輩だと思ってましたよ」

一気にみんなと親近感が湧きましたが、
僕はそんなに老けて見えるのだろうか?


左からイオンの担当者、イベント制作の鈴木さん、萬画館の木村さん、遠藤正明さん、マネージャーの桑垣さん、私

「もうすぐ子供の日なのに鯉のぼりがどこにも無かったんですよ」
木村さんは瓦礫の掃除をしながら萬画館の横に鯉のぼりを掲げました。



「いつかこの萬画館でアニソン歌手を沢山集めてライブをしよう!」
遠藤さんは木村さんとそんな夢を話し合っていました。
そんな夢を実現させるのが、生き残った者に与えられた使命なのかもしれません。


大きな被害を受けた海岸部で奇跡的に残った萬画館(奥の白い建物)