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東京から徳島の山奥へ移住したテレビディレクターの田舎暮らしドキュメント。毎日なんやかんややっとることの記録です。

被災地からの報告3 気仙沼市にて

2011年04月27日 13時47分03秒 | 被災地報告
24日、お世話になった南三陸町の避難所を出て車で気仙沼へ向かう。

途中、南三陸町の役場と災害対策本部が置かれているベイサイドアリーナへ。
ベイサイドアリーナの中は避難所になっているが、入り口付近まで寝ている人で溢れていた。
周囲には自衛隊やボランティアのグループのテントが立ち並んでいる。
少し離れた場所にプレハブの建物が並び、その一つが災害対策本部になっていた。
義援金を手渡し、少しだけ話しを聞いた。
今回、南三陸町で受けた衝撃はあまりにも大きかった。

海岸線を北上し、気仙沼市へ入る。
気仙沼市では商店なども次第に再開を始めているようだった。
小さな商店の女性が、店先で大量の食器を洗っていた。
市役所に行き、義援金を手渡す。
目黒から来たと告げると
「目黒からは本当にたくさんの支援を頂いています」
と担当の女性が言ってくれた。

その後、気仙沼漁協を訪問。
ここでも少しばかりの義援金を手渡す。
対応して頂いた方は、
「ありがとうございます。今年も目黒に行けるように頑張ります」
と力強く語った。
その言葉を聞いて僕の方が逆に勇気をもらった。
この人たちともう一度目黒で会えるように、出来るだけのことをしたいと思った。

被害を受けた港へ向かう。
海岸近くの建物は破壊され、船は黒く焼けこげていた。
しかし、魚市場の中はすっかり奇麗に片付けられていた。
1日も早い市場の再開を、そんな思いでみんなが必死に片付けたのだろう。
少し希望の光が見えたような気がした。


気仙沼港


焼けこげた船


港から対岸を見る


海岸近くの町


海岸近くの町2


打ち上げられた船



今回の被災地訪問で思ったこと・・・。

わずか3課間で僕が目にした光景は被災地のほんの一部に過ぎない。
全体の被害を考えると、自分一人で何が出来るのか?その無力さに愕然とする。
テレビや新聞の報道で伝えられることは、あまりにも大きな被害の一部だと思った方がいい。
「○○さんが避難所を訪れ、人々に笑顔が戻った」などという記事があっても、
それは全体のほんの一部に過ぎない。
それ以外の数えきれない被災者を想う想像力が必要だ。
そして、全ての人々に笑顔が戻るまでには、長い年月が必要だと言うことを忘れてはならない。

そんな彼らのことを忘れないためには、お互いの顔が見える支援が必要だと思った。
目黒と気仙沼は友好都市協定を結んでいる。
もっと彼らを身近に感じることが出来るよう、また足を運んでみようと思う。


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